荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ハンガー・ゲーム』サーガをめぐる簡単な総括

2016-01-08 23:36:13 | 映画
 昨年の年末興行が始まる直前に、『ハンガー・ゲーム』が全4話にして完結した。原作も知らぬ一般客に過ぎないこちらとしては、「FINAL」と銘打たれたシリーズ第3作を最終話だと早合点して劇場に足を運び、「やけに間延びした展開だ」といぶかしげに見ていると、何の解決も見ないまま、ヒロインがただ苦悩したまま終わってしまい、なんと真の最終話となる第4作の予告がアナウンスされて締めるという、啞然とさせられる経緯もあった。あの商法は『ハリー・ポッター』を思い出させたが、その最終話『ハリー・ポッターと死の秘宝』がパート1とパート2に分かれていることはあらかじめ観客に告知されていたので、今回の『ハンガー・ゲーム』ほどのあこぎさはなかった。
 『ハンガー・ゲーム』サーガはティーンエイジャー向け小説を原作とするSFファンタジーで、青春映画の恋愛要素も加味されている。そういう意味では『トワイライト』サーガに近い。アメリカでの熱狂が日本の観客にまったく響かないという点も、似ている。しかしながら、奇妙な展開を呼び込んでしまった原因としては、『ハンガー・ゲーム』と『ハンガー・ゲーム2』のあいだに『世界にひとつのプレイブック』が公開され、ヒロインのジェニファー・ローレンスがオスカーを受賞したという経緯がある。ジェニファー・ローレンスが個性派若手女優としてビッグになりすぎて、『ハンガー・ゲーム2』の時点ですでに主演女優の格とシリーズのサイズ感(予算はA級大作なのに、内容は陳腐なB級路線という最近よくあるサイズ感。マイケル・ベイがその最もダメな例だろう)の関係性が狂ってしまった。
 『ハンガー・ゲーム』第1作の肌触りは独特で、筆者はそれに魅了されたひとりである。近未来でありながら前近代であり、文明の退化したヒロインの故郷が映画の前半をフォークロアに染め、後半は一転、フリッツ・ラング『メトロポリス』、のちにトリュフォー『華氏451』やゴダール『アルファヴィル』、ポール・バーテル『デス・レース2000年』などで見られる戯画化されたファシズム型の未来都市で、プロパガンダ的なリアリティショーに翻弄される少年少女たちを演出する。主人公はプロパガンダ番組のシンデレラへと出世する。
 日本の小説『バトル・ロワイヤル』の英訳が刊行されているアメリカでもその類似性が指摘された「ハンガー・ゲーム」という、少年少女たちによる生き残りゲームが、真に催行されるのは第1作のみに過ぎない。第2作でも大会は開かれるが、これはプレーヤーたちが、民主化への希望のアイコンと化したジェニファー・ローレンスを勝たせるための出来レースを仕組んで、ゲームを無化するという種明かしだった。その後ゲームは、崩壊したアメリカ合衆国の後継国家であるファシズム国家「パネム」全体に波及し、ファシズム体制を維持しようとするドナルド・サザーランド率いる「キャピトル」と、革命を計画する「第13地区」の指導者ジュリアン・ムーアの戦争ゲームに拡大する。ヒロインのジェニファー・ローレンスは象徴へと祭り上げられ、事実上、第1作のようなゲームそのもののルールを破壊する危険分子であることをやめてしまう。
 第1作を見たあとに筆者が夢想したサーガの結末はこうだ──次回第2作でヒロインのジェニファー・ローレンスは、ジャンヌ・ダルクのように英雄的な死を遂げる。そもそもジェニファー・ローレンスが戦士として立候補したのは、まだ幼かった妹(ウィロウ・シールズ)がプレーヤー選抜の抽選に当たってしまったための苦渋の決断だった。妹役のウィロウ・シールズはいずれ、この恩に報いなければならない、と筆者は考えた。姉の犠牲のあと、革命の旗を拾って、人民に号令をかけるのは、美しく成長した妹であろうと。言わば、ロシア革命直後に製作されたプドフキン『母』(1926)の感動的なラスト──母は一人息子の革命参加を苦々しく思っていたが、息子が帝国軍に殺されたあと、ついに覚醒し、息子の遺志を継いで赤旗を拾い上げる──の再現となるであろうと。大島渚を見て育った者としては、そういう夢想が最もしっくりくる。
 しかしじっさいの『ハンガー・ゲーム』は、両陣営のメディア戦略に挟まれ、単なるアイコンと堕したジェニファー・ローレンスの、主体性喪失の苦悩と身の処し方にサーガ全体を浪費することになってしまった。闘争そのものも対ファシズム・レジスタンスではなくなり、最後は、革命陣営の首相ジュリアン・ムーアのブレインを担当していた車椅子のゲームメイカー、フィリップ・シーモア・ホフマンが、戦闘で生き残った中から温厚冷静な女性将校を暫定大統領に擁立して一人勝ちする、という皮肉に満ちたゲームセットが用意されていた。しかも周知のごとく、フィリップ・シーモア・ホフマン自身が薬物中毒でとっくにこの世を去っているのに、第3作、第4作とわれわれは追悼の意識を背負いながら、彼の演じるニヤけたゲームメイカー役を見なければならない。『ハンガー・ゲーム』というシリーズは、「ハンガー・ゲーム」のしくみを否定しながら、その否定の身ぶりそのものを再ゲーム化することで、それを再び「ハンガー・ゲーム」と名づける、という構造を持つに至った。ヒロインのジェニファー・ローレンスはシリーズの途中でゲームから後退し、最後は決定的な役割を演じつつも、最後の最後にはフォークロア性に回帰する。村の肝っ玉おっ母となったヒロインの姿にハッピーエンドを見るべきか? それははなはだ疑問に思える。

『サンローラン』 ベルトラン・ボネロ

2016-01-03 11:25:18 | 映画
 この映画の無駄な時間の使い方はおもしろい。ただ主人公がしなを作って部屋の中でたたずむとか、考え事をするとか、画面のための画面を浪費する。そこには映画的(活劇的)なモンタージュもなければ、だからといって長回しの陶酔的持続もない。しなを作ってポーズを取るというような、フェリーニ的な空間の浪費である。
 イヴ・サンローランの役はサンローランのそっくりさんみたいな俳優(ギャスパール・ユリエル)が演じているが、興味深いのは、老境に達したサンローランを往年のヴィスコンティ俳優ヘルムート・バーガーが演じていることだ。イヴ・サンローラン自身がその創造源としたプルーストの小説、マティスとモンドリアンの絵画、モーツァルトのピアノ協奏曲などと並び、ルキノ・ヴィスコンティの映画もまた重要な位置を占めているそうだから、そうした目配せによるキャスティングだろう。
 しかしこれは単なるオマージュ的な配役ではない。時代の遺物と化し、鬱が進行し、孤独に耐える老いたサンローランを、ヘルムート・バーガーは崩れ落ちる一歩手前までのぎりぎりの脆弱性をもって表現してみせる。いっぽうで、彼の集めた美術品や骨董のコレクションは今なお、生き生きと美を誇るのが、画面内で嫌味なほどに強調される。脆弱さ、強引さ、粗暴さを画面に引き入れたのは、これまた極端な対位法的撮影で見る者を震撼させた諏訪敦彦『ユキとニナ』(2009)のカメラマン、ジョゼ・デエーである。
 さらに、サンローランの少年時代の母親を演じているのが、ドミニク・サンダというのも怖ろしい。(筆者が最初に見たヴィスコンティ作品である)『家族の肖像』(1974)ではヘルムート・バーガーとドミニク・サンダは愛人同士として共演しており、(つい数年前WOWOWで初めて見ることのできた)ヴィットリオ・デ・シーカの哀切きわまりない『悲しみの青春』(1971)ではユダヤ系ブルジョワジーの兄妹として共演していた。そんなサンダが主人公の少年期の母親を演じ、バーガーが主人公の老後を演じる。このなんとも倒錯的な、ある種、時代を跳躍した近親相姦のようなキャスティングの妙。
 ヴァレリア・ブリュニ=テデスキが演じる上流夫人がサンローランのメゾンを訪れ、出来上がってきたマスキュランなスーツを試着するシーンがすばらしい。はじめ「こんな男物みたいなスーツ…」と言って戸惑う、ややシャイな彼女に対して、サンローランが間髪入れずに着こなし方、ヘアスタイル、歩き方まで指南し、みるみるうちに彼女が自信を得ていき、「私はたった今、別人になろうとしている」とまで言わしめる。「ライバルがいないのが悩みなんです」と悪びれずに答えるサンローランは、美の求道者、いや殉教者である。彼の心身は過労、鬱症状、アルコール依存、薬物依存、そして喪の感情に満たされて崩壊寸前である。しかし、マヌカンたちがランウェイを歩く、それを呆然としたような仰角ぎみの横移動でジョゼ・デエーがフォローするとき、軽薄の上に不意に陶酔的な美が現出していた。『シュプール』『ヴォーグ・ジャパン』『ハーパーズ・バザー』の編集長を歴任した村上啓子氏は本作HPのなかで、次のように書いている。すばらしい一節である。
「私の見たサンローランのオートクチュールは、手仕事の粋を尽くした別格の美の世界だった。溢れんばかりの薔薇の生花で装飾されたインターコンチネンタルホテルの豪華な会場で繰り広げられた芸術的な作品の数々、そしてフィナーレに登場したサンローランの姿は背中を丸め、歪んだ笑顔をふりまく純粋無垢な美の殉教者だった。鳥肌が立ち、涙が止まらなかった。観客は総立ちになった。」


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国順次公開
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