荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『悲しみの青春』 ヴィットリオ・デ・シーカ

2012-03-27 00:22:28 | 映画
 紀伊國屋レーベルからDVDでリリースされたヴィットリオ・デ・シーカの『悲しみの青春』(1971)が見る者の涙腺にもたらす緩みは、どちらかというと、怠惰な感性の持ち主どうしが交わしあう憐憫の風土に属するだろう。冒頭のタイトルバックで、純白のテニスウェア姿で自転車にまたがった一群の若い男女が、名家の広大な庭園内をなめらかに走り抜けていくとき──そこには美しすぎる陽光が、青すぎる木々の茂みが、穏やかすぎる真昼の風が、監督の息子マヌエル・デ・シーカの音楽に乗って通りすぎていくのである。まさに春風駘蕩の境地であり、こうした掛け値なしの幸福の瞬間を描ける映画作家は、ジャン・ルノワールは別格として、ほかにあと幾人も残っていまい。
 しかし、この春風駘蕩というものは案外いつも脆弱なガラス細工なのであって、強靱なるストイックな映画学徒にとっては、あまり肌の合わない作品かもしれない。なまじベルリン映画祭で金熊賞を受賞したばかりに名作扱いされてはいるけれど、むしろ「押し」が効くのは前年の『ひまわり』のほうだろう(そういえば、デ・シーカと名コンビの脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニを助けて『ひまわり』を共同で書いたトニーノ・グエッラが、21日に亡くなってしまった…合掌)。

 1930年代、北イタリア。ファシスト勢力の台頭にもかかわらず、まもなく零落するだろう自分たちの未来にまったく頓着していないユダヤ系の名家がある。美貌の令嬢(ドミニク・サンダ)、その病弱な兄(ヘルムート・バーガー)、そしてこの家に出入りし、令嬢を愛してやまぬ文学青年(リーノ・カポリッキオ)。この3人の男女は三角関係を形成する時間さえも持たぬまま、ファシズムの荒波に飲まれ、生を消尽していく。まったくイタリア人らしくない容貌であるブロンドヘアの彼ら(おそらく東欧から流れてきたユダヤ教徒の末裔という設定か?)は、自分たちのことを「黒人」と呼ぶ。この無責任な自嘲によっては当然、何も救われないことを彼らはどこまで理解していたのか。
 ところで私見的解釈だが、ドミニク・サンダがカポリッキオを捨てた理由は、カポリッキオに同性愛的思慕を寄せている自分の兄を思いやってのことだろう。映画史上もっとも美貌の「おこげ」だ。
 同じような時代を扱った最近のイタリア映画に『愛の勝利を』(2009)がある。マルコ・ベロッキオによるこの傑作悲劇を、むせ返る芳香を放つアルコール度数の高いグラッパに喩えるならば、デ・シーカ晩年の傑作は、かき混ぜぬ砂糖がコッパの底でたっぷりと滞留したエスプレッソといったところ。パッケージ・デザインも作品の格調を物語っていて秀逸である。