壁の向こう側に誰かがいる。壁の中に住むという幻想的なイメージは、両大戦間期のリヨン駅(パリ南東部のターミナル駅)を小宇宙に見立てることによって、この時期に大輪の花を咲かせたスタジオシステム下のフランス映画の香しさを醸し出す。主人公たちの置かれたただならぬ状況をイメージとコンテクストの万華鏡によって化粧させ、変形させていくとき、スコセッシの手腕が異様なほど精気を帯びるのは、これまでのフィルモグラフィが雄弁に語るとおりだ。前作『シャッター アイランド』でも、孤島にしつらえられた巨大な精神科病棟が、「HUAC(非米活動委員会)の後ろ盾で設立された」とレオナルド・ディカプリオがすっぱ抜いた(ディカプリオの妄想だったとは必ずしも言えない)ために、映画はあらぬ方向へと活気を増していった。
リヨン駅の構内で売店をほそぼそと営みつつ近くのアパルトマンで古女房と隠棲する頑固爺が、ほかならぬ映画黎明期のパイオニア、ジョルジュ・メリエスであることが判明するまでに、さして労力は要しない。両大戦間期のパリは作家主義をいまだ生んでいないが、その萌芽は確実に見られるからである。現実のメリエスも落ちぶれて、『月世界旅行』(1902)などの主演女優だったジャンヌ・ダルシーと共にモンパルナス駅でおもちゃ屋兼ボンボン売りをしていることを、クロード・オータン=ララが1925年のエッセーに書いて、その後よく知られる史実となった。この映画の原作者が舞台を史実のモンパルナス駅ではなくリヨン駅としたことは、単に建築デザイン上の理由だろう。あるいは、あくまで推測だが、到着早々に暴走し、プラットフォームをそのまま突き抜けていってしまう列車は、南仏のラ・シオタ駅からではなくリヨン方面からやって来た(リヨンは映画の発明者リュミエール兄弟の本拠地であり、現在もリュミエール協会がある)という暗喩的事情を含んでいるということなのだろう。
「呪われた巨匠」に対してそれにふさわしい光を当てるオマージュ作業へと駆り立てる欲望は、堰を切ったように湧出する。少年の機械愛好、壁の向こう側からのフレーム内への覗き趣味、映画館への無賃入場など、シネクラブ運動に参画した若き情熱家のパターンを、少年は本能的に体現したことを知らねばならない。
そして、その体現の行き先がもはや宛先不明であるらしいことも。壁の向こう側の孤独な少年を物心両面で助けた少女のモノローグが、その顛末を遠慮がちに示唆しているのではないか。「私は、ある少年と出会ったことがある」と過去形で語られるモノローグは、それらがすでにかつて在ったもの、過ぎ去った過去の事柄であることを、事後報告的に小さな声で白状しているのである。
TOHOシネマズ有楽座(ニュートーキョービル)ほか、全国で公開中
http://www.hugo-movie.jp/
リヨン駅の構内で売店をほそぼそと営みつつ近くのアパルトマンで古女房と隠棲する頑固爺が、ほかならぬ映画黎明期のパイオニア、ジョルジュ・メリエスであることが判明するまでに、さして労力は要しない。両大戦間期のパリは作家主義をいまだ生んでいないが、その萌芽は確実に見られるからである。現実のメリエスも落ちぶれて、『月世界旅行』(1902)などの主演女優だったジャンヌ・ダルシーと共にモンパルナス駅でおもちゃ屋兼ボンボン売りをしていることを、クロード・オータン=ララが1925年のエッセーに書いて、その後よく知られる史実となった。この映画の原作者が舞台を史実のモンパルナス駅ではなくリヨン駅としたことは、単に建築デザイン上の理由だろう。あるいは、あくまで推測だが、到着早々に暴走し、プラットフォームをそのまま突き抜けていってしまう列車は、南仏のラ・シオタ駅からではなくリヨン方面からやって来た(リヨンは映画の発明者リュミエール兄弟の本拠地であり、現在もリュミエール協会がある)という暗喩的事情を含んでいるということなのだろう。
「呪われた巨匠」に対してそれにふさわしい光を当てるオマージュ作業へと駆り立てる欲望は、堰を切ったように湧出する。少年の機械愛好、壁の向こう側からのフレーム内への覗き趣味、映画館への無賃入場など、シネクラブ運動に参画した若き情熱家のパターンを、少年は本能的に体現したことを知らねばならない。
そして、その体現の行き先がもはや宛先不明であるらしいことも。壁の向こう側の孤独な少年を物心両面で助けた少女のモノローグが、その顛末を遠慮がちに示唆しているのではないか。「私は、ある少年と出会ったことがある」と過去形で語られるモノローグは、それらがすでにかつて在ったもの、過ぎ去った過去の事柄であることを、事後報告的に小さな声で白状しているのである。
TOHOシネマズ有楽座(ニュートーキョービル)ほか、全国で公開中
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