
「わたしは軽トラのようになりたい」という話をどのように続けるか、と迷う。「わたしは貝になりたい」のように、敗戦後の連合軍がやったことを思うと、話をそっちへ持って行きたくなる。堪えるのが難しい。
今ウクライナで起きてることを善人面して批判する西側のお歴々だが、かつて自分たちがしてきたことを思い起こせば、少しは気が引けないかと言いたくなる。日本軍も蛮行をしたし、彼らも間違いなくしたのである。同じ人間同士が、まさしくあらゆる手段を尽くして殺し合ったのだ。
軽トラは全く機能本位で作られたもので、見栄えはせず不細工で、乗り心地はあまり褒められたものではない。その上に車重がないから惰力が使えず、意識的に加速し続けなければ一定の速度を保てない。乗用車の感覚とは大分違い、長距離走行にも不向きだろう。
それでも、あの600㏄そこらのエンジンで山を登り、丘を駆け、4駆であれば泥道、雪道にも対応する。登坂力もあり、それなりなりの荷物を運ぶことができる。扱いが容易で小回りが利くし、故障は少なく燃費もよくて価格も高くない。税金も安い。あれは車と言うよりか何だろう、まるで気の利く助手のようなものだ。
もちろん、自らをそんな有能な軽トラと同じとは思っていないし、また豪華な高級車など望むべくもないが、身の丈に合った車を求めれば軽トラになるし、自分の性にも合っていると思う。そもそもが、出世・栄達についても、あるいは快適な家にも車にも、関心がなかった。
いや、正しく言えば早くから、そういう可能性については縁のないものと思っていたような気がする。
なぜ「わたしは軽トラのようになりたい」などという突飛な願いが突然ひらめいたのか。恐らくそれは、軽トラが、自分にとってかくありたいと願う理想だったからだ。単純な構造だから故障も少なく燃費が安い、先代は20万キロも走った。人間なら病気をしない、長生きだということである。
清貧であったかは知らないが、豊かではなかった。しかし、それゆえに過剰なことを期待したり、求めてはこなかった。野心なぞ燃やさず、分相応に生きてきて、ようやく入笠牧場へ辿り着いたと思っている。
先のことなど分からないが、今のところは健康であり身体に苦痛はない。日々の暮らしに不満なぞない。この年齢まで来ればそれで充分である。
「軽トラのようになりたい」、これは自身へ送る声援、yellである。
本日はこの辺で。