荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『サンローラン』 ベルトラン・ボネロ

2016-01-03 11:25:18 | 映画
 この映画の無駄な時間の使い方はおもしろい。ただ主人公がしなを作って部屋の中でたたずむとか、考え事をするとか、画面のための画面を浪費する。そこには映画的(活劇的)なモンタージュもなければ、だからといって長回しの陶酔的持続もない。しなを作ってポーズを取るというような、フェリーニ的な空間の浪費である。
 イヴ・サンローランの役はサンローランのそっくりさんみたいな俳優(ギャスパール・ユリエル)が演じているが、興味深いのは、老境に達したサンローランを往年のヴィスコンティ俳優ヘルムート・バーガーが演じていることだ。イヴ・サンローラン自身がその創造源としたプルーストの小説、マティスとモンドリアンの絵画、モーツァルトのピアノ協奏曲などと並び、ルキノ・ヴィスコンティの映画もまた重要な位置を占めているそうだから、そうした目配せによるキャスティングだろう。
 しかしこれは単なるオマージュ的な配役ではない。時代の遺物と化し、鬱が進行し、孤独に耐える老いたサンローランを、ヘルムート・バーガーは崩れ落ちる一歩手前までのぎりぎりの脆弱性をもって表現してみせる。いっぽうで、彼の集めた美術品や骨董のコレクションは今なお、生き生きと美を誇るのが、画面内で嫌味なほどに強調される。脆弱さ、強引さ、粗暴さを画面に引き入れたのは、これまた極端な対位法的撮影で見る者を震撼させた諏訪敦彦『ユキとニナ』(2009)のカメラマン、ジョゼ・デエーである。
 さらに、サンローランの少年時代の母親を演じているのが、ドミニク・サンダというのも怖ろしい。(筆者が最初に見たヴィスコンティ作品である)『家族の肖像』(1974)ではヘルムート・バーガーとドミニク・サンダは愛人同士として共演しており、(つい数年前WOWOWで初めて見ることのできた)ヴィットリオ・デ・シーカの哀切きわまりない『悲しみの青春』(1971)ではユダヤ系ブルジョワジーの兄妹として共演していた。そんなサンダが主人公の少年期の母親を演じ、バーガーが主人公の老後を演じる。このなんとも倒錯的な、ある種、時代を跳躍した近親相姦のようなキャスティングの妙。
 ヴァレリア・ブリュニ=テデスキが演じる上流夫人がサンローランのメゾンを訪れ、出来上がってきたマスキュランなスーツを試着するシーンがすばらしい。はじめ「こんな男物みたいなスーツ…」と言って戸惑う、ややシャイな彼女に対して、サンローランが間髪入れずに着こなし方、ヘアスタイル、歩き方まで指南し、みるみるうちに彼女が自信を得ていき、「私はたった今、別人になろうとしている」とまで言わしめる。「ライバルがいないのが悩みなんです」と悪びれずに答えるサンローランは、美の求道者、いや殉教者である。彼の心身は過労、鬱症状、アルコール依存、薬物依存、そして喪の感情に満たされて崩壊寸前である。しかし、マヌカンたちがランウェイを歩く、それを呆然としたような仰角ぎみの横移動でジョゼ・デエーがフォローするとき、軽薄の上に不意に陶酔的な美が現出していた。『シュプール』『ヴォーグ・ジャパン』『ハーパーズ・バザー』の編集長を歴任した村上啓子氏は本作HPのなかで、次のように書いている。すばらしい一節である。
「私の見たサンローランのオートクチュールは、手仕事の粋を尽くした別格の美の世界だった。溢れんばかりの薔薇の生花で装飾されたインターコンチネンタルホテルの豪華な会場で繰り広げられた芸術的な作品の数々、そしてフィナーレに登場したサンローランの姿は背中を丸め、歪んだ笑顔をふりまく純粋無垢な美の殉教者だった。鳥肌が立ち、涙が止まらなかった。観客は総立ちになった。」


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国順次公開
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