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にしみの鉄道情報局付属ブログ

ブルーバックス・日本史サイエンス弐

2022-09-21 | 書評

 

以前紹介した日本史サイエンスの第二弾になります。今回は邪馬台国と朝鮮出兵と日露戦争の日本海海戦を取り上げています。

 

邪馬台国がどこにあったのかは、悪魔の証明に近いですが、概ね近畿か北九州かに絞られていて、初め九州にあって後に大和に移り大和王権の基になった邪馬台国東遷説も有力な候補です。神話もある程度史実を反映している事は、糸魚川での翡翠の再発見など考古学的に証明されています。日本書紀古事記の神武東征に基づいて、邪馬台国は北九州にあったものが、大和盆地に移ったというのが邪馬台国東遷説で、特に近年発掘された纒向遺跡からは、それ以前に大和盆地に権力者の痕跡がなく、突如として巨大な都市が大和盆地に出現した事がわかり始めています。

また古くから卑弥呼は天照大神ではないかとの説が唱えられています。それで、西暦247年と248年に日本列島で皆既日食があったことは天文学的に立証されており、これが天の岩戸伝説ではないかと推定されています。この日食、どうやら北九州では日中に見られましたが、大和盆地では日没後で皆既日食は見られず、卑弥呼が天照大御神であれば、邪馬台国北九州説は有力になります。つまり卑弥呼の時代の邪馬台国は北九州にあったことになります。

そして魏志倭人伝の書かれた頃には大和盆地に移っていたのではないかと推定されています。

 

魏志倭人伝では松浦半島に上陸してから、方向と距離日数で次の国、そこから次の国とへ至るとされていて、最後に邪馬台国に到達します。末盧國(松浦半島と推定される)から、伊都国(糸島周辺と推定される)、奴国(博多付近と推定される)、不弥国(福岡県北部と推定される)までは、里数で距離が書かれていますが、ここから距離が日数に変わってしまいます。不弥国から投馬国へは水行20日、投馬国から邪馬台国までは、有名な水行10日陸行1月ということになります。

 

ここからは、筆者のオリジナルの推論になりますが、瀬戸内海は潮位の変化や潮の流れが激しく、水先案内人の案内なしには、航行は困難で、平安時代までは、中国からの貿易船は博多止まりで、瀬戸内海には入ってきていませんでした。それで、魏からの使者は気候が穏やかな時は瀬戸内海よりも潮位の変化や潮の流れが少ない、日本海、山陰を経由しているのではないかと。使者は日本海側の城崎豊岡舞鶴あたりに上陸して大和盆地に達していたのではないかと推定しています。

豊岡から大和盆地までは陸行1月はかなり妥当な所なので、方角を無視すれば、距離的には最もあったルートになります。

 

筆者は船の専門家の視点で、瀬戸内海は地元の水先案内無しには航行困難という、歴史学的にあまり触れられてこなかった事を指摘しています。

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