荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ヘイル、シーザー!』 コーエン兄弟

2016-05-17 03:00:17 | 映画
 作品そのものが映画として輝いているどうかはあやしい気もするが、映画のあれやこれやをぶちまけたドタバタ喜劇になっている。映画ファンのひとりとして、このバラエティ豊かな一篇を大いに楽しませてもらった。それにしても、カウボーイのロープ芸による円形など形態的な拘泥が目を引く点は、やはりコーエン兄弟らしい。
 1950年代、「キャピトル・ピクチャーズ」なる架空の映画撮影所では、史劇スペクタクル、水兵によるアクロバティックなミュージカル、ドイツ系らしき監督によるセックスウォー・コメディなどが、同時並行で進められている。これら撮影中の作品を見ると、もはや全盛期を過ぎ、陰りを帯びたスタジオシステムの只中にあることを、映画ファンならただちに了解するだろう。特にジョージ・クルーニーを主演に、莫大な費用で撮影されているらしい史劇スペクタクルあたりは、ハリウッドの挽歌の匂いが濃厚に漂っている。
 ジョージ・クルーニーを誘拐する共産主義者のシナリオライター・グループ(レッドパージで地位を追われた書き手たちであろう)に混じって、ヘルベルト・マルクーゼ(ジョン・ブルータル)がスターの前ではにかんだりしている。海辺の別荘で人質の監禁のような研究セミナーのような数日間である。
 くわえ煙草の女性編集者(フランセス・マクドナルド)のスカーフがラッシュフィルムの編集機に巻き込まれて、編集者の首が絞まってしまうとか、トラブル処理に追われるプロデューサーの主人公(ジョシュ・ブローリン)に中華料理店で、ロッキード社のスカウトマン(イアン・ブラックマン)が映画を侮辱しつつビキニ環礁の水爆実験の写真を見せるとか、ナンセンスでヘンテコなシーンが、何度も何度も積み重なっていくのがいい。この作品はどうやら、ひたすら無責任に楽しむようにできているようだ。


TOHOシネマズシャンテほか全国で公開中
http://hailcaesar.jp

『花、香る歌』 イ・ジェヨン

2016-05-11 07:25:34 | 映画
 李氏朝鮮末期に実在したという史上初の女性パンソリ歌手の生涯を描いた『花、香る歌』を、新宿シネマートで見る。原題がいい。『桃李花歌』といって、これはヒロインに厳しい指導をほどこしたパンソリの師匠が、最後の共演時にヒロインに捧げた言葉であり、歌である。桃も李(すもも)も春の花で、パンソリの代表曲『春香歌』からの連想が、師弟愛に応じて広がったものである。
 ヒロインのパンソリ見習い女性を演じるペ・スジは、アイドルグループ「Miss A」のメンバーで、長い期間をかけてパンソリの発声特訓を受けたのちに撮影に臨んだとのこと。愛くるしい顔と、堂に入った大声が素晴らしかった。ただし、彼女のクライマックスたる大舞台での歌唱シーンとなると、いつもオーケストラによるメロディアスな劇伴が被さってしまう。これは非常なる興ざめである。もしかすると、本場韓国の識者が聴けば、彼女のパンソリ発声は、特訓むなしく素のままでは聴けたものではない、という冷徹な判断があったのかも知れない。
 そして、芸道ものとしても、たとえばイム・グォンテク(林権澤)監督による、あのワンカットワンカットの一瞬一瞬が素晴らしかった『風の丘を越えて/西便制(ソビョンジェ)』(1993)あたりに比べると、だいぶウスクチである。日本でも韓国でもアメリカでもヨーロッパでも、演劇と映画のさかんな国では決まって「芸道もの」というジャンルがあって、たとえばジョージ・キューカー『スタア誕生』(1954)にしろ、溝口健二『残菊物語』(1939)にしろ、千葉泰樹『生きている画像』(1948)にしろ、ジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』(1958)にしろ、ジャン・ルノワール『黄金の馬車』(1953)にしろ、そして上述のイム・グォンテク『風の丘を越えて/西便制』あるいは『酔画仙』(2002)にしろ、その酷薄さたるや、正視に耐えぬほどすさまじいものがある。
 ところが、この『花、香る歌』はその点ぬるい。しかしさもありなん、皆が皆『残菊物語』だったら、こっちの身が持たない。芸の厳しさ、その果てにある孤高の歓びも描かれるばかりでなく、今作はペ・スジの清新さも強調せねばならない。
 本作公式HP(URLは下記)によれば、ヒロインと師匠(リュ・スンリョン)の進路に立ちふさがる宮廷の重鎮、興宣大院君(キム・ナムギル)は、朝鮮王朝第26代王・高宗の実父で、日韓近代史の重大問題のひとつ「閔妃暗殺事件」(1895)の首謀者として名が挙がる人物。本作ではこの興宣大院君の失脚は描かれても、(いわば息子の妻である)閔妃の暗殺までは描かない。本作があくまでパンソリの芸事に身を捧げた集団の物語として、話を広げなかったのだろう。
 映画のクライマックスで、宮廷の池に舟を浮かべて、そこでパンソリが演奏されるシーンがある。この情景の素晴らしさは出色だった。韓流ブームの一時代を築いたペ・ヨンジュン主演の『スキャンダル』(2003)という作品があって、ド・ラクロの『危険な関係』を朝鮮の両班(ヤンバン)階級に置き換えたもので、これが意外にいい作品だったのだが、じつは今作『花、香る歌』の監督イ・ジェヨンは、『スキャンダル』の監督である。『スキャンダル』でも両班の庭園内の池に舟を浮かべ、舟上の歌い手が非常に風流な歌を歌っていた。あれは庶民の哀歓を叫ぶパンソリよりももっと上流向けの雅歌だったかと思われる。イ・ジェヨンは自身のフィルモグラフィで2度も、水に浮かべた舟から女声を響かせたことになる。あの『スキャンダル』の歌声は素晴らしかったが、当方素人であるがゆえに、あれがどういうジャンルの音楽だったのか、分かりかねるのが残念でならない。


新宿シネマート(伊勢丹前)ほか、全国で順次公開
http://hanauta-movie.jp

『SHARING』 篠崎誠

2016-05-08 04:57:03 | 映画
 これまで見た篠崎誠の作品の中で、間違いなく最高の作品だと思った。そして、本作を見ながら猛烈な怒りを覚えた。怒りの対象は、大震災以降の5年間の私たちに起こったことのすべて、そして図らずもそれを等閑視した自分自身である。『SHARING』は私たち受け手の心理をもサーチする。
 本作HP(URLは下記)に掲載された識者コメント欄に、精神科医・斎藤環さんの次のような一節があった。「私たちが生きるのは『震災後の世界』ではない。私たちは震災と震災との間、すなわち「災間」に生きる」。この映画のメインモチーフとして登場する「予知夢」は、「あの震災の前日や前週に震災を予知した人々が一杯いましたよ」という不思議発見事件簿なのではない。「予知夢」は、寄せては返す波のごとく、私たちの元を離れていったかと思えば、ドキリとさせる突然さで私たちの眼前に現れる。だから、3.11の悪夢を何度もくり返し見る本作の登場人物たちは、つまり、次のカタストロフィのプレ-イメージを共作しているのではないか。
 私は本作のタイトル『SHARING』を、震災体験からくる心的外傷の共有(とその不可能性)という意味のほかに、まだ現実には誰も見ぬ、次なるカタストロフィの共作という意味でとらえた。まだ起きてはいないことを予知し、その「実在」イメージが各人の脳というスクリーンに投影(映写)されているとしたら、この映画がフィクションなのか、ドキュメンタリーなのかはどうでもよくなる。ドキュメンタリーとは、今ここで起こっていることにカメラを向ける行為である。しかし、これから起こらんとするできごとの映像が、あらかじめ私たちの前に提示されてしまったら? それもドキュメンタリーと認められるのだろうか?
 震災以後の心象風景、さらに私たちが今まさに晒されている危機を映画化するにあたって、篠崎監督はホラーもしくはニューロティック・スリラーのジャンル性を採用した。つまり映画としても興奮させるものを、という篠崎監督の初期から変わらぬ精神がここでも貫かれ、異様なるクロスオーバー的怪物作品が出来上がってしまった。
 そして、映画の主舞台となる大学キャンパスの迷宮性。これは先祖返りでもあるのではないか。篠崎監督の出身校である立教大学の映画サークルS.P.P.は篠崎の在学当時(1980年代)、偉大な先輩である黒沢清や万田邦敏らによって「学園活劇」なる奇妙なジャンルが創造され、立教のキャンパスを使ってゴダール映画のような銃撃戦が展開されていた。本作『SHARING』におけるカメラが、恐れおののいて彷徨う登場人物たちや、誰かの面影を追って走る登場人物たちをダイナミックな移動撮影、手持ち撮影でとらえるとき、私は不遜にも「学園活劇」が亡霊のように、しかも不幸なことに津波や原発事故という最悪な記憶を引き込みつつ、復活してしまったのだと思った。
 これはぜひ、99分のショートバージョンも見てみたくなった。そのバージョンにも、手の平に黒アザのある幼児と女子学生の邂逅シーンはあるのだろうか? 「赤ん坊は生きていたんだ!」と私は心中で叫び、泣いた。あのわずかな光明を、再び目にしたいと思う。


テアトル新宿にて5/13(金)までレイトショー
http://sharing311.jimdo.com

『二重生活』 岸善幸

2016-05-04 22:14:14 | 映画
 テレビ演出家・プロデューサーの岸善幸の劇場映画デビュー作『二重生活』(6/25公開予定)を試写で見たのだけれど、これが心理サスペンスとして非常によくできている。デビュー作とはいってもベテランの手さばきで、イヤらしい人間のエゴが少しずつ少しずつ漏れこぼれてくる。そして露わになるときはドバッとあられもなく。
 哲学を専攻する大学院生・門脇麦が、担当教授のリリー・フランキーから、修士論文のテーマを「尾行」にしてみたらどうかと持ちかけられる。誰かアトランダムの人物をえらんで、理由なき尾行をしてみる。その尾行から見えてくるもの、起きてくるものを記録し、考察を加える、という研究内容だ。このテーマにのめり込んでいく門脇麦。
 しかし、たまたま尾行対象にえらんだ男(長谷川博己)が浮気していることをキャッチしてしまったことから、話がややこしくなる。ややこしくという以上に、長谷川博己の妻(河井青葉)、幼い娘、浮気相手(篠原ゆき子)による問題の核心が、門脇麦の探偵ごっこによって歪んだかたちで舞台化されてしまい、コントロール不能に陥っていくと言うべきか。
 原作は小池真理子で、3月に公開されたばかりの矢崎仁司『無伴奏』に続いて、競作のような格好になったが、両者は正反対のタイプの映画になっていて、どちらも面白い。
 ヒッチコックの名前を出さずとも(と言って、出してる)尾行というテーマが喚起する、視線の距離、後ろ姿、覗き見の性的興奮、証拠写真、見てはいけないものが見えてしまう禁忌、などといった事柄の映画的魅力は元来、抵抗しがたいものがある。本作はそういう受け手のツボを押していく。そして、あくまで目撃者、記録者でしかなかったはずの門脇麦がいつしか不真面目な侵犯者として逆襲を受けてしまうのと同様に、スクリーンのこちら側で安全に画面上のサスペンスを楽しんでいた私たちも、いつしかその視線の不実をなじられるかも知れない。


6/25(土)新宿ピカデリーほか全国公開
http://nijuuseikatsu.jp

千葉泰樹関連記事の一覧

2016-04-19 16:50:07 | 映画
 千葉泰樹作品の記事をインデックス化してみました。そもそもブログなんていう素性の賤しい媒体は、未整理のままポンと投げ出された程度でちょうどいいのであって、わざわざカタログめいたふるまいに及ぶのは、手前味噌もいいところなのは承知しておりますが、少しは便宜なんてものを図ったもいいのではなどと考えてしまいまして。


『義人呉鳳』(1932)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/9d495f380269df6cdd0ba1da0ec06e6f

『生きている画像』(1948)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/e3ca15a677c83dada24e8a672bae3176

『夜の緋牡丹』(1950)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/8bc41fd7785e1c255b98a29729a75516

『下町(ダウンタウン)』(1957)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/07c6db425aee6fb59de14ae91a0c3e7c

『がめつい奴』(1960)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/48e38ce5af8189a1d458162bef428080

『二人の息子』(1961)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/c5517187483cf0b8f07010d9f4bcf554

森繁久彌追悼文(2009)
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