荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ヤン・コット 著『カディッシュ』

2016-03-05 06:50:10 | 
 先日、岸田戯曲賞が発表され、タニノクロウが昨年夏に上演した『地獄谷温泉 無明ノ宿』(東京・森下スタジオ・Cスタジオ)が受賞した。これまでタニノ率いる「庭劇団ペニノ」はずっと見てきたのに、残念ながらこの上演にかぎって見逃してしまったのだった。そして、タニノクロウの次の作品『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』を見ることができたのは、昨年のクリスマス前、東京・池袋の東京芸術劇場アトリエイーストでのことだ。
 『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』は、一言で言えば感動だった。物語が泣けるとか演技がいいとかそういう「演劇的」なレベルではなく、その場の状況そのものが夢魔的で、不可思議で、霊的だった。寺山修司をジャック・リヴェット的なテアトル・アパルトマンの精神で上演したかのようだ。場内は真っ暗で、私たち観客にロウソクのような小さな照明器具がチケット売場で貸与される。暗い場内で観客のもつ灯りが、薄ぼんやりとした天の川を形づくっている。
 その暗闇に、5人のドワーフ(小人)たちが入場し、おそるおそる進み出て、真夜中の校舎かデパートを探検するかのように、肝試しに精を出す。上演アトリエのなかで立ち尽くす私たちのあいだをすり抜けて進んでゆく。「誰かいるぞ!」彼らはひそひそと言い合いつつ、あたりに警戒を強めるが、彼らの目にはどうやら私たち観客が見えないらしい。つまり私たちは、肉眼では見えない心霊か亡霊に仕立て上げられているのだ。

 観客は生きたまま、闇の奥に葬られ、死者の役柄を強いられる。生者が死者に転じ、死者が現世に甦ってくる。この可逆的な生死通行手形を発給することが、ここでは演出という技になっているらしい。演出のタニノクロウは、その特徴的な風貌を隠すことなく、暗闇の中で観客と共にドワーフたちのおっかなびっくりの小冒険を眺め、声なくあやつっている。演出家が舞台にその姿をさらし、オーケストラの指揮者以上の縦横無尽さをもって上演を操縦する。
 これは、ポーランドの劇作家・演出家タデウシュ・カントルのやり方である。『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』のタイトル上にカントル(カントール)の名が敬意をもって冠されているのはそのためであろう。

 『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』に感化された私は、年をまたいでタデウシュ・カントルについての文献に少しずつ目を通しているところである。そのさなかに出会ったのが、ポーランドの劇評家ヤン・コットによって書かれた『カディッシュ』(1997)である(邦訳 未知谷刊 2000)だ。なんという美しい書物。小さく薄いページにあふれる、鋭く的確な言葉の数々。演劇批評の名著は世に数多くあるだろうが、この書から放たれるブラックライトのような──暗闇の中でぼんやりと、しかし見えないはずのもの、見てはいけないものまでを照らし出してしまうかのような──洞察、記述に舌を巻くしかなかった。
 私たち観客は演劇を見ながら死者となり、この小さな薄い本の導きによって、おのれが片足を墓穴に入れた亡霊の仲間であることを自覚する。私は将来、黒い表紙をもつこの『カディッシュ』という本を、忌の際のベッドサイドに置いて、生死交換の可逆性に思いを馳せながら、逝きたいとさえ思っている。