世界の彼方此方へ行きたい

気ままな旅の様子を綴っていきます

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最後の観光(2021広島no4)

2022-03-23 | 広島

 お昼のお弁当をいただいて、再びループバスに乗って次の名所といわれるところにやってきました。

 1620年時の藩主によって築庭されたといいますが、まあどうってことはありませんでした。近くに県立美術館もあるのですが、そこはパスして広島城跡まで道順を問いながら歩くのでした。

 

 赤で示している現在地のすぐ上には「広島大本営跡」なんて書かれている。へぇ~お城の中に大本営か。日清戦争時から太平洋戦争が終わるまで使われたそうだ。

 

 空の青が際立っている。手前に並んでいる石。原爆でアウトになった天守閣を昭和33年に再建した時、そこに並んでいた礎石を掘り起こして、原形のままここに並べたものだといいます。

 

 

 このお城の別名が「鯉城」ともいわれているという。そうか分かった。ここからきているのかプロ野球広島カープ球団は。

 1997年(平成9)NHKの大河ドラマは「毛利元就」だったという。元就生誕500周年記念作品として制作されたそうだ。私は観ませんでしたが、主演中村橋之助以下の出演者の写真が並んでいました。

 天守閣内部は歴史博物館になっている。歴史もののところは例によって撮影禁止。こちらは商家のお食事処だという。右にその説明がありました。

 

 切り株は何を意してるのか分かりません。

 城址を出て少し歩いたところに池田勇人の像。「貧乏人は麦を食え」発言は有名だけど、所得倍増計画を掲げ1960年(昭和35)からの10年間で国民総生産を倍にしようとするもの。大きく夢が広がり始めたときであり、その後の日本の発展はご存じのとおりでした。台座には、昭和40年に亡くなった彼をたたえて、昭和45年に前尾繁三郎がカタカナ入りの難解で読むのに苦しむ碑文を書いていた。

 広島駅に帰ってきた。2泊したホテルに夕日が当たりはじめていた。

 広島の食べ物ランキング1位の「広島風お好み焼き」を食べないわけにはいきません。駅につながっていた飲食店街の一隅にお好み焼き屋さんが並んでた。

 人気店らしくお客さんが多かった「麗ちゃん」でいただくことにしました。

 私にとっては大盛り、四分の一はごめんなさいしてしまいました。夜の部に供えてお酒はいただきませんでした。

 乗り放題1日400円。そのバスに最後の乗車です。

 元安川の向こうにライトアップされた原爆ドームが見えていた。

 バスは平和記念公園の周りをグルっと回って平和大通りを走っています。横に長い資料館の本館。その前に噴水「祈りの泉」さらにその手前には「嵐の中の母子像」ハレーション画像は真っ白け。

 お客さんは私ひとりだけでした。写真をパチパチ撮っている私に、運転手さんが「灯り消しましょうか」といって車内は真っ暗。

 

 広島の日の出。今日もいい天気でありそうだ。名古屋まで新幹線、そして中央西線、東線さらに飯田線と乗り継いで我が家に向かいます。

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平和記念資料館その2(2021広島no3)

2022-03-18 | 広島

 

 東館では「原子爆弾の開発と投下」から「平和な世界をつくる」まで六つのテーマに分かれて展示されていました。

 

 1945年(昭和20)春からアメリカでは投下目標都市の検討を始め、当初広島、小倉、新潟そして長崎の4都市が目標都市とされたそうです。

 原爆投下用の広島の航空写真。はっきりしませんが赤線の交わっているところが照準点。後ほど紹介しますがほぼこの位置に投下されているのです。気象観測用機、原爆の威力を記録する科学観測機、写真撮影機、そして核弾頭リトルボーイを搭載した「エノラ・ゲイ」 B294機がテニアン島から約7時間、ここ広島上空に現れたといいます。

 この1月NHKが放映した「映像の世紀」戦時の映像、学徒動員から神風特攻隊など悲しい映像ばかりでした。あまりにも印象的だったのでデッキに残した記録を消去せずに残してあります。そこにテニアン島の記録があるのです。戦前から日本人の移民が始まっておりサトウキビの大きな産地を形成していたといいます。東洋一という製糖工場があり、映画館もある豊かな日々があったという。そこに戦争、サイパン島が陥落し、戦火はテニアン島に。3500人の方が亡くなり、9500人の捕虜、その中に子供2000人。有刺鉄線の中の子供たちが可哀そうだと通訳のアメリカ兵が声をあげ学校をつくったというのです。そこでは日本語の授業。規律よく隊列を組み体操をする姿に多くの米兵が見学に、ふれあいの姿が多々描かれていました。B29は、この島から全国へ飛び各都市を無差別爆撃。任務を終えて帰ってきた搭乗員は、日本の子供たちと遊ぶ。テニアン島編の最後には「爆弾を落としている自分と子供たちをかわいがっている自分とに引き裂かれているのです」と語る米兵の言葉で結ばれていました。長々書き過ぎましたが、このところ毎日のテレビでロシアに攻撃されているウクライナの悲惨な姿に接していて、書き置きたくなってしまったのです。

 廃墟となった広島と長崎の写真がありました。

 

 再び平和公園の中を歩きます。

 「平和祈念像」の前で修学旅行生がメモ取ってた。

 若い母親に抱かれた子供が、平和のラッパを吹いている。そこに大きな三日月。

 土盛りの頂点に相輪の塔がある「原爆供養塔」内部には納骨堂があり、身内の分からない遺骨や氏名の分からない遺骨約7万柱が納められているそうです。

 「平和の鐘」原爆被災者悲願結晶の会が1964年(昭和39)につくったそうです。周りの池には8月6日平和記念日の頃には美しいハスの花が咲くそうです。この鐘、この公園の中にあるほかの鐘と合わせて環境省が「日本の音風景百選」に1996年(平成8)選定されたといいます。

 公園からの帰り道です。小学生らしきが集合写真を撮っていた。

 ここにも「慰霊」の碑。次の写真のとおりこうした碑とか像などが公園内にはいっぱい。とてもすべてを見て回り切れません。

 この地図は広島観光ガイドマップの中にあります。三角印の中の赤ポツが爆心地。前に紹介した原爆投下用の写真では、その照準点をすぐ左上の「相生橋」としていたのです。

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平和記念資料館その1(2021広島no2)

2022-03-14 | 広島

 

 破壊された広島の街が壁一面に拡がっていました。

 河川だけはきれいだ。焼きつくされた広島。1945年 (昭和20) までの死者は約14万人と書かれている。

 ちょっと読めないでしょうが、こう書いてある「御幸橋には大火傷を負って逃れてきた負傷者が群がっていた。カメラを構えたが、シャッターがきれない。20分ほどためらい、やっとの思いで、一枚目のシャッターをきった」

 「助けて」「水をください」動く気力もない母親の胸にすがる幼児。「目を開けて、目を開けて」子供の名前を呼び続ける半狂乱の母親。

 頭髪は焼けちぢれ、顔、腕、背、足のいたるところの火ぶくれが破れ、火傷の皮膚がボロぎれのように垂れ下がる。頬に涙が伝い、ファインダーを通す情景がうるんだ。

 絵と写真が並んでた。どこを見て歩いてもその悲惨さに言葉がありません。ロシアの総攻撃が始まるだろうともいわれているウクライナの首都キエフ。「ウクライナを攻撃してはいない」とのたまうロシア。世界に耳を貸さないプーチン。焼け野原にならないことを祈るばかりだ。

 

 「人影の石」この写真はよく紹介されています。銀行入り口の階段に腰かけていた人が、原爆の強烈な熱線によって、その腰かけていた部分が影のように黒くなっているのだそうです。

 亡くなられた方々とその衣装など。コメントが一言ずつ。写真すらない方もいらっしゃる。

 あの「原爆の子の像」のモデルとなったとされる少女の一生が語られていました。佐々木禎子さんの誕生は1943年(昭和18)。2歳の時爆心地から1.6kmの自宅で被爆。外傷もなかった彼女は6年生まで元気な女の子。しかし白血病を発症、わずか8ヵ月の闘病生活で12歳9か月という若い命を閉じるのでした。「生きたい」との願いを込めて折り続けた千羽鶴は1300羽以上だったともいわれているそうです。

 彼女の歴史の最後の紹介はこれだったかもしれない。写真は1958年5月5日(昭和33)除幕式の時の様子。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽ともいわれているとのことです。

 東館に向かう途中に外を眺めました。修学旅行生がグループに分かれてグリーンのユニホームを着たガイドさんのお話を聞いているようです。

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平和記念公園(2021広島no1)

2022-03-09 | 広島

 夕刻新幹線広島駅下車。さっそく観光案内所を訪ねるのでした。そこでいただいたのがこれ。明日はこのバスに乗ろうと決めるのでした。

 そしてこの切符。広島市内の観光名所をグルグル回る3路線。一日何回でも乗り放題の400円。

 駅前でこのかっこいいバスに乗車して今日の日が始まるのでした。

 最初の下車駅は原爆ドーム前。ここ平和公園に来たのはもう40年も前の話か。当時はチームを分けて年に1回職員旅行に出かけるのが常だった。出雲大社に行く途中で広島下車してここに寄ったのでした。も一度訪ねたい思いはずっと前から持ち続けていたその日がやってきたのです。

 ぐるっと川端に回ってくると、広島原爆の象徴、もちろん世界文化遺産「広島県産業奨励館」焼け残ったこの建物は「ノーモア・ヒロシマ」の象徴として核兵器の廃絶と恒久平和を訴えるシンボルとなっている。その説明書きにメモ帳を手にした修学旅行生が集まっていた。

 元安川に沿って歩き元安橋の上から原爆ドームを振り返ってみましたが後ろのビルが邪魔してた。

 「原爆の子の像」これもこの公園の象徴のひとつだ。次の写真、像を囲むように折り鶴がいっぱい。 白血病で亡くなった少女の同級生たちが「何かしよう」と立ち上がって募金活動。全国3000を超える学校から寄付が集まったという。像の前に置かれた石の碑には「これはぼくらの叫びです  これは私たちの祈りです  世界に平和をきずくための」と刻まれているそうです。

 

 

 ずっと奥に広島平和記念資料館。手前からは平和の灯、平和の池そして原爆死没者慰霊碑と続いています。

 2016年(平成28)オバマ米大統領が現職大統領としてはじめてこの地を訪れ、慰霊碑に献花されて祈りの時があった。このあと資料館も視察されて、芳名帳に「私たちは戦争の苦しみを体験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と記帳されたそうです。

 

 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」奥に平和の灯と原爆ドーム。ロシアがウクライナに攻め入り過ちを繰り返している。「核」という言葉が出たり、第三次世界大戦に・・とも。連日激しい攻撃にさらされて国外へ避難するウクライナの人々のニュースがテレビに流れる。破壊される街、逃げ惑う人々なんとも悲惨な映像ばかりだ。早く何とかならないものか、聞く耳を持たないのか、専制主義国家というのは怖い。一方軍部に乗っ取られようとしているミャンマーはどうなっているのだ。ウクライナに占有されてしまったメディアには全然で出てこないじゃないか。なんて声も聞く。

 この慰霊碑は戦後7年を経た昭和27年(1952)8月6日にあの丹下健三さんの設計により建立されたそうです。

 平和記念資料館に向かっています。

 入館して入場券を買い求めて見学です。

 

 いただいた資料をめくるとまずこの画が出てきます。「8月6日の惨状」から「生きる」まで諸々の展示が続くのでした。

 本館の展示室に入ったらまずこれだ。1945年8月6日時計は8時15分47秒で止まっている。驚いたのは左の写真です。教室の窓を開けて先生と一緒にニコニコ顔。日常にはこれがあった。この子供たちの笑顔が戦争を知っていたのか、原子爆弾でむなしく消えてしまったのか。これから原子爆弾による被災の状況などを見学に行く前の衝撃的な写真だった。

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熊本城(2021九州no12)

2022-03-04 | 九州

 熊本のお城にやってきた。入城前に熊本城ミュージアム「わくわく座」にちらっと寄った。親水空間ステージで「おもてなし武将隊」が踊ってた。

 

 お城に向かって歩きます。

 平成28年(2016)熊本地震からの復旧工事がまだ進められていますが、2019年10月から特別公開がはじめられたそうだ。でも新型コロナ「まん延防止等重点措置」の影響で閉じたり開いたりだったらしい。その参観のためにこうした見学路できたのでしょう。

 

 見学路の真下で復旧工事が進んでいました。

 立派な石垣だと思って撮影したこの写真が大阪城のホームページにもあった。そこでは「忍者も登れない武者返し」として紹介されていた。

 本丸御殿の床下の「くらがり通路」らしい。こんなところを通ってお城に向かうのでした。

 

 お城前の広場に出た。ううーんと思ってしまうのですが大阪城、名古屋城と並びこの熊本城が日本三名城だいうのだそうだ。四名城とすれば姫路城が加わるのかといいたくなるのですが、まあいいでしょう。時の城主加藤清正が7年の歳月をかけて造り上げたといい、西南戦争で大部分が消失、昭和35年に鉄筋鉄骨コンクリート造りで再建されたという。だから私は名城とはいいがたいのです。コンクリートでは嫌だ。古を残した木造でなければやはり物足りない。

 当時城主だった加藤清正が朝鮮から帰国し、1599年に築城に踏み切ったといい、関ヶ原の戦いの頃には完成まじかの天守がそびえていた・・・と説明しています。九州の地図に赤く塗られているところが徳川家康軍についた殿様の所領地としています。清正も少ない赤印の仲間。

 1階には加藤時代の諸々の展示、2階には細川時代を展示しており、3-4階にも近代、現代と展示は続いていた。1階に入ったところには、まだ完成していないのか大天守と小天守の模型があった。

 いつ頃の写真なのか説明がありませんでしたが、小天守と宇土櫓と書いてあり長崎大学図書館蔵としてありました。さて、本命の大天守はどこなんだろう。

 天守閣の最上階6階展望フロアから写しました。落葉し敷き詰められた銀杏の黄色が美しい。まるで張り付けてあるようだ。熊本城の別名を「銀杏城」と呼ぶそうです。加藤清正のお手植えとか、西南戦争で焼けてしまい現在のイチョウは燃え跡から生えてきた二代目だという。

 下の方に先ほど歩いてきた仮設の見学路が見えています。この仮設路が取り払われ城内を自由に歩けるようになるのはいつの日か。

 

 2016年被災後2017年4月から復旧に取りかかり、石垣の復旧では大天守で791石、小天守2500石を積みなおしたなどと書いてある。

 

 

 この建物は多分何とか櫓というのでしょうが、手前も櫓も復旧工事中でした。

 帰り道には被災前後のこんな写真が並んでいました。その一部分を切り取ったのが次の写真。崩れ落ちた石垣が悲惨。

 

 

 現在地が駐車場。特別公開エリアを約2時間ぐるっと一回りして帰ってきました。このあと皆さんは水前寺公園に寄って熊本空港から羽田行き。私はひとり新幹線で広島に向かうのでした。

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