日ごろ、政治経済の話ばかりしていますが、たまには人間の精神について考えてみます。
僕は20代の頃、シュタイナー思想に詳しい人に色々教えてもらったことがありますが、今現在の思考ベースは、その頃に見につけたものが主軸となっているといって過言ではありません。
一言で言えば、中世の神秘主義を学問にしたものなのですが、それについて独特の宗教観まで言及するのは、99%の人が理解不能になってしまうことが予想されるので、やめておきます(笑)
で、簡単な話から入りますが、
たとえば、「どうして、人を殺してはいけないのか?」という問いかけが、猟奇殺人が多発した1990年代に、書籍になった時期がありますが、多くの有名な作家先生が文章化しても、なかなか明確な答えを出せなかったのですが、「人を殺さない自由を選びなさい」というのが、シュタイナー思想の答え方になると思います。
親や学校の先生が教えてくれることはありませんが、実は、世の中には、人を殺す自由というのもあるのです。
たいがいの人は、殺す自由については、踏み入って考えることがないので、「国家の品格」の藤原正彦さんのように「ならぬものは、ならぬ」という、理屈ぬきの躾で話を済まそうとしてしまいますが、世の中を哲学的に考えてしまう10代の少年たちにとって、そんな押し付けがましい話は面白くもなんともないのです。
リトルビット(ちょっとだけ)考えれば、社会的に認めている死刑という殺人もありますし、犯罪者から身を守る正当防衛という殺人もありますし、戦争という殺人もありますから、「ならぬものは、ならぬ」という藤原正彦の言論は、賢い子供たちには、秒殺されてしまうわけです(笑) これらは、たいがい大人が答えを出しきれていないのが現状です。
「世の中には、人を殺す自由もあり、人を殺さない自由もある。あなたは殺さない自由を選びなさい」
こう教えることができれば、プラス、マイナス両方向の思考バランスを保ちながら、善性への積極性が生まれてもくるわけです。
それを踏まえれば、最近の「なぜ働かなければならないのか?」という問いかけにも、「人には働かなくていい自由もあれば、働く自由もある。人様々だが、あなたは、働く自由を選びなさい」という答えも出てくるわけです。
世の中には、何百万冊の書籍があふれ、テレビや新聞やインターネットで洪水のような情報で溢れかえっていますが、本当に価値のある情報というのは、微々たるものというのが、僕の日ごろからの感想です。
日本の場合、地下鉄サリン事件のときに、オウム真理教が、あれだけ報道されながらも、宗教的な掘り下げがないまま、本質的な議論を行わないできたのですから、将来同じような事件が再発する可能性を残しています。
数年前の「朝まで生テレビ」で、「地下鉄サリン事件は、明らかに法的に問題がある別件逮捕が多発し、具体的に検証されてもいない」「このまま行けば、100年後に麻原彰晃がキリストになっている可能性もある」という議論もされていましたが、マスコミが叩くだけ叩いたところで何にも答えは出せていなわけで、本当に麻原がキリストになってもおかしくはないのです。
「宗教の本質は、狂気である」という麻原の言ったことは、間違ってはいませんし(笑)、当時は、結構説得力のあることも言っていましたが、そちらの方が遠い将来、肯定的な形で活字になってしまう可能性も秘めているわけです。
本物のイエス・キリストもそうですが、800年前に島流しになった日蓮などの僧侶も、当時は政治犯だったわけで、今では政教分離できないほど、世の中に食い込んでいますから、大げさな話ではないでしょう。
要は、宗教や思想、政治もとくにそうですが、指導者は、世の中を混乱させるような惰性に人を巻き込んではいけませんし、人も巻き込まれてはいけないのです。悪性を知り、善性と比較した後に、主体的に選択するプロセスを経て、初めて自由というものの存在意義もあるわけです。
シュタイナー思想的に考えれば、
「人を殺さない自由を選ぶ」
「仕事をする自由を選ぶ」
「人を愛する自由を選ぶ」
「健康的な生活をする自由を選らぶ」
「掃除をまめにして、清潔にする自由を選ぶ」
「妻や、夫を理解する自由を選ぶ」
「食品偽装をしない仕事を選ぶ」
「新自由主義社会を、否定する自由を選らぶ」(笑)
など、これらは日ごろから考えたり、勉強していかなければならないですが、善性の高い自由を選択していくことで、個人の精神的な自由度も、社会的な自由度もけっこう保証されていくことと思われるわけです。
こうやって、あらかじめ精神的に思考体系をスッキリさせていれば、ストレスがたまらないでしょう。
ただ、「オウム真理教を継承していく自由を選ぶ」
という考えもあるので、やっかいなのですが(笑)
さらに発展させて、指導者との関係や、組織的な空気、縛りから自由でいられるかどうかまで考えるのが必要と思われます。
僕は20代の頃、シュタイナー思想に詳しい人に色々教えてもらったことがありますが、今現在の思考ベースは、その頃に見につけたものが主軸となっているといって過言ではありません。
一言で言えば、中世の神秘主義を学問にしたものなのですが、それについて独特の宗教観まで言及するのは、99%の人が理解不能になってしまうことが予想されるので、やめておきます(笑)
で、簡単な話から入りますが、
たとえば、「どうして、人を殺してはいけないのか?」という問いかけが、猟奇殺人が多発した1990年代に、書籍になった時期がありますが、多くの有名な作家先生が文章化しても、なかなか明確な答えを出せなかったのですが、「人を殺さない自由を選びなさい」というのが、シュタイナー思想の答え方になると思います。
親や学校の先生が教えてくれることはありませんが、実は、世の中には、人を殺す自由というのもあるのです。
たいがいの人は、殺す自由については、踏み入って考えることがないので、「国家の品格」の藤原正彦さんのように「ならぬものは、ならぬ」という、理屈ぬきの躾で話を済まそうとしてしまいますが、世の中を哲学的に考えてしまう10代の少年たちにとって、そんな押し付けがましい話は面白くもなんともないのです。
リトルビット(ちょっとだけ)考えれば、社会的に認めている死刑という殺人もありますし、犯罪者から身を守る正当防衛という殺人もありますし、戦争という殺人もありますから、「ならぬものは、ならぬ」という藤原正彦の言論は、賢い子供たちには、秒殺されてしまうわけです(笑) これらは、たいがい大人が答えを出しきれていないのが現状です。
「世の中には、人を殺す自由もあり、人を殺さない自由もある。あなたは殺さない自由を選びなさい」
こう教えることができれば、プラス、マイナス両方向の思考バランスを保ちながら、善性への積極性が生まれてもくるわけです。
それを踏まえれば、最近の「なぜ働かなければならないのか?」という問いかけにも、「人には働かなくていい自由もあれば、働く自由もある。人様々だが、あなたは、働く自由を選びなさい」という答えも出てくるわけです。
世の中には、何百万冊の書籍があふれ、テレビや新聞やインターネットで洪水のような情報で溢れかえっていますが、本当に価値のある情報というのは、微々たるものというのが、僕の日ごろからの感想です。
日本の場合、地下鉄サリン事件のときに、オウム真理教が、あれだけ報道されながらも、宗教的な掘り下げがないまま、本質的な議論を行わないできたのですから、将来同じような事件が再発する可能性を残しています。
数年前の「朝まで生テレビ」で、「地下鉄サリン事件は、明らかに法的に問題がある別件逮捕が多発し、具体的に検証されてもいない」「このまま行けば、100年後に麻原彰晃がキリストになっている可能性もある」という議論もされていましたが、マスコミが叩くだけ叩いたところで何にも答えは出せていなわけで、本当に麻原がキリストになってもおかしくはないのです。
「宗教の本質は、狂気である」という麻原の言ったことは、間違ってはいませんし(笑)、当時は、結構説得力のあることも言っていましたが、そちらの方が遠い将来、肯定的な形で活字になってしまう可能性も秘めているわけです。
本物のイエス・キリストもそうですが、800年前に島流しになった日蓮などの僧侶も、当時は政治犯だったわけで、今では政教分離できないほど、世の中に食い込んでいますから、大げさな話ではないでしょう。
要は、宗教や思想、政治もとくにそうですが、指導者は、世の中を混乱させるような惰性に人を巻き込んではいけませんし、人も巻き込まれてはいけないのです。悪性を知り、善性と比較した後に、主体的に選択するプロセスを経て、初めて自由というものの存在意義もあるわけです。
シュタイナー思想的に考えれば、
「人を殺さない自由を選ぶ」
「仕事をする自由を選ぶ」
「人を愛する自由を選ぶ」
「健康的な生活をする自由を選らぶ」
「掃除をまめにして、清潔にする自由を選ぶ」
「妻や、夫を理解する自由を選ぶ」
「食品偽装をしない仕事を選ぶ」
「新自由主義社会を、否定する自由を選らぶ」(笑)
など、これらは日ごろから考えたり、勉強していかなければならないですが、善性の高い自由を選択していくことで、個人の精神的な自由度も、社会的な自由度もけっこう保証されていくことと思われるわけです。
こうやって、あらかじめ精神的に思考体系をスッキリさせていれば、ストレスがたまらないでしょう。
ただ、「オウム真理教を継承していく自由を選ぶ」
という考えもあるので、やっかいなのですが(笑)
さらに発展させて、指導者との関係や、組織的な空気、縛りから自由でいられるかどうかまで考えるのが必要と思われます。
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