真実一路くんのひとり言

だれがやっても同じやとあきらめず、一歩ずつ
長いものには巻かれず、真実を大切にして。

釈迦内柩唄ー戦争とは何か

2007-10-20 | 読書
「同じ世代を生きて」(水上勉・不破哲三往復書簡)に触発されて、「釈迦内柩唄」(新日本出版社刊)を読んだ。

 ぜひとも、上演を観たい!と思った。
 ラストシーンがとても印象に残った。副知事さんが死んでお父は並の竈で焼かれることに。

 「…お父のために特等を掃除してたに、副知事さんがはいることになった。…アイ、まんつ忙しいごとになったすてぁ。姉ぁたちが帰ってくっから…手伝ってけるど思うども。
まんつ、お父。お父は並で焼がれるど…お父はついでねえな。」

 ーりんりんと鈴の音がしてくる。ホリゾントにこの舞台はじまって以来の美しいコスモス畑が現出されてゆく。

 「馬車だ…淋しがった、淋しがった、吾、淋しがった…姉ぁだちが、帰ってきたんだ、馬車の音っこする…」

 ーりんりんと鈴がなり、馬のいななきがして、幕おりる。
 
 「吾のお父は、どこさ出してもはじかしぐねお父だった。人はみな平等だ。したども、生いだその場所ど職業で差別されで生きでゆく、したども、死んでしまえば、弁護士さんも、知事さんも、百姓も木こりも同じだ。灰になるぁんだ。みな仏さんになるぁんだ。天皇さまも吾ど同じだべちゅうなが、お父の口ぐせであった。」

 「コスモスは、町の死んだ人の灰っこが育でだものであんす。…
ふじ子、おもしれえ花っこだべ、こんためずらしい白ども赤どもつがねえきれいだ花っこ。きっとこいはお母はんがもしれねぇな。心のきれぇな人だったスケ。…
吾、この何万本ものコスモスが、釈迦内で死んだ人の顔っこだって思えるようになったのは、この日がらであったんす。」
 女だてらにお父の仕事を継ごうと決心したふじ子。
 お父とお父の仕事(隠亡)を継いだ娘・ふじ子の生き様がラストシーンにつながっていく。実に印象的であり、心に残る。


 作者は「あとがき」でこう述べている。
「『花岡事件』は戦争というものの残忍さを物語るものであり、しかもそれが、戦場ではなくて、銃後とよばれた国内で起きていたことなので、ややもすると、戦争の悲惨を物語る歴史からもはずされるかげんもあってか、いまや、殆どの人が忘れ去っているといえる。…忘れられていいものか。心ある人々によって、いつも古い暦はよみがえって、今日の私たちに戦争とは何かを問いかけるのだと思う。」と。

 悲惨な戦争の歴史的事実をねじまげる流れがある時、「釈迦内柩唄」の持つ意味は大きい。


●「花岡事件」




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