大和市の皆さんには申し訳ありませんが、「渋滞情報で頻繁に出てくる″大和トンネル″のほかに大和市には何があるの?」との質問をしてしまいました。そんなトンネルの近くにお住まいの「旅友」が今年も訪ねてきました。振り返ればもう何年前になるのでしょうか。南米(ベネズエラ・ブラジル・アルゼンチン・ペルー)をまわり歩いた友達が我が家を訪ねくるようになって、今年で4年目。9月5日AM11、私をピックアップしていただいて今年の愉快旅が始まりました。
南米といえば、明朝ブエノスアイレスでのIOC総会で会長が2020年のオリンピック開催地は「東京」と発してくれるでしょうか。あるいは福島の原発汚染水がために敗れ去り、前回の総会に続いて2連敗の憂き目にあってしまうでしょうか。
我が家(伊那)を出て、権兵衛トンネルを経て木曽の谷へ、そして松本市奈川からは、かっての「江戸街道」を駆け上がって、長野と岐阜の県境「野麦峠」までやってきました。12歳にしてこの峠を越え、岡谷の製糸工場に働きに出る少女の姿が1968年(昭和43年)に山本茂美の筆で小説になり、1979年(昭和54年)大竹しのぶ主演、山本薩夫監督によって映画になって、この峠が全国区に。
明治から昭和初期までの日本を背負った「生糸産業」その工場で働く少女の物語「ああ野麦峠」は女工哀史として広く知られた。3月まだ雪深い中に飛騨を出て、12月にはまた雪の中をふるさとに帰る。その道のり3泊4日~4泊5日とか。そんな少女たちを支えたのでしょう。この「お助け小屋」(この建物は、ここに現存したものではないようですが、実際に工女たちの憩う小屋があったとのこと)そして隣には立派な資料館「野麦峠の館」があるのです。
説明を受けます。まず「野麦峠」名前の由来から。峠付近には「クマザサ」がいっぱい。熊笹と思いきや隈笹と書くという。や~知らなかった。そこには、こんな説明がしてありました「50~60年に一度花が咲き、麦のような実を付けることから名付けられたという」
優等工女は「百円工女」といわれたという。小説の主人公「政井みね」さんもそのひとり。彼女もこんな表彰状をいただいたのでしょうが、結核に冒され、兄に背負われての帰路、ふるさとを前にして「飛騨が見える」と言って、この峠で亡くなられたという。そんな妹を背に人目を避けて夜道だけを歩いて我が家に帰ったという兄。今も村に残る彼女のお墓を詣でる人が絶えないという。まだまだ感動させられるお話があったのです。
今はメールでしょうか。いや携帯電話だけかな。かっては恋文。岡谷で働く少女と村の青年。その往復書簡のコピーを見せていただきました。そのお孫さんがこの資料館を訪ねられたそうです。その時その「恋文コピー」の名前を見てびっくり「家のおじいちゃんとおばあちゃんだ!」。この方はお家に帰られて、80何歳かで亡くなられた、おじいちゃんとおばあちゃんのツーショット写真に、若かりし頃(多分お二人は独身時)のお二人の写真(こちらはワンショット)を挟んでコメントを添えA4版に美装して送ってきたといって、それも見せていただきました。そして、その館員さんがおっしゃいました。「悲しい話ばかり表に出ていますが、こんなお話もあったんですよ」と。ほんとにほんわか気分にさせられたひとときでした。
かって日本を支えた養蚕農家は まもなく日本国からなくなってしまうでしょう。そのお蚕さん(おかいこさん)の糸が1,400mとは驚き。でも、あの繭を煮て糸を紡ぎ出す、その「糸口」は、如何にして見つけるのだろう。岡谷市にある「蚕糸博物館」に電話して聞いてみようか。
「年取り魚」は、関東から東は「さけ」で関西は「ぶり」だという。さけ、ぶり線は何処に引かれるのでしょう? 長野県でも北の方(長野市方面)では、「さけ」で新しい年を迎えるらしい。私のところは関西派。ハマチではいけません出世しきった「ブリ」でなければ。
この峠は、今回で3回目。歳を重ねると同じ事象に対してこんなに感ずるところが変わってくるものか・・・かっての時間は何だったのだろうと驚きの時を過ごしたのでした。