里で暮らすようになり、まだ落ち着いた日常を得ているわけではない。と言って、格別な不満や不自由があるわけでもない。
冬ごもりに慣れるまでは、まだしばらくは何もしなくていいと自分に言い聞かせつつ、昨日は気紛れに生け垣を刈った。きょうも庭の草刈りでもやるつもりでいたら雨が降っている。
やはり、一日が終わるころには人並みに、それなりに納得ができるような終わり方をしたいというの気持ちがあるのだろうか。
そんな他人事のように呟くのはさておき、今朝起きたら、右手の小指が言うことを聞かなくなっている。原因は尿酸値、ビールが原因かも知れない。
酒と言えば、以前にも呟いたが、周囲の親しい人間からは味の分からない者、という評価が定着しつつある。きっとそうだと思うし、それが幸いしてか、お蔭で酒に淫し、深入りすることにはならなかったと自己診断している。
そもそも酒が不味いとは思わないが、さりとて特に美味いと思って飲んでいるのか、このごろは自分でもよく分からなくなってきた。だからと言ってもちろん、止める気などもとより考えたことはない。
先日、ある人と電話で話をしていて、思いがけずも口から出た「酒は不肖の話し相手なのです」という科白、われながら上手いことを言ったものだと自慢したいが、嗤われるだろうか。
酔いの深まる中で、もう一人の自分に一日の労働を労ってもらい、もう一人の自分と対話を始める、それが一日を閉じる際に味わう清貧独居禁欲の平安である。そのために酒を飲むのだと言ってもいい。
少し侘しく、しかしそれが酔いの対話をさらに神妙豊かにさせ、意識の深みにもっと沈んでいける気になる。
行く先々で酒癖の悪さを晒し回った人は行乞俳人の山頭火だが、「酒が美味過ぎるからいけない」と日本酒のせいにしていた。さすがに「美味過ぎる」とまでは思わないし、あの人と違って酒席で醜態を晒すことも今は遠い記憶でしかない。
山頭火は嘆き、悔み、泣き、そして飲んでは自嘲を繰り返し、歩き続け、ある日消えるように死んだ。今生に未練はなかったように思う。
この道しかない春の雪降る
ちんぽこの湯気もほんによい湯で
名句と迷句、本日はこの辺で。