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ねぶたの家そして御嶽山(2014青森no13)

2014-10-30 | 東北

 

 八甲田丸の近くに朱色のモダンな建物がありました。「ねぶたの家 ワ・ラッセ」その文化交流観光施設に展示されている「ねぶた」の見学です。

 手前が最優秀制作者賞を受賞した作品。これを含めて5台のねぶたが展示されています。 

 受賞作品を正面から撮してみました。次の写真は更にアップしたもの。どうですこの迫力。これらのねぶたが夜の青森を躍動の町に変身させたのでしょう。

 

 

 

 今年のお祭りには22台のねぶたが出陣したという。制作費はどの位だったのか知りませんが、選抜されてここに飾られているもの以外は、すでに取り壊されているのではないでしょうかと聞きました。来年に向けての作成はいつから始まるのでしょう。

 作者が紹介されています。第5代6代とねぶた名人が並んでいました。 これまでに6人のねぶた師がねぶた名人の栄誉を受けているそうです。

 現在活躍している15人の作者が制作した「ねぶた面」が並んでいます。「作風の違いをご覧ください」と書かれていました。

  

 名古屋空港に到着したのはこの時間。帰路夜の中央自動車道は怖かった、ふらふら運転しながら帰ったのでした。後日、娘に「馬鹿だね」と言われてしまった。

 旅立ちの時が御嶽山噴火の2日後でした。この旅のno1で噴火後数日間の新聞紙面をお伝えしましたが、この旅を閉めるにあたって、雲仙普賢岳と共に日本の火山噴火史に残るだろうこの噴火のその後を少し書いてみます。

 10月9日の新聞見出しは「凍る御嶽、捜索切迫」 10月16日「冬の足音、募る焦り」そして翌17日の紙面は「御嶽山捜索年内打ち切り」とし、「無念の下山、家族の思い山に残し」と綴られました。そして、噴火一ヶ月後の鎮魂の模様を伝える紙面です。今日の日まで捜索救助の様子は刻々と伝えられました。お医者さんを夢見ていた11歳の女の子、寒いと訴えるその子に自分のジャケットを掛けてあげた青年。悲しいことにお二人とも亡くなられた。この出来事は全国紙も報道したことでしょう。仲間6人で出かけた山で3人が亡くなった。怪我をしながら山を降りた方は「なぜ自分が生き残ってしまったのか」と苦しむ。聞こえてきた「痛い、助けてくれ」今でもその声にうなされるという人。夫婦で登ってひとりになって帰ってきた人のことなど幾多の悲劇が伝えられました。

 

 行方不明になっていた片方の靴がきれいに洗われて、警察から届けられたと、灰まみれの靴ときれいになった靴が並んだ写真が25日の紙面に。11日に見つかっていた遭難者がDNA鑑定によって23日に特定できたとの報、そんなにひどい損傷を受けたのかとショックを受ける紙面でした。死因はほとんどの人が噴石に打たれた損傷死だといいます。                                                 生き延びた人が言っています「噴石と熱風が来た。痛さより暑さがすごかった。そして腰まで灰に埋まってしまった」と。亡くなられた方57人は、愛知県17名長野県7名他14府県に、そして不明者6名併せて63名。加えて負傷者等の捜索救助に延べ14,600人が動員されたと言います。すべて「信濃毎日新聞」の紙面をから拾い読んで綴ってきました。以後の捜索は来春。未だ不明の6人の方々のご家族には待ちきれないほど遠い春になってしまった。

 

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