荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ミス・マヌエラの旧居をたずねる

2012-07-20 00:54:11 | 身辺雑記
 友人Hからメールをもらった。曰く「上海といえば、魯迅も住んでいたという山陰路の大陸新邨というテラスハウスはまだ残っているのでしょうかね。堀田善衛の日記によると1945年10月の時点で水久保澄子がここに住んでいた(収容されていた?)ということで、彼女に関するこれが最後の消息なのではないかと思います。」
 これは、はなはだ興味深い物件である。成瀬巳喜男『君と別れて』や清水宏『大学の若旦那』(共に1933)などで愛くるしい姿を見せたトップアイドルの水久保澄子(1916-没年不詳)。彼女には家計トラブル、結婚トラブルが絶えず、自殺未遂のあとは20代で零落し、フィリピンで一児を産み落として、神戸でダンサーに転身したあと、戦時下の上海での目撃例が筈見恒夫、堀田善衛らに報告されているほかは、消息が謎のままとなっている。全盛期の愛くるしさをスクリーンを通して知る私たち現代人には、なんとも憐憫を誘う存在だ。戦後、フィリピンから青年が母親探しのために来日したが、名乗り出る者はいなかった。
 旅立ち前の予習不足のため、水久保澄子の旧居をたずねることまで思いつかなかったのは、私としては重大なエラーである。しかも魯迅も住んだ「大陸新邨」なら、どんなガイドブックにも載っている旧「日本租界」の住宅だから、難なくたずねられただろうに。まったくの余談で恐縮だが、水久保澄子の本名は「荻野」姓である。

 その代わり、と言っては失礼だが、同じく上海に単身渡った日本人女性、和田妙子(1911-2007)の旧居をおとずれた。この人は、大戦前夜の上海の夜を妖しく彩った国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ(ミステリアス・マヌエラ)」と紹介したほうがわかりやすい。「アルゼンチーナ」「ファーレンス」など、当時の一流ナイトクラブに出演し、一世を風靡した。
 くしくも水久保澄子とマヌエラは、同じくSKD(松竹歌劇団)出身。マヌエラが1期生、水久保が5期生だが、上海行きは水久保が一足ほど先輩である。同窓のよしみで、2人の女に現地でも交流がなかったとは言いきれまい。マヌエラが亡くなる2007年以前に、故・田中眞澄なり、誰かが水久保の「その後」を彼女に訊ねてみようと思ったことはないのだろうか? 1995年の時点で田中眞澄は水久保が「もう生きてはいまい」と言っているが。マヌエラは生前『徹子の部屋』にも出演しているから、案外そんなところで黒柳がいいことを訊いているかもしれない。

 ミス・マヌエラは上海ショービジネス史という観点からは第一級の存在だが、阮玲玉や聶耳とちがい、しょせんは敵国出身のダンサーである。文物保護指定もされず、記念碑も銅像ももちろんない。道路と敷地の境界には黒い鉄製の格子戸が閉まり、建物はおろか敷地内にさえ立ち入ることができない。
 かつてのフランス租界にある旧居は、地下鉄1号線・7号線「常熟路」駅下車、ほこりっぽい華亭路を少し北上し、「結核病防治中心」で右折、湾曲した延慶路を行くと、五叉路の左手に瀟洒な出窓のしつらえられた2棟の古いアパートに出る。奥の棟がミス・マヌエラの旧宅である。往時の彼女は、「アルゼンチーナ」「ファーレンス」へ出勤するために、夕方になるとアパートを出て道路を反対側に渡り、タクシーを拾っただろう。そしてリュー・アミラル・クールベ(現・富民路)を北上し、アヴニュー・フォッシュ(現・延安西路)で左折したにちがいない。

P.S.
 今年初めて見た三隅研次の『女妖』(1960)には、戦前にダンサーとして成功するために単身上海に渡った女の娘(叶順子)が母の死後に来日して、東京で流行作家となった父(船越英二)をたずねてくるというエピソードがある。原作者の西條八十としては、ミス・マヌエラの追憶が重なっているのではないだろうか。西條八十とマヌエラにSKD時代、上海時代を通して交流がなかったとは考えられないから。
 「中国残留孤児」の帰国運動が開始されるはるか以前、そして文化大革命の猛威が吹き荒れる前夜の1960年につくられたこの映画における叶順子は、あまりにも洗練されている。それはあたかも、両大戦間期のモダニズムが産みだした仇花のごとしである。ショービジネス界の里親に育てられれば、叶順子のような残留孤児もあるいは登場し得たのだろうか。

(以上、3回をもって、上海の気になる人物の生の痕跡をたずねる1時間半の旅日記を終了とします)

聶耳の旧居をたずねる

2012-07-19 00:00:15 | 身辺雑記
 上海市内にある、中華人民共和国国歌『義勇軍行進曲』の作曲家・聶耳(ニエ・アル 1912-1935)の旧居をたずねた。地下鉄1号線・7号線「常熟路」駅下車すぐ、旧フランス租界のど真ん中、アヴニュー・ジョフル(現・淮海中路)に面したアパートの3階。早熟の天才はよく、階下に住むロシア婦人のピアノを借りて弾いていたという。上海市徐匯区の「文物保護単位」に指定されている旨、アパートの側面外壁に2009年12月公布の記念プレートが張り付けられていた。

 聶耳は中国国歌の作者としてよりも、私たち映画ファンにとっては、一度聴いたら忘れない旋律を書く映画音楽作曲家として親しみ深い(というより、中国国歌ももともと映画音楽なのだが)。『大いなる路』について記事を書いたときに言及したとおり、1935年7月17日午後、友人と遊泳中の神奈川・鵠沼海岸で水死した。享年23。
 今年が生誕100周年の彼は、女優の阮玲玉より2歳年下だが、彼女の死と同じ年の4ヶ月後に惜しくも命を落としたことになる。スタンリー・クワンの『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1991)では聶耳の役はフー・チョンが演じている。
 聶耳が長生きすれば人間国宝級の巨匠として遇されることになっただろうし、豪邸に住むことにもなったろうが、私がたずねたアパートは、都心から至近とはいえ一戸あたりの面積はかなり狭そうだった。しかし、20世紀初頭らしいモダンで小粋なデザインだ。通常なら、23歳で住むには上等すぎる。
 ここから淮海中路を1kmほど東へ歩くと、1932年築の「国泰電影院」(旧キャセイ・シアター)が、今もなおアール・デコ調の偉容を誇りながら上映を続けている。聶耳はここで最新ハリウッド映画の作曲法に刺激を受けたり、時には自分のかかわった新作を女友だちと一緒に愉しんだかもしれない。
 それにしても彼の名前は、耳が4つ。音楽家とはいえ、風変わりな名前である。

阮玲玉の旧居をたずねる

2012-07-18 01:53:40 | 身辺雑記
 蘇州から上海に帰ってきた翌日となるきのう、夕方2時間ほどのあいだに、気になる故人の旧居を急いでたずね歩くことにした。

 1920年代末から30年代に活躍した上海映画の女優・阮玲玉(1910-1935)の旧居は、上海市静安区の「名人名居文化游 A線」に指定されている。地下鉄1号線「漢中路」駅で下車し、恒豊路を南下。そのまま高架橋で呉淞江という川を渡り、大閘路で右折。東京の同潤会を彷彿させる「沁園邨」(1932年建造)という古風で静謐な数棟のアパート群のなかに、阮玲玉の旧居はあった。敷地との境界線にはアーチが設けられ守衛も駐在しているが、私が入っていっても咎められることはない。この「沁園邨」には、双子女優で知られる梁賽珍、梁賽珠姉妹も住んでいたが、姉妹の部屋は「名人名居文化游」に指定されてはいない。
 阮玲玉というと、スタンリー・クワン監督の伝記的ドキュドラマ『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1991)でマギー・チャンが力演した民国時代の最大のスターであるが、異性関係のスキャンダルが報じられるなか、「人の言葉はおそろしい」の遺書をのこして1935年3月7日夜、この「沁園邨」9号の自室にて睡眠薬自殺を遂げた。享年24。

 夕闇迫るなか、日没前にアパートに辿り着きたいとあせったが、ぎりぎり間に合ったか。高層ビルがニョキニョキとそびえ立つ周囲のなかで、このアパート群だけはあたかも阮玲玉の高潔なる亡霊に守られるようにして、時間の止まったように静謐に往時の面影を残していた。「名人名居文化游」の記念プレートは埋め込まれているが、とくに記念館めいた事業が展開されているわけでもなく、そこには現在の住人が普通に暮らしている。
 私がパチパチと、角度を変えながら何度もカメラのシャッターを押していると、道行く人が私の視線の先に何が見えるのかと不思議そうに目で追いながら、通り過ぎていった。

蘇州にて

2012-07-16 00:44:02 | 身辺雑記
 上海を経由して陸路、江蘇省の蘇州市に来ている。
 蘇州といえば日本人にはなんといっても、李香蘭主演・伏水修監督の佳作『支那の夜』(1940)の劇中歌「蘇州夜曲」だが、2002年に田壮壮がリメイクした中国映画史上最高傑作のひとつ『小城之春』(1948 監督・費穆)における運河を滑っていく舟から見た緩やかな横移動ショットが思い出される。山村聰の『鹿島灘の女』(1959)ではないが、水郷とはなんと良いものであろうか。
 前にも拙ブログに引用したことがあったかもしれないが、呉中四傑のひとり高啓(1336-1374)の詩《尋胡隠君》が思わず口をついて出てしまう。春の散歩を詠った季節はずれの詩ではあるが、簡単だからすぐに暗記できる。

尋胡隠君  高啓(明初)

渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覺到君家

(読み下し)
水を渡り また水を渡り
花をみ また花をみる
春風江上の路
覚えず君が家に到る

 ここで言う「君家」というのは決して女の家ではないのである。詩・画・書について遠慮なく話し合える親友を意味している。高啓がふらふらと水辺を散歩していたら、いつのまにか親友の住まいに着いてしまった。おそらくその手には、上等な酒瓶が吊り下げられていたことだろう。すばらしいイメージの緩やかな移動感である。きょう私は、水路を滑る小舟に乗りながら、それをまさに体感した。

ハロルド・ピンター作『温室』(演出 深津篤史)

2012-07-13 01:42:35 | 演劇
 関西の「桃園会」を主宰する深津篤史が、ハロルド・ピンター(1930-2008)作『温室』の国内初上演の演出を試みている(東京・初台 新国立劇場小劇場)。この戯曲はピンターのデビュー翌年の1958年に執筆されたが、著者自身によって封印され、1980年になってから上演に値すると判断され、ようやくロンドンで初演を見た曰くつきの問題作という位置づけとなる。封印の解かれた背景には、世界的な思想・政治の保守化、右傾化に対する危機意識が反映していることだろう。ピンターは映画ファンにとっては、ハリウッドの赤狩りを逃れてイギリスに亡命したジョゼフ・ロージー監督の『できごと』『召使い』『恋(The Go-Between)』という歪んだ諸作によって知られている作家である。
 書かれてから四半世紀近く放置されたこの作品は、その空隙の長さゆえにかえって今なお鋭利さを失っていないように思える。歪曲された饒舌と伝達の不全、突如とした暴力が、つねに唸りをあげている。舞台は有楽町の交通会館のように緩やかに回転し、視点は不断に更新される。俳優の立ち位置はあやふやなものとなり、私たち観客は俳優=役柄の同一性を疑ったままとなる。写真(許諾時間に撮影)に見られるように、調度品はすべて真っ赤に塗装され、『時計じかけのオレンジ』の冷たく滑稽なロンドン、そしてあのベートーヴェンを媒介とする暴力緩衝装置を可逆的に予告しているかのようである。あるいは、フラー『ショック集団』の環境を管理者側の不安から見たとでも言うべきか。ナンセンスなダイアローグは、くり返される俳優たちのディシプリンによって他声的、複声的なノイズと化し、日常性を遙かにヒューズのとんだ状態に持って行っている。
 停滞し閉塞する日本の現況において、ハロルド・ピンターのような鋭利な作家が採り上げられることじたいが稀な機会となってしまったが、深津による油断ならぬ演出は、上演機会の希少性に自足しない地点にまで達していた。この演出家には、今後も20~21世紀のレパートリーをさまざまに料理してもらいたい。