荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『さのさ』(序文 石田民三)

2012-03-21 00:06:43 | 
 3月も後半の声を聞けば、各地の花街が競うように「~をどり」というようなものの開催を告知しはじめるが、たとえば京都・上七軒だと「北野をどり」の季節ということになる。貧乏暇なしの身上ゆえ、こういうものへ首尾よく出かけて行く日が到来するのかは甚だ心許ないが、その埋め合わせか、このたび珍しい『さのさ』なる296ページの和綴じ本に出会った。「さのさ」とは、明治から大正、昭和の長い期間にわたって、比較的気楽なお座敷で好んでつま弾かれた俗曲のジャンル名である。小唄、端唄をもっと通俗的にしたものと考えればよい。
 本書はそんな「さのさ節」の歌詞を美しい行書体で集成した和綴じ本であるが、特筆すべきは、序文を元・映画監督の石田民三が書いていることである。石田民三は『むかしの歌』(1939)、『花散りぬ』(1939)、『花火の街』(1937)など、J.O.スタジオおよびその後身の東宝初期に日本情緒を前面に押し出した作風で知られた戦前の名匠。1947年に45才の若さで引退し、以後は京都花街のひとつ上七軒の御茶屋「万文」主人の座に収まり、悠々自適の粋人生活を死ぬまで送った人である。
 あまり世間で見られる本でなし、やや冗漫なる振舞いながら、石田による序文全文をここに転記するとともに、興に乗って「さのさ節」の中からいくつか、佳さげなものを挙げておきたいと思う。


さのさ談義    石田民三

 明治二十五年頃。法界屋と呼ばれる男女連れの芸人が月琴の伴奏で流し歩いた法界節──日清戦争の頃は時勢をもじって砲界ぶしなどとも書いたが──その月琴が三味線に代って歌詞もすこぶる情緒的になり節調も江戸前に洗練されて唄い出された物がさのさぶし──
 三十二年頃から流行し出してまたゝく間に全国を風靡したが日露戦争の頃には更に隆盛を極め爾来、大正昭和と曲節に多少の変化はあっても江利チエミの今日迄、実に四分の三世紀をすたることなく脈々と唄い継がれて来た──
 淡雪のように消えて行く流行歌の世界では実に稀有に属することである。
 江戸趣味と云うよりむしろ日本趣味とも云うべきその節調が庶民の胸をうつせいもあるだろうが多少の例外は別としてそのほとんどの歌詞に唄いあげられた義理人情の世界とか花街に生きる女人の哀歓とかに大衆は少なからず共感を持つせいであろうと思われる。
 併し、時勢は移る── この共感も我々年輩迄のこと、次の世代には当然他の流行歌と同じように消えて行く運命を辿るだろう。今の我々は「さのさ」の挽歌を奏でゝいるといえるのである──
   ○
 古賀一男、辻ます子、市村進の諸氏がこの消え行くものゝ情緒を惜んでこゝに二百に余る歌詞を採録した。同好の士として欣快の一語に尽きる。まだ若いこの人達が滅ぶるものゝ美しさをいつ迄も残そうと希うひたむきな努力は只の道楽などゝは云えぬものがある。上梓に当って心からなる歓びと敬意を捧げたい。
 丙午新春
 上七軒茅屋に於て──


♪四畳半
かけた三味線
しみじみ眺め
一でゆるめて二でしめて
三であなたの
気を引いて
しまひにゃ互に本調子

♪後朝(きぬぎぬ)に
主を送つて雨戸をあけて
アレ見やしゃんせ朝顔は
庭の枝折戸(しおりど)へ
からみつく
帰すまいとの
辻占(つじうら)か

♪今だから
意見するのぢゃ
ないけれど
こゝらが思案の仕所さ
水の深瀬と色恋は
深くなる程
身が立たぬ

♪紅帯(べにおび)を
解くもはづかし旅の宿
結ぶえにしの
幸せが
燃へてつぼみの
開く夜
恋の望みの乱れ髪

♪なんとなく
只なんとなく好きな人
逢へば互に知らぬ顔
仇な月日が
たつうちに
いつか逢へない
人となる

♪泉水に
泳いで居るのはありゃ金魚
あなたの心によく似てる
上辺はきれいに
見ゆれども
煮ても焼いても
食べられぬ

♪園に咲き
深山の奥に匂ふのも
同じ桜の色なれば
いづれ盛(さかり)も
一時の
散るも恨めし
夜半(よは)の風