荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『二人の息子』 千葉泰樹

2016-04-17 17:10:18 | 映画
 シネマヴェーラ渋谷の千葉泰樹特集で『二人の息子』(1961)を初見。かねてより1960年代千葉では屈指の作品と友人から聞かされていたが、噂にたがわぬ素晴らしい作品だった。
 すでに暗くなっているヴェーラの場内に入り、急いで席に座ると、流れてくるのは数秒で伊福部昭とわかる音楽。ざっと「日本映画データベース」で検索しただけだが、本作が公開された1961年11月に伊福部昭が音楽を担当した作品は、11/1 三隅研次『釈迦』、11/8 伊藤大輔『反逆児』、11/12 千葉泰樹『二人の息子』と続いている。なんだろう、このすごさは。さらに翌年2/21には三隅研次『婦系図』、4/18 三隅『座頭市物語』、6/10 田坂具隆『ちいさこべ』もやっている。あまりにも偉大な音楽家である。その年の夏休みには当然『キングコング対ゴジラ』もある。

 一家の父の藤原釜足が嘱託の裁判所勤めをクビになったことから、長男・宝田明、次男・加山雄三、末っ子の藤山陽子の人生も狂わせていく。
 藤山陽子に捨てられて傷心の田浦正巳がカード占いで凶を引いて、やはりこれは悲劇に終わるのかと観客を不安にさせるのがいい。エリート社員の不誠実さに愛想を尽かし、元の鞘におさまって、貧しいながらも幸福をつかむ女性──というシナリオになるケースは多いが、今回、東宝の通常メジャー作品であっても、松山善三の筆は酷薄さをどこまでも失わない。
 はるか以前、シネフィリー全盛期に成瀬巳喜男の『乱れる』について、「松山善三のシナリオなのにすごい」とか「加山雄三でさえすごく見える」とかいう話がシネフィルのあいだで飛び交ったりしたのだが、そういう痛快な皮肉は『二人の息子』の前にあえなく否定される。田浦正巳の結末は凄惨である。
 この凄惨さ、私の勝手な連想に過ぎないのだけれど、昨夏に韓国文化院で見たユ・ヒョンモク(兪賢穆)の『誤発弾』に似通っていると思った。偶然にも同じ1961年の作品である。ソウルの貧困家庭を襲う不幸の連鎖。起こることの悲惨さ、救いのなさでは『誤発弾』に軍配が上がるが、画面から漂うエグミみたいなものは共通している気がする。作風が同じとか同時代性とかそういうことではまったくないのだけれど。


シネマヴェーラ渋谷(東京・渋谷円山町)千葉泰樹特集は4/22まで開催
http://www.cinemavera.com/

『デッドプール』 ティム・ミラー

2016-04-14 01:08:51 | 映画
 昨今のハリウッドはスーパーヒーロー物のオンパレードで、かなり食傷気味である。『アベンジャーズ』なんて、ハリウッド社会も日本のAKB商法を笑えない段階に来ている。この氾濫ぶりは、少年時代の夢を後生大事に守る成人男性が世界中に蔓延し、自我の温存に余念がないという時代が到来したことが唯一の理由だろう。
 食傷から身を守るには、確固とした映画観にもとずく腑分けしかない。そこで私は『トランスフォーマー』『ミュータント・タートルズ』のマイケル・ベイに汚い言葉を投げ、『アイアンマン』のジョン・ファヴローや『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のルッソ兄弟、あるいは『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のマシュー・ヴォーンに甘すぎる依怙贔屓をしてみたのだが、それも果たしていつまでもつことやら。
 『X-MEN』シリーズの最新スピンオフ『デッドプール』は、スーパーヒーロー物やアメコミ原作物に興味のない映画観客にとっては、コスチュームさえ『スパイダーマン』と見分けがつかないだろう。スーパーヒーローのヒロイズムそのものを否定し、ミュータント手術を施した敵をただただ追いかけ回す。遅かれ早かれ、こうした内部批判的、かつメタフィジカルな異色作が誕生するのは、誰でも予想のつくことで、そんな文脈から『アイアンマン』に輝きがあったのだ。
 今回の『デッドプール』は、『アベンジャーズ』環境ではなく、『X-MEN』環境の中でアイアンマンごっこをしようとするものだ。『X-MEN』の外伝といえば誰でも思い出すのは『ウルヴァリン』だろうが、異端派を気取ってもなんだかんだ言ってジャスティスを体現するウルヴァリンとも違って、デッドプールは個人的な遺恨やリビドーによってアクションを引き起こす。ウルヴァリンは外伝の登場人物から始まり、ジェームズ・マンゴールドによる日本遠征『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013)ではいったん味噌を付けたものの、翌年の『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014)では一転、正規メンバーのエースに躍り出ている。
 『デッドプール』はそれら『X-MEN』のセンターポジションとはおよそ無縁な、補欠レベルの物語である。『アイアンマン』に喩えたのは、さすがに褒め過ぎかもしれない。その精神性はむしろ『テッド』にさえ近いものだ。でもポテンシャルはある。本作に登場するX-MENメンバーも、ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドという小太りの少女と、その用心棒の垢抜けない超合金男コロッサスのみ。二人ともX-MENの中では、あまりランキングが高くなさそう。デッドプールは言う。「このプロジェクト、予算ないんだね」。シニシズムからだって、なにかの歴史が始まる可能性はある。スーパーヒーロー物の嫌いな人にこそ見てもらいたい一篇である。


6/1(水)よりTOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国ロードショー予定
http://www.foxmovies-jp.com/deadpool/

『家族はつらいよ』 山田洋次

2016-04-06 21:31:32 | 映画
 長崎への原爆投下に材を取りながら、不謹慎の一歩手前まで死体と近親相姦的に戯れてみせた快作『母と暮せば』(2015)から、わずか3ヶ月あまり。早くも山田洋次の新作が届けられた。これはやはり、自他共に現在が山田洋次の全盛期だとの認識が存在する証拠だろう。
 そして今回の新作は『家族はつらいよ』。セルフ・パロディもここまで来ると下卑ていると言わざるを得ないけれども、『母と暮せば』のような渾身の一作のあとにちょこんとした『家族はつらいよ』を持ってくるあたりは、『東京物語』のあとの『早春』を作った小津安二郎を意識しているのは間違いない。山田には、『東京物語』のお粗末なリメイク『東京家族』(2012)という前科がある。
 『家族はつらいよ』は、『東京家族』のキャストがそのままスライドしている。橋爪功と吉行和子の老夫婦、長男夫婦の西村雅彦と夏川結衣、娘夫婦の中嶋朋子と林家正蔵、末っ子の妻夫木聡とその婚約者に蒼井優。彼らは、かつての『男はつらいよ』寅さんシリーズのキャストのように、同じ構造をなぞってみせる。そのなぞり具合にはどこか橋田壽賀子ドラマに近い田舎臭さがある。
 「寅さんシリーズは松竹の象徴」などと判で押したように形容されると、どうも以前から違和感を拭えなかった。戦前の島津保次郎も小津も成瀬も清水宏も、そして戦後の木下惠介も渋谷実も中村登も、東京を描いているはずの寅さんシリーズほど田舎臭くはなかった。たとえ地方の僻地を舞台にしていても、もっと垢抜けていた。

 山田洋次の作家人生を要約するのは難しくはない。明確だからだ。まず第1期の〈プレ寅さん時代〉。この時期はまだ、大島渚、吉田喜重らの退社した大船撮影所におけるヘゲモニーを完全には掌握してはおらず、森崎東、前田陽一ら同僚を相手に少しばかりリードしているに過ぎない。
 第2期は言わずと知れた〈寅さん時代〉であり、「遅れてきたプログラムピクチュア」として、にっかつロマンポルノと双璧をなし、山田を大船の玉座に着けることとなると同時に、その玉座に幽閉もしたのだ。もしこの長大なシリーズに幽閉されていなければ、大島や吉田ほどではないにしても、山田洋次はもう少し国際舞台で名の知れた映画作家になったかもしれない。
 第3期は、1995年の寅さんシリーズ終焉、2000年の松竹大船撮影所閉鎖に伴って「遅れてきたプログラムピクチュア」をたたみ、ごく短期間の〈時代劇3部作〉時代となる。時代劇で腕に磨きをかけた山田は、現在の第4期〈先行作家へのトリビュート〉シリーズの真っ只中にいる。この第4期は、小津や市川崑にオマージュを捧げつつ、自己の出自をパロディとして提示している。異色作といえる『母と暮せば』も例外ではなく、死んだ一人息子(二宮和也)の残された部屋に小津『淑女は何を忘れたか』のポスターが貼ってあったように、松竹大船の出自開陳なのである。

 時代区分にしたがって見るなら、左翼文化人にありがちな庶民礼讃、ふるさと回帰がどうにも教条的な足枷となって、山田の映画を井の中の蛙にしてしまう傾向がある。『おとうと』(2010)のホームレス用ホスピスで息絶える笑福亭鶴瓶、『母と暮せば』の「上海のおじさん」加藤健一など、出来の悪く往生際の悪い男たちの系譜が、山田映画の最も愛すべきところで、その点で言うと、今回の『家族はつらいよ』の落ちぶれた私立探偵(小林稔侍)は線が弱く、『ディア・ドクター』から出てきたような笑福亭鶴瓶の医師もカメオでしかなく、教条性の外部にはみ出していくものに乏しい。


丸の内ピカデリー他、松竹系などで公開中
http://kazoku-tsuraiyo.jp

『オマールの壁』 ハニ・アブ・アサド

2016-04-02 09:19:01 | 映画
 イスラエルによって占領された、東イェルサレムを含むヨルダン川西岸地区。
 映画の最初で、主人公のパレスチナ青年オマール(アダム・バクリ)がロープをつたって、高い壁を身軽に越えていくさまをとらえる。掃射砲の射撃音が聞こえるが、オマール青年はそんな音もどこ吹く風、壁の向こう側に住むガールフレンド(リーム・リューバニ)の家にを訪れる。このガールフレンドの兄とは幼なじみで、最近、対イスラエル武装グループを結成して、計画を練ったりしている。
 知っておかねばならないのは、分断壁が、イスラエルとパレスチナの境界であるグリーンラインに沿って建っているのではないことだ。壁はパレスチナ自治区内を乱雑に横断し、パレスチナ人の日常を分断する。この分断壁は、いわば「ベルリンの壁」の陳腐なるパロディである。イスラエルは、彼らを戦時中にホロコーストで虐殺したドイツ人が戦後冷戦期に作りあげたのと同じことをしているのだ──その数倍の高さで。まるでパレスチナ人が「進撃の巨人」のような大きさをもつかのような用心深さで。

 主人公オマールはその壁を軽々と乗り越えてみせる存在だが、その引き換えに、彼の心のなかに壁が打ち立てられてゆく。壁を打ち立てるのは、彼を内通者に仕立てようとするイスラエル警察だけではない。同胞たちとの友情、そしてガールフレンドへの愛が、オマールをがんじがらめに縛りつけ、壁のなかに追いこんでいくのだ。このダブルバインド的閉塞が『オマールの壁』という作品に、単なる政治的アジテーションに留まらぬ苛酷さをまとわせる。
 この映画は2度、茶の時間が描かれる。私たちのような外国人にとっては一種のエキゾチズムかもしれないが、この茶の時間がすばらしい。もっとも、序盤の茶と終盤の茶とでは、主人公たちの情況はまったく変わり果ててしまってはいる。フランスの映画作家ブリュノ・デュモンの『ハデウェイヒ』(2009)でも、アラブ人テロリスト家庭での茶の時間が印象深く描かれていたが、いつかはまったく血生臭くない、単に退屈なマンネリズムとしての茶の時間を映画のなかに見てみたいものだ。
 ガールフレンドが白磁のカップソーサーに敷いた伝言の紙切れが、じつに切ない。人間は時に、やむにやまれず間違った選択をしてしまう。それがたぶん間違っているとは自覚していても、それでも選択してしまうのである。ついぞ読まれることのないあの紙切れに対する未練ならざる無念が、主人公を急き立ててゆく。それを知っているのは、私たち観客だけである。だから、その行く末をしっかと見ておくべきなのだ。


4/16(土)より角川シネマ新宿、渋谷アップリンクほか全国順次ロードショー
http://www.uplink.co.jp/omar/
*写真は掲載許諾済み

『リップヴァンウィンクルの花嫁』 岩井俊二

2016-03-29 14:39:37 | 映画
 これまで岩井俊二には、これと言って評価らしい評価をしたことはなかった。いいとも悪いとも明らかにしなかった。だが、その悪意ある無視が愚行に思えてきた。そろそろ降参しろよ。もう一人の自分が耳元でそう囁いている最中だ。
 私が20代の頃に演出のアシスタントをほそぼそとやりながらシネフィル道を愚直に邁進していたとき、岩井俊二という、少し年上の人が突然出てきて、その上映会がアテネ・フランセでおこなわれた。入口の廊下に電通やら大手メディアから贈られた花束なんかが物々しく飾ってある。なんだ、この岩井というのは。あの峻厳なるシネフィルの礼拝堂たるアテネが、ぽっと出てきた寵児とやらに穢された気がした。
 それからあっという間に、岩井俊二は若手のトップランナーに躍り出た。『Love Letter』(1995)の試写を見た直後の「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集会議で、Aが「『Love Letter』には泣いちゃったけど、泣いたからって良い映画とは限らない」と言った。私は我が意を得て、うなずいた記憶がある。「カイエ」では岩井俊二を大々的には擁護しないことが決定した。
 2002年ワールドカップ日本代表の密着ドキュメント『六月の勝利の歌を忘れない』(2002)が岩井俊二の監督作としてリリースされたことも、複雑な心境を抱かされた。あのドキュメンタリー映像は、私をマネージメントしてくれているプロダクションが製作したのだが、日本代表にずっと密着したディレクターの存在を、私たち内輪の人間は知っている。あれは結局、彼の知名度のなさが招いた悲劇だ。

 『花とアリス』以来(2004)12年ぶりとなる日本での劇映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、大雑把な言い方をすれば、初心に帰ってやり直した映画だ。そして、それがすごい。魔法を使っているのではないかと疑いたくなるほどすごいのだから困ってしまう。『花とアリス』以降、他人の映画のプロデュースとか、ハリウッドへの移住とかいろいろあったが、結局戻ってきたのだ。彼のハリウッド活動って、いったい何だったのだろう。『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、その総括を脇に置いてなされた成果物だ。宿題はまだ残っている。
 何事にも自信がなく、その場限りの取りつくろいでやり過ごしてばかりいるヒロイン(黒木華)は、いわゆる「へたれ」というのかしら、腹立たしいほどにナイーヴな女性である。そこに善意と悪意の入り交じったメフィストフェレス的存在が現れて(綾野剛)、ナイーヴな彼女を騙しに騙し、人生を翻弄してまわる。偶然も折り重なったりして、すべてが綾野剛の差し金ではないにしろ、とにかく流転に次ぐ流転である。受け身の女としての黒木華のおののきぶりを、ひたすら3時間も見続けるという映画体験となる。いろいろと事件は起こるが、いずれもたいしたものではない。なのになぜかすごくて、ラース・フォン・トリアーの大仰な運命劇よろしく、ヒロインと共に私たち受け手を木っぱ舟に乗せ、荒波で悪酔いさせる。
 この映画作家について詳細に分析するのは、不肖私の役目ではない。私はただ目を丸くして「これは岩井魔術だ」などと陳腐な感嘆文を叫びながら、過去20年の非礼に少しばかり恥じ入るという段階にある。


3/26(土)よりユーロスペース、新宿バルト9、品川プリンスシネマなど全国で上映
http://rvw-bride.com