雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺の日記「モニタリング」

2016-12-07 | 日記
   ◇人生の カス貪るや 枯れ薄

 季語の枯れ薄は、幽霊の正体の「枯れ尾花」ではなく、実は猫爺本人のこと。人生、精一杯生きて何が不服であろう。そのうえ、ブログだ、動画だのと遊ばせて貰って、それも細やかながら幸せではないか。そんな思いでこの句を詠んだ。

   ◇老いなれば 老いならではの 梅の春

 ‥‥である。

  (/・ω・)/それは、おいといて

 猫爺は、幽霊小説を書いているが、本当のところ完璧に神仏や幽霊の存在を認めない無神論者である。テレビ番組の、例えば「モニタリング」などで溌剌とした若者が幽霊を恐れているのをみると不思議でならない。また、「可愛いなぁ」とも思う。仏教でも実体のないものと位置付けられている幽霊の存在を、素直に信じ込んでいるのだから。

 続いて、「モニタリング」の話であるが、青年が公園を歩いていて、中年の男が苦しんでいるのを見かける。青年が駆け寄って声をかけると、
   「これを娘に届けてやる途中だが、苦しくて動けなくなった」
 と、荷物の中身を態々出して見せる。それは現金の束で、一千万円だという。中年の男は、青年に哀願する。
   「どうか、これをすぐそこて待っている娘に届けてやってほしい」
 娘には合言葉を伝えてある。「山」と言えば「川」と応えたら娘であると言う。何で親父が娘に金を渡すのに合言葉を用意する必要があるのだろうと気が付くのが普通だが、大金を見ず知らずの青年に託す不自然さにも気付かず、青年は快諾して金を持って駆け出してゆく。

 ここで爺が気になったのは、もしこの青年が金に困っていて、このまま金を持ち去ろうとしたらどうなるのだろうかと言うことである。もちろん青年にはカメラマンや音声さんが張り付いていて、そうはさせないかも知れないし、金は偽物だったかも知れない。だが誘惑に負けて持ち去ろうとした青年は、生涯この出来心の後悔に苛むかも知れないではないか。

 話は、正直で優しい青年の美談で終わったが、日本だってそうは真っ正直な人々ばかりではないのだ。現に猫爺だって、杖みたいなものでさえ盗まれたのだから。(まだ、根に持っている猫爺)