入笠牧場その日その時

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    ’16年「晩夏」 (6)

2016年08月10日 | 入笠にまつわる歴史



  以前にも書いたが、ずうっと前から東京へ向かう都度に、右手に見えてくる南アルプスの鋸岳と、横岳の間の最低鞍部である横岳峠になぜ峠道ができなかったのかと疑問に思ったものだ。その後、最低鞍部と言っても2000メートルに近く、また鞍部の両側に位置する富士見や山梨側と、反対の伊那側も人の住む集落まで大変に長い距離があり(富士見側から横岳峠までで約10キロ、伊那側からだと同峠まで約5キロ)、仮に道があったとしても、時代の流れの中でより安全な道に取って代わられたのだろうと、独り勝手な解釈で済ませ、今は納得している。
 古くから、南アルプス北端の釜無山や入笠山を越えていく山道は幾つもあった。神足勝記の足跡に伊那側からの半対峠(はんずいとうげ)越えがあるようだが、この道は延喜式にも登場する「石堂越え」だと言われるから、法華道よりももっと古い。しかし、峠越えしてから小黒川の川床を進み、テイ沢を高巻くこの道も、今となっては忘れられた古道の趣きで、通る人などいない。
 その他に現在種平小屋のT氏と調査中の、富士見から白岩岳と釜無山の鞍部を越え、笹平沢を小黒川に下り、さらにフトノ峠を越えて伊那側の山室に至る道もある。ただしこの古い道も、フトノ峠に至る以前に林道や獣道が交錯して、忠実にかつての登路を行くことはできなくなっている。
 また、芝平からは山室川の上流の枯木を通るコースや、昭和の初期まで石灰の運搬路として重用された山道がこの道路と途中から合流して、諏訪側と通じていた。さらに北方、藤沢から杖突街道を離れて松倉から千代田湖の先を左折して中仙道に至る金沢街道は、江戸の時代には高遠藩や伊那谷の諸般の要路であった。
 と、このように、南アルプスに阻まれた困難な地形を克服するために、少しでも便利でかつ安全な往還を求めた昔の人々の、長い時代をかけた労苦の跡が今も所々に残っている。

 東京は猛暑が続いているようだが、O氏によればそれでもいつもの夏とは違う「夏の悪あがき」だと言ってる。4泊5日を過ごしたボーイスカウト調布第2団の一行が帰っていた。ペルセウス座流星群の観測のため、今夜からかんと氏登場。明日はTBI氏も加わるし、他の予約も入っているが、今日はキャンプ場はひと組だけで静かなもの。
 山小屋「農協ハウス」とキャンプ場の営業に関しましては、カテゴリー別の「H28年度の営業案内」をご覧ください。
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