先週も金曜日11日はきーちゃんの高圧電位。
病院ではちょっと難しい話をされました。
きーちゃん最近イマイチなことも多く、そんな時大抵は元気なく寝ていたり、警戒心が強くて一旦乗った手から落ちて羽が取れたり曲がったり・・、
でも警戒していたのがふとスイッチが入って再び手に乗って熱唱やおしゃべりを始めて、
と、その不安定さにこちらも対応に悩みます。
先生はまた私が不安になっているからだ、と言います。
「最近は不安というより、どうしたら安心してもらえるかな、怪我しないでもらえるかな、と考えているんです、でももし怪我してもパニック起こしても、またか仕方ないなと受け止めているつもりなんですよ」
と言うと、
「どうしたらよいかと悩む自体不安になっているということだ、仕方ないなと受け止めていると自分に思い込ませているだけで、本当は不安を感じている、だからそれがきーちゃんに伝わる」と言われました。
「そうなのかもしれないけど、せめて形からでも、平然と受け止める風でいるところから始めないとと思って」と言うと、
「形から入ってるものは形だけで、不安は伝わる」と。
「そんなこといったら難しくないですか、心の底から不安を全く持たないでいられる人なんているんですか、みんなそれができてるわけですか?」と聞くと、
「できてないですね」だそうで・・・。
???みんなできていないことをどうしたらできるわけ????
「ではどうしたらそうできるようになるんでしょう、心に響く本や映画でも沢山みる?」
と聞いたら、
「それは疑似体験(だったかな?)だから、それをしても出来るようにはならない」と。
「うーん、では瞑想でもするしかないですかね??」と言ったら、
「瞑想はよいかもしれません」と。
「では、瞑想して、不安に思うことは実は不安なことでもないと打ち消していけばよいのでしょうかね」と聞いたら、
「そうではなくて、自分はこれでよいのだ、自分はこのままでこの世に存在してよいのだ、と気づくこと」と言われました。
なんだかとても奥が深そうな言葉です。
「どうしたらよいかと思ってる時点で不安になってることだ」と言われても、
きーちゃんがどうしたら安心してくれるか、怪我しないでくれるか、楽しんでくれるか、
どうしたらそうなるかを考えてるわけだから、考えないでどうしたらよいわけよ。
どうしたらよいかを考えて、こうしようと決めて接して、思うような結果にならない時はまたどうしたらよいか考えて、とすればよいのかなあ。
迷いながら接するとその迷いが伝わると思うし。
そんなことをあれこれ思い悩んでいたら、以前きーちゃんの相手に四苦八苦しながら考えていたことが浮かんできました。
昔は鳥との暮らしにこんなに悩まず気楽に満喫できていたんです。
何故今は苦しんだり悩んだりするのか。
何故昔は気楽に楽しんでいたのか。
鳥との生活の進化系を、自分にあてはめながら考えてみました。
まず最初の頃は、「気づかず気にしない」
鳥の変化に気づけず、気にもせず、楽しんでいました。
だから急な悲しい別れもいくつか経験しました。
次は、「気づけないけど気にする」
気にすべきことに気づけないけど、何かが変だとは気になるようになりました。
ただこの時代は気づけても対応してくれる病院もなかったんです。
そして今は、「気づいて気になる気にする」
ちょっとした変化にすぐ気づき一々気になり考えこんで心配します。
だからその先は、「気づいて気にしない」が望ましい姿なのかなあ、なんていうようなことを考えていました。
対応が必要なものは対応しなければいけないけど、そこを見極め、対応しようもないものは気にしない、という感じです。
気になるものを気にしない、って、どこか無理があるような気も・・。
こういうことって、鳥に対してだけのことでなく、生き方全てに通じることだとも思います。
あれこれ考えた末に、京都の小鳥屋のおじさんなら何と言うだろうと聞いてみたくなり、久しぶりに電話をかけてみました。
きーちゃんの話、先生の話をしながら、「気づいても気にしない」のがよいのかなと最近思うんですと話すと、
「いやいや、気にしても苦にしない」
だと言われました。
「気にはしなきゃいけない、でも苦にしてはいけない、命に関わることだから色々と気にしてあげなければいけない、でもそれを苦にしてはいけないのです」と。
「ああ、そうか!」と、びっくりしたとともに、私の頭にスーっと入ってきました。
私はきーちゃんのことを思い悩んでは苦にしていたのです。
きーちゃんを肯定できていかなった。
パニックを起こすきーちゃん、怪我するきーちゃん、警戒心まるだしのきーちゃん、じっと寝ているきーちゃん。
それを何とかしてあげたほうがきーちゃんのためと思った。
そういうきーちゃんを受け入れず、変えた方がよいのだと思っていた。
でも、今のきーちゃんにはそれが自然の姿であって、きーちゃんは変えて欲しいと望んでいるわけでなはい。
私が望んでいる姿をきーちゃんに押し付け、そうはなってくれないことを苦にしていた。
元々が臆病な上、羽を無くして心身のバランスが取りにくくなってしまったきーちゃんにとっては、パニックも警戒心も怪我も、そうなって然るべき姿なのだと認め受け入れることができていないことに気づきました。
先生もそこが言いたかったのだと思います。
受け入れていると自分に思い込ませているだけだと。
そのままでいいんだよ、と気づくことが大事なのでしょう。
健康のためのと高圧電位に通ってはいるけれど、きーちゃんが変わろうが変わらなかろうが、どーんと構えて受け入れ見守ってあげるのが私の役目なのかなと、改めて気づきました。
気にしても苦にしない、ココもきーちゃんも大好きだから、二羽のことをあれこれ気にしながら世話するけれど、それを苦にしない、と考えると、私でもできそうな気になってました。
クドイ話のようですが、頭の整理がついて気持ちが楽になってきました。
先生もおじさんも結局は同じことを伝えようとされていたのかなと思います。
お二人に話を聞けてよかったです。
お二人とも、「ありのままの姿を受け入れる、死んでしまっても、それを受け入れる」というようなお話をされていたのも心に残りました。
いつか必ずくるその時を、悲しくても苦にしない、実際は難しそうですが、そうなれたら、その時こそ永遠に一緒にいられるのではないかな。
とここまでは、頭の中をまとめることができてよかったよかったと思ったのですが・・・、
あまりに頭を使いすぎたせいか、二羽を寝かせたあとその傍であれこれ考えているうちにこっくりこっくりしてしまい、ココのケースに頭をガツン!
ココパニック、そしてきーちゃんパニック・・。
ココは風切羽一枚取れ鼻ぶつけ、きーちゃんは風切羽一枚と尻尾二枚取れ、羽が生えてこなくなった膨れた根元からはビュッと出血。
全くもう、猛反省です。
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