ブルーバックスの日本史サイエンス、科学的に日本史の事例を紹介しています。この本では、元寇の文永の役(1回目)、豊臣秀吉の備中大返し、戦艦大和を取り上げています。筆者の播田安弘氏は船の専門家で、主に船や海洋学の観点から歴史を検証しています。
まず秀吉の備中大返しですが、備中高松から山崎までの約220kmを8日で走破した事になっていますが、流石にこれだけの距離を2万の大軍が移動するのは無理があり、秀吉は事前に本能寺の変を知っていて黒幕ではないかとの説まで出ています。流石に本能寺の変の黒幕説は無理がありますが、明智光秀の怪しい動きを事前に察知していて、念のために姫路などの街道沿いに予め移動の準備をしていたとの説も有力になっています。
本能寺の変が6月2日の早朝で、備中高松の秀吉の陣に第一報が届いたのが、一説では6月3日の夕方、毛利方と急いで講和し、備中高松を出発したのが6月5日と言われています。山崎の合戦が行われた6月13日なので、8日間の間に山崎まで移動しなければ辻褄が合いません。たとえ、秀吉の軍勢、およそ2万と言われていますが、この軍勢が山崎まで8日で移動できたとしても、疲労困憊していて、戦力にならなかったのではないかと述べています。
山崎の合戦の主力部隊は、備中高松城を水攻めで包囲していた秀吉の手勢ではなく、四国へ渡る直前で大阪にいた丹羽勢や織田信孝勢、畿内やその周辺の諸将の軍ではないかとの説が近年有力になっています。秀吉は側近や直属の供回りの僅かな兵だけで、馬で姫路から大阪まで駆け抜け、合戦に参加したことになります。
岡山と姫路の間には船坂峠があり、当時は街道も整備されておらず難所でした。ここを迂回するために備前片上から赤穂まで船を使ったというのが筆者の推理になります。
元寇のうち、弘安の役は、鎌倉幕府側の徹底抗戦と台風の襲来であることは、よく知られていますが、文永の役については、いろいろな説が出ています。最近、偵察攻撃説が出ていて、一定の支持を集めています。筆者はそうではなく、蒙古と高麗が諸般の事情で、出征が遅れ10月になったのが致命的になったとされています。
博多湾での戦いについては、筆者は博多湾の水深等を考慮して、上陸地点と戦いが行わた場所も推定しています。当時の博多湾は当然桟橋などはないので、大船団からの揚陸戦は小舟に乗り移ることになります。蒙古と高麗の兵力は2万から3万でこれだけの兵力を小舟で揚陸させるのには、数時間の時間がかかります。そこで、少数づつ揚陸を繰り返して、鎌倉幕府の御家人の抵抗を受けて、かなりの損害を出したのではないかと推定しています。
それで、玄界灘、対馬海峡は11月までは穏やかですが、12月に入ると荒れて、渡るのが困難になります。そのため、長期間の戦いが不可能で、11月末には引き上げる必要がありました。その帰路の途中に、暴風雨にあって、壊滅的な被害を受けたようです。
筆者は、船舶の専門家で、その視点からの検証が多いのですが、兵站や当時の兵器の威力なども考慮して、日本史を見ているのが斬新なところではないかと思います。
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