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真実一路くんのひとり言

だれがやっても同じやとあきらめず、一歩ずつ
長いものには巻かれず、真実を大切にして。

プロレタリア作家・小林多喜二にみるヒューマニティ

2008-06-18 | 読書

 前日に続いて、プロレタリア作家・小林多喜二について
 = 心底からあふれ出るヒューマニティ =

 「多喜二の文学を語る集い」(民主文学08年6月号特集)での、「小林多喜二の文学と私の青春」と題して朴眞秀(韓国・大学教授)、「いま多喜二の文学を読む」と題して祖父江昭二(和光大学名誉教授)の二人の講演を読んで、多喜二の新鮮であふれるヒューマニティを感じずにはおれません。

 祖父江さんは、多喜二の「蟹工船」ではなく、出発点のデビュー作「1928年3月15日」をとりあげ多喜二の文学に接近しています。そして、多喜二が、この作品をめぐって二つの短い文章を書いていることを紹介しています。講演で紹介されたのは、最初に発表された『1928年3月15日』という感想です。

 《「そのころ私は銀行の勤めが終わってから、毎日組合の方へ廻って選挙の仕事の手伝いをやっていた」「私にはそこで運動している色々な『タイプ』の人達ー例えば、角がなくて皆に好きがられている親分肌の委員長の源さん、鉄みたいに冷静な組織部の渡、熱情家で演説のうまい争議部のY、学校出だが、すっかり組合のものになりきっているZ、鳥打帽でやってくる小樽高商の社会科学研究会の連中、しないの若い新聞記者…工場からくるもの、港の積荷人夫に1人々々…それ等がすべてまったく新しい『驚異』をもって迫ってきた。…この作品が発表されたとき、沢山の批評家によって、当時の所謂目的意識的な概念的な傾向に対して『具体的な生きた人間を描いた』最初のプロレタリア的作品であるという風に云われたが、そういう事も必然に以上のようなところから来ているのではないかと思われる」》と。このことを祖父江さんは、「つまり、『3.15』をになった人びとという現実を、『驚異』とみる初々しさ、深さで多喜二は受けとめていました」と自身の感想を述べています。
 
 一人ひとりを包みこむ優しさ、これこそが、多喜二のヒューマニティでありリアリズムでしょう。現代に生きる多喜二文学の真骨頂でもあるでしょう。

 朴さんは、多喜二をこういう風に評しています。
 「つまり多喜二は確かに革命の戦士というか、革命家、革命小説家ではありましたが、そういう側面より、たきじにとって革命は目的ではなくて手段だったかもしれないという考えもできるのではないでしょうか。つまり根本的に、『1928年3月15日』の小説にも出ていますが、自分の目だけでものを見るのではなく、相手の目でものを見て考えること。他の人の目で考えること。弱者の立場から考えるということができる小説家だったのではないかと思います」
 「現代社会はみんながエゴイストになりがちですけれども、そういったところで多喜二は、革命家と名を付けるよりも、反エゴイズム、つまりヒューマニズムの作家だったと私は思います」と述べています。

 命をかけて書かねばならなかった時代の、命をかけて書いた『驚異』は多喜二の心底からあふれ出るヒューマニティだったのでしょう。

 最後に、多喜二が虐殺された時の、志賀直哉の日記を紹介しておきましょう。私もこの講演を読んで初めて知ったのですが、この文章をいちばん最初に紹介したのは講演者の祖父江昭二さんです。
 「小林多喜二2月20日(余の誕生日)に捕らえられて死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり合わぬが自分は小林より良き印象を受け好きなり、アンタンたる気持ちになる、ふと彼等の意図ものになるべしという気がする」

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釈迦内柩唄ー戦争とは何か

2007-10-20 | 読書
「同じ世代を生きて」(水上勉・不破哲三往復書簡)に触発されて、「釈迦内柩唄」(新日本出版社刊)を読んだ。

 ぜひとも、上演を観たい!と思った。
 ラストシーンがとても印象に残った。副知事さんが死んでお父は並の竈で焼かれることに。

 「…お父のために特等を掃除してたに、副知事さんがはいることになった。…アイ、まんつ忙しいごとになったすてぁ。姉ぁたちが帰ってくっから…手伝ってけるど思うども。
まんつ、お父。お父は並で焼がれるど…お父はついでねえな。」

 ーりんりんと鈴の音がしてくる。ホリゾントにこの舞台はじまって以来の美しいコスモス畑が現出されてゆく。

 「馬車だ…淋しがった、淋しがった、吾、淋しがった…姉ぁだちが、帰ってきたんだ、馬車の音っこする…」

 ーりんりんと鈴がなり、馬のいななきがして、幕おりる。
 
 「吾のお父は、どこさ出してもはじかしぐねお父だった。人はみな平等だ。したども、生いだその場所ど職業で差別されで生きでゆく、したども、死んでしまえば、弁護士さんも、知事さんも、百姓も木こりも同じだ。灰になるぁんだ。みな仏さんになるぁんだ。天皇さまも吾ど同じだべちゅうなが、お父の口ぐせであった。」

 「コスモスは、町の死んだ人の灰っこが育でだものであんす。…
ふじ子、おもしれえ花っこだべ、こんためずらしい白ども赤どもつがねえきれいだ花っこ。きっとこいはお母はんがもしれねぇな。心のきれぇな人だったスケ。…
吾、この何万本ものコスモスが、釈迦内で死んだ人の顔っこだって思えるようになったのは、この日がらであったんす。」
 女だてらにお父の仕事を継ごうと決心したふじ子。
 お父とお父の仕事()を継いだ娘・ふじ子の生き様がラストシーンにつながっていく。実に印象的であり、心に残る。


 作者は「あとがき」でこう述べている。
「『花岡事件』は戦争というものの残忍さを物語るものであり、しかもそれが、戦場ではなくて、銃後とよばれた国内で起きていたことなので、ややもすると、戦争の悲惨を物語る歴史からもはずされるかげんもあってか、いまや、殆どの人が忘れ去っているといえる。…忘れられていいものか。心ある人々によって、いつも古い暦はよみがえって、今日の私たちに戦争とは何かを問いかけるのだと思う。」と。

 悲惨な戦争の歴史的事実をねじまげる流れがある時、「釈迦内柩唄」の持つ意味は大きい。


●「花岡事件」



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「無言館」に寄せて

2007-09-28 | 読書

    


 「無言館」って? 「ムゴンカン」と読みます。
 なんやろとお思いでしょう。
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 長野県上田市にある美術館です。
 なぜ、そんな名前がついているのでしょうか。ここの館長さんが「『無言館』にいらっしゃい」という本にそのワケをかいています。
 実は、その館長さんというのは、作家の水上勉さんの息子さんです。その人の名は、窪島誠一郎さんといいます。そのことを知ったのは、「同じ世代を生きて」(水上勉・不破哲三往復書簡」を読んで、巻末に窪島さんが父への思いや往復書簡について寄稿されていたからです。

 で、そんな名前がついているワケは、
「無言館にならんでいる絵が、名にも語らずに黙っているからです。そして、なにも語らず黙っているけれども、その絵からはたくさんの言葉が伝わってくるからです。…それともう一つ、「無言館」という名前をつけた理由があります。
 無言館の絵は、その絵が『おしゃべり』をしないだけでなく、その絵をみるわたしたちのほうもおしゃべりをせずに黙っているからです。無言館にやってくる人々は、みんな無言館の絵の前で立ちすくみ、何も言わずに静かに帰ってゆくのです。」
ということで「無言館」と名付けられたそうです。

 

 では、いったいどんな絵がかざられているのでしょうか?
 有名な人が描いた絵ではありません。
 「そこには、戦争で死んだ画学生さんー美術学校で絵を勉強して途中で戦争に行って、そのまま戦場から帰ってこられなかった画家のタマゴたちの絵ばかりがならんでいるのです」

 では、なぜその絵の前に立つ私たちまでが、無言のままそこに立ちすくんでしまうのでしょうか。実は、私も無言のまま、立ちすくんでいました。

 「画学生たちがこの絵を描いたのは、かれらが戦争にゆく直前のことでした。召集令状を受けとって、あと何日かで戦場にゆかねばならない、そんなギリギリの時間に描かれたのがこの絵でした。画学生たちは心のどこかで、『絵を描くのはこれがさいごかもしれない』、あるいは、『戦場に行ったら生きて帰ってこられないかもしれない』と覚悟をしていたはずです。…生きているうちに一つでも満足のゆく作品をのこしてゆきたい、いい絵を描いてゆきたいとそのことだけを考えて描いていたのにちがいありません。だからこそ、画学生たちの絵には私たちの心をうつ『情熱』があふれているのではないでしょうか。」と館長さん。
 伝わってくるんです。絵筆をもった愛の強さと情熱が、その絵から伝わってくるんです。

 館長さんは、「ですから、画学生たちの絵の前に立った私たちは、あらためて『戦争』のむごさ、『戦争』の悲惨さ、『戦争』がどれだけ人間を不幸にさせるものかを考えずにはいられないのです。
 そして、もう二どと戦争などという愚かな歴史を繰り返してはならない、今ある平和を大切にしなければならない、と言う気持ちにおそわれるのです。」と書いてます。

 「もう一度、描きたい!」
 その情熱が伝わってくる「無言館」です。その情熱を無にしてはならない。

 「無言館」館長・窪島誠一郎さんは、やはり父・水上勉とち かけいでつながっている。


さあ、みなさん
戦没画学生の待つ「無言館」にいらっしゃい!(館長さんのよびかけです)

←応援よろしく

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


















 

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「同じ世代を生きて」(水上勉・不破哲三往復書簡)を読んで

2007-09-27 | 読書



同じ世代を生きて 水上勉・不破哲三 往復書簡を読んで

―地下茎でむすばれている二つの土台―
<o:p> </o:p>

読み終えて、実にすがすがしい思いである。

戦後を代表する一人の作家と政党指導者の交心記録である。

二人の仕事ぶり、活動ぶりがかい間、見えて楽しい。

お互いを思いやる実直な交心が、読む人の感動を与えずにはおれない往復書簡だ。

きっかけは、お互いの「心臓病」であったが、「同じ世代を生きて」、地下茎でむすばれているものの土台を痛感させられた。

 不破夫婦が勘六山の山房を訪問(1995年8月23日)したとき、七加子(不破夫人)さんが「私が見るところ、それぞれの仕事を認めあっているけど、それでいて自分の考えを押しつけたりしない。通じるものがあるとすれば、水上さんの作品の中にあるように貧しい人、苦しんでいる人、いろんな障害をもってる人、そういう一人ひとりの人間への気持ちじゃないかしら…」と話されたとき、水上さんは「そう、目で見えない地下茎でつながっている。ただ、私は泣いとるだけですよ。泣き歌だから、それは通じるんでしょう。小説はその泣き節で読者に喜ばれ、支持をかちえるが、不破さんは泣くのがおいやで政治家になられたと思う。だが地面の下ではつうじるんですよ」と二人が共感しうる思いを述べている。

二人の対談(1999年11月27日、28日)で不破氏はこう語っている。「水上さんはすぐ『私は泣き節だ』とかいうんですが、“泣き節”でも“訴え節”でも共通なのは、社会を弱者の立場から、また底辺の側からみるということ、それがずっと流れているでしょう。…こうして、弱者の立場、底辺の立場から、人間をとらえ社会をとらえ、その角度からそのことの悲しさを描いてゆく。これが水上さんの言う“泣き節”だとしたら、それは同時に、これでいいのか、という“訴え節”になっています。…文学と政治、道はちがうのですが、この点では、水上さんの歩まれてきたこととの共通点というか、接点を非常に感じるんですね」と。

地下茎は「社会を見る角度」という考え方の土台の部分で深く結ばれている。
<o:p> </o:p>

もう一つ地下茎で強くむすばれているものは、日本の戦争の問題である。いまその時代をふりかえるとき、あの戦争も他国への植民地支配も、絶対にくりかえしてはならない誤った歴史と見る点で、おなじ見方、同じ気持ちをもっていることが、じかの対談で直接確認できたことを心強く思っている。(不破氏)

1989年の昭和天皇死去のとき、朝日新聞が「昭和と私」という文章を10人の知識人に書かせ(夕刊の連載)、その文章の最後の部分、「平成と改元されても、あやまちの多かったこの人生をひきずってゆくしかないのである。戦争をおこそうとする者にはあとわずかな命ゆえ、命がけで闘わねばならぬとぼくは、1月7日から8日にかけて、ひとり考えた」。(「戦争を呪う今日を生きる 欺瞞の過去に感慨無量」1989年1月13日付夕刊)
 この文章について不破氏は「このとき、追悼の言葉をいっさい言わないで、昭和を総括するというのは、なかなか勇気のある文章ですね」とそして「人の心を打つ強烈な力をもった文章だった」と、自身の感動を述べている。
 

 水上作品の一つに「釈迦内棺唄」がある。若州一滴文庫版の「あとがき」に「この事件は日本人というものが、私もふくめて、いざパニックがくれば、どんなことをしでかすかしれないという、恐ろしい人間業としての残忍さを剥すのである。『花岡事件』にかぎられていなかった。…戦後も40年もすぎると、人には、イヤな暦を破りすてたい気分が生じ、ややもすると古傷を堀だす行為を云々する傾向にある。それでいいのだろうか。この世には忘れてはならないことというものがあって、人間である以上は、何ども何ども語りつがねばならないことはあるものだ。戦争というものを二どと起こしてはならないならば、『花岡事件』は、日本人として忘れてはならないことの一つだ。」と記し、不破さんはそのことを「日本の過去の侵略戦争や植民地支配についての歴史認識が問題になっている今日、これは日本の過去をふりかえるさいに、銘記すべき文章だと思う」と述べている。

 沖縄戦「集団自決」問題での文科省の検定や従軍慰安婦問題など侵略戦争を美化する動きが強まっているとき、水上氏が書いた「戦争をおこそうとする者には、命がけで闘わねばならぬ」は、二人の揺るぎない土台として、地下茎でしっかりとむすばれているのである。

※「釈迦内柩唄」は新日本出版社で新刊発売中



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「ひとを愛するものは」ー大島博光詩集に寄せて

2007-08-27 | 読書
 「夢と真実」を詩の中に

 若い頃、読んだ大島博光詩集「ひとを愛するものは」を引っぱりだして読んだ。
 私も、「書きたい」という思いが、ふつふつと沸きあがってきたからだ。
 この詩集のあとがきのページの余白に、当時、鉛筆で抜き書きしたものが残っている。「生死を賭けるに足る現実世界」(アラゴン)とだけ。

 大島博光は、ファシズムが統制と弾圧を強めて、戦争へ突入していく時代に書き始めた世代。モダニズム・芸術至上主義者であった。「モダニズムの詩の流派に共通しているのは、政治(現実)にはかかわらない、政治(現実)を否定する、政治(現実)からの逃避と言う態度であった。一方では治安維持法をふりかざしたファシズムは、そういう詩と詩人のありようとしかゆるさなかったのである」(詩集あとがき)

「生死を賭けるに足る現実世界」とはなにか。歴史をねじまげてでも戦争への道をすすまんとする政治(現実)、人間の尊厳を踏みにじり、貧困と格差があたりまえのような政治(現実)である。

 大島博光は「生死を賭けるに足る現実世界」をみいだし、「アラゴンやネルーダのような先駆けの偉大な詩人たちのように、美と真実を、夢と現実を、詩の中に統合する」ことをめざすことができたのは、マルクス主義とその党であることを感慨深く書いている。(詩集あとがき)

 この詩集には、戦後に書かれたものが収録されている。
 その最初に掲げられている詩が私の好きな“春がきたら”である。
 ほんとうに生命あるものの鼓動が聞こえてくるよう。

 「春がきたら」

 春がきたら 耳をあててごらん
 大きな けやきの樹の幹に

 きこえるだろう その暗い幹のなかを
 樹液のかえのぼる音が

 千の若芽 若葉が
 水を吸いあげる音が

 だから 木の芽どきになると
 井戸の水が ひくくなる

 三月のそらにもえる 千の若葉が
 千のばけつで汲みあげるから

 春がきたら 耳をあててごらん
 大きな けやきの樹の幹に

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「官僚とメディア」-メディアの役割

2007-08-24 | 読書

  

 「官僚とメディア」(角川書店・魚住昭著)を読んだ。事件の真相を追う取材とそこに立ちはだかるもの、著者の葛藤など興味深く読ませてくれた。
 著者は共同通信社の記者を経て、現在はフリージャーナリスト。著書に「野中広務 差別と権力」「特捜検察」「渡邊恒雄 メディアと権力」「国家とメディアー事件の真相に迫る」など多数。

  「美しい国」を掲げて阿部政権が華々しく登場した直後、共同通信社会部が準備していた記事が、配信直前になって差し止め。安倍首相の資質を国民に問うはずだった1本の記事が闇に葬り去られる経緯を追うと権力にすり寄るメディアの実像が鮮明に。著者は指摘する。「そのために報道機関が権力批判の刃を鈍らせてしまうなら、これは本末転倒というほかはない。…たとえどんな大義名分があろうと、権力批判の刃を捨てた報道機関は報道機関の名に値しない」と。そしてこうも書く。「現場で走り回る記者たちの真剣な思いを共同通信上層部は無視しつづけるのだろうか。だとしたら、それはまさにジャーナリズムの自殺にほかならない」と。

 「偽装」事件が後を絶たない。「偽装請負」に、ミートホープにつづいて“白い恋人”の「偽装食品」など、はては国会議員による偽装の「収支報告書」だ。とくに「偽装」が言われるようになったのは、日本中を騒がせた耐震強度偽装事件以来だ。
 報道が権力によってゆがめられるのはある意味では日常茶飯事だが、それ以上に怖いことがメディアの世界では起きているとその実例の一つとして耐震偽装事件をとりあげている。「悪のトライアングル」が事件の真相であるといわれていたが、それは国交省の官僚たちの情報操作によって仕立て上げられたものだと。そして著者は指摘する。「…事件の最大の責任は姉歯にある。しかし、もし建築確認システムが正常に機能していれば、姉歯の犯行が10年間も見破れないというような事態にはならなかった」と。ここにも「規制緩和」万能論と「官から民へ」がつくりだした「建築確認システム」の形骸化・破たんがある。
 この事件の問われるべきは国交省の官僚たちの責任だが、ほとんど無傷のまま生き残った。なぜ、彼らが責任回避に成功したか、それが情報操作であることをこの著書は解き明かしている。

 著者は、ナベツネ氏の連載で自分が何を撃つべきかようやくわかったとして、読売新聞にも、共同通信にも共通する腐敗の構造、それをえぐりださなければならないとしている。が、その組織の変質を許してしまったのは他ならぬ私たち、私自身が上司らの理不尽な行為に遭遇したとき、彼らの責任を徹底的に追求できず、逆に泣き寝入りが多かったとふがいなさを述懐している。そこに立ちはだかる巨大な力、壁は、著者をしても打ち破ることができない。打ち破ることができなかったのである。
 だからこそ、「あとがきにかえて」で、「おこがましい言い方をさせてもらえば、私のつたない文章の背後にはメディアの現場で奮闘している人たちの必死の思い」があることを想起されるのでしょう。
 「メディアはだれのものか」ー「新聞・テレビを中軸とするメディアは経営者や株主や広告主のものではなく、無数の読者のものであるはずだ」という著者。権力批判の刃をもち、メディアと権力の接点で仕事をされている著者がー(そしておそらくは近い将来に実現するであろう憲法改正)ーと、いとも簡単に言われるのは理解できない。たとえ、その裏には政府や最高裁とメディアが一体となって仕掛けたプロジェクトがあったとしても。刃を研ぎ澄ましての、いっそうのご活躍を心から期待するものです。
 

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「衣装を剥ぎ取れば」ー「シェイクスピアの人間学」

2007-07-02 | 読書
 人間が好きです
 シェイクスピア作品の魅力とは何かを解き明かしたのが、小田島雄志著「シェイクスピアの人間学」。さすが、シェイクスピア作品を全部訳した、自称「シェイクスピアのセールスマン」である。
 「シェイクスピアは人間を描きました。人間が好きで、人間にこだわって、人間の生きている姿を描きました。人間とは、このように愛したり憎んだり、笑ったり泣いたり、悩んだり決断したりして、生きていくものなのだなあ、と感じさせてくれるのが彼の劇」だと。
 シェイクスピアの作品には、「悲劇喜劇を問わず、かならず言っていいほど、裏切りや忘恩、中傷や欺瞞などにふれる台詞やエピソードが出てきます。きっと彼も、実人生において、傷ついたり恨んだりした経験が多かったのだろうなあ、と思われるほどです。だが、それでもなお、人間にはそれを上まわるぐらい愛すべき点、称賛したくなる点、自分も人間であることを誇らしく思われるような点があることをシェイクスピアは見せてくれます。だからこそ、やはり傷ついたりつらい思いをしているわれわれも、彼によって慰められたり励まされたりするのです」と。

 「人間、衣装を剥ぎ取れば、おまえのように、あわれな裸の二本足の動物にすぎぬ」は、リア王の台詞。
 権力を握っている人も、そうでない人も、「衣装を剥ぎ取れば」だれでも同じ「あわれな裸の二本足の動物」だ。ホリエモンも、グッドウィル・グループの折口会長も、自殺した前農水相大臣も、私も。

 最後のⅤ章に「台詞の中の人間学」。これがまた、なかなかおもしろい。
「どんな長い夜もいつかはきっと明けるのだ」(マクベスより)
他、いろいろ台詞から…



 





 
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