与助は夢を見ていた。若い頃の夢が、いつか見た絵巻のように次から次からと現れる。外は雪が深々と降りつもっているだろう。その冷たい隙間風が、与作が寝ている煎餅布団を突き抜けて、容赦なく五臓六腑を責めている。
与作は六十四歳、人間(じんかん)僅か五十年というが、それを十四年も生き存えてしまった。十八歳の時にもらった嫁との間に子は生まれず、与作は一代男である。その嫁も八年前にこの世を去った。
体力が衰えたことから、年貢が納められなくなり、田畑と家を捨てて八年間、山中の荒ら家で独り生きてきたが、寂しいと思ったことはなかった。与作が拓いた一畝の畑で採れた野菜と、沢で漁った小魚や貝、山では茸や芋が与作の命を支えてきた。
時折、麓の村から欲張り婆が残り物の古米を持って来て、山の芋や茸をどっさり背負篭に入れて帰る。与作が一人食うくらいの食料は、欠かしたことはないのだ。
しかし、最近は寄る年波には勝てずに、起きたり寝たりであったが、ここに来てとうとう寝込んでしまった。
「もう、何日食っていないのだろう」
支え棒の窓も、閉じたままで幾日か経っている。だが、一向に空腹感が襲ってこないのだ。這っていけば、食料はある。囲炉裏に火を熾すくらいの体力は残っている。温かい芋粥を作って腹に入れると、ちっとは気力が涌いてこようものを、布団の中から出たくない。このまま、じっとして夢を見続けていたいのだ。
「お、お前は弥助ではねえか、死んだと聞いていたが、生きていたのか」
「……‥」
「そうか、そうか、それは良かった、おら、お前に会いたかったのだ」
与作と弥助は同い年である。一緒に野山を駆け回り、兎を捕えたり、スカンポや木苺を食べたり、秋には芝栗、木通がうまかった。
「そうそう、タヌキの仔を捕えて、お前、母狸に見つかって尻を噛まれたことがあったなぁ」
「……‥」
後で弥助の親父に、野獣に噛まれたら死ぬこともあるのだと聞かされて、震えあがったものだ。
「弥助、何か喋ってくれよ、おらを迎えに来てくれたのじゃなかったのか?」
起き上がって、弥助の手を取ろうとして目が覚めた。
「何だ、夢か」
与作の目尻から、涙が一粒あふれ出て、耳朶を濡らした。
「なあ弥助、おらを連れて行ってくれないか?」
弥助の姿は消えて、板壁の隙間から陽が差し込んでいた。
しばらくは、子供の昔に思いを馳せていたが、また睡魔が襲ってきた。
「今度は女房のお松が来てくれたのか」
お松は、与作に背を向けて、せっせと囲炉裏に粗朶をくべている。
「お松、さっき弥助が顔を見せにきてくれたよ」
弥助は、お松のことが好きだった。だが、お松が与作の嫁に決まったとき、何も言わずに引き下がった。与作は長男であったが、弥助は次男であった。次男はやがて家を出て、田畑を継ぐ男が居ない家に婿に入るか、仕事を求めて町へ出るしか生きる道はない。
「弥助が村を出て行く日、お前は峠まで送って行こうと言ったなぁ」
与作は、「行かん」と、お松の提案を無視した。弥助が可哀そうに思えたからだ。弥助は、お松を抱きたかったに違いない。与作も、幼馴染の弥助の思いを遂げさせても良いと思った。
「弥助、一晩お松を抱いてもいいぞ」
与作の口を衝いて出そうになったが、口を噤んでしまった。それは、弥助とお松までも屈辱すると思ったからだ。
「お松、あちらの様子はどうかね」
弥助と仲良くやっているかと言いたいのだ。お松は振り向いて、にっこりと笑った。
「そうかい、弥助は優しいだろう」
お松は鉄瓶に水を入れて、自在鉤にぶら下げた。
「お松、もう食べるものは要らないよ」
お松は、子供を叱るような表情を見せた。
「食べないと、体力が持たないと言いたいのだろう」
お松は頷いた。
「駄々をこねているのではない、食欲が湧かないのだ」
それでも土間へ降りると、お松は迷いもなく米櫃を開けると、米を一つかみ鉄鍋に放り込んだ。放っておけば、粥を煮て自分の口に運ぶのだろう。
「お前なぁ、俺を死なせないためにここへ来たのか?」
お松は、こっくりと頷いて、笑って見せた。
「そうか、分かったぞ、弥助の差し金だろうが」
お松と弥助が仲良くしているところへ、自分が行っては邪魔になるから、もっと生きておれということに違いない。
「弥助、そこらで様子を窺ってニタニタしているのだろう、ここへ出て来い」
お松の自分に向けた顔が、少し怒っているように見える。
「お前さん、焼き餅を焼いているのかね」
今度は窘める表情になって、行き成り与作の布団を捲って、手を握りしめた。
「私は、お前さん一途に生きた女だよ、死んでからも浮気なんかしていないよ」
「本当かね、若い頃お松はよく言っていたね、死ぬときはお前さんと一緒だなんて」
お松は、「うんうん」と頷いた。
「そのくせ何だよ、おらを置き去りにしてさっさと逝っちまいやがって」
「そんなことを言ったって、仕方がないじゃないか」
お松は不貞腐れている。
「私だって、死にたくて死んだのではない、あれが私の運命だったのだから‥」
元気で働いていたお松は、ある夜突然熱を出して寝込み、三日三晩魘されていたが、そのまま息を引き取った。
「お前さんの泣き顔など一度も見たことが無かったのに、死んだ私の手を取って涙を零してくれたねぇ、嬉しかったよ」
お松は何も喋らないが、与作にはそう言っているように思えた。
「お松、お松、粥が吹き零れているようだ」
与作は、叫びながら目が覚めた。もう、夕暮れ刻だろうか、赤い陽が差し込み、少し風が
出て来たようだ。すごく気持ちが良い。はらわたが凍り付いているように思えるが、決して冷たくも寒くもない。全身から、苦痛という苦痛がすっかり抜けだして、今は春の野で野苺を食っているような気分である。
「お松、また来てくれたのか?」
そう思って視線を向けたのだが、それは間違いだった。頭に掛けた手拭を取ると、真っ白の髪で母親のそれであった。
「何だ、おっ母さんか」
何も言わないが、「母親が来てやったのに、何だとは何事か」と、怒った表情である。
「お松が来た頃のおっ母さんは、寂しかったのだろうなぁ」
明けても暮れても、温和なお松に嫌がらせをして泣かせていた。与作がおっ母に注意をすると、いつも何度も繰り返していた。
「お前を産んでくれた母と、他人の女とどちらを大切に思っているのだ」
いつも黙ってしまう与作だったが、ある日ぶち切れて怒鳴ってしまった。
「親と息子は、一世の隔たりだが、妻とおらは隔たりのない一心同体だ」
お松を虐めることは、おらを虐めていることと同じである。これ以上お松を虐めるなら、おらはお松と共にこの家を出て行く。
父は既に亡くなっており、この家の田畑は与作夫婦の肩にかかっていた。そんなことが出来る訳はないのだが、「おらは、いつも女房の味方だ」と母親に分からせたくて言ってしまったのだ。
「この罰当たりが‥」
母親は悲しげにそう言って黙り込んでしまった。与作の父親が死んだとはさえも泣かなかった母親が、井戸端で水を汲みながら泣いていた。
「おっ母、あの時は御免よ、本当は心にもないことを言ったのだ」
そのことがあってから、母親はお松に意地悪をしなくなった。自分には、もう味方は居ないのだと思ったからだろう。
「あの世とやらで、親父に会ったかい?」
母親は、後ろ向きのままで、頷いていた。
「そうか、よかったな」
戸を叩く風の音で、与作は目が覚めた。次から次と、夢ばかり見ているのは、眠りが浅いからだろう。それに、自分の死期が近付いているからなのだろうと与作は思った。それは、孤独死と言われる見た目は哀れなものだろうが、与作の心は安らかであった。寂しくも心細くもない。ただ布団の中でじっとしていれば、やがて訪れるものなのだ。
もう、板壁の隙間から光は差し込まない。闇の中で目を開けてもどっちみち仕方がないことだ。
「与作、与作、お前もここへ来てみろ、あの世も住み心地の良いものだぜ」
弥助の声だ。
「お前、喋れるじゃねぇか」
「あたりめぇだ、俺はいまあの世から話かけているのだ」
「へー、あの世からの声が、おらに聞こえるのか」
「そうだ、ここにはもう妬みも恨みもない、変な想像をしないで、早く来なよ」
「うん、だがなァ、おら兎を飼っているのだ、あいつを野に放してやらねばならない」
「心配いらねぇよ、その兎なら既にここへ来ている」
「死んでいたのか、可哀そうなことをしてしまった」
喋り疲れた所為か、闇の中から強烈な眠気が襲ってきた。
「弥助、おらは何も見えないのだ、ここへ来てくれ」
返事は返ってこなかった。
「お松、俺の手を取ってくれ」
風の音が闇に呑まれた。 ―終―
与作は六十四歳、人間(じんかん)僅か五十年というが、それを十四年も生き存えてしまった。十八歳の時にもらった嫁との間に子は生まれず、与作は一代男である。その嫁も八年前にこの世を去った。
体力が衰えたことから、年貢が納められなくなり、田畑と家を捨てて八年間、山中の荒ら家で独り生きてきたが、寂しいと思ったことはなかった。与作が拓いた一畝の畑で採れた野菜と、沢で漁った小魚や貝、山では茸や芋が与作の命を支えてきた。
時折、麓の村から欲張り婆が残り物の古米を持って来て、山の芋や茸をどっさり背負篭に入れて帰る。与作が一人食うくらいの食料は、欠かしたことはないのだ。
しかし、最近は寄る年波には勝てずに、起きたり寝たりであったが、ここに来てとうとう寝込んでしまった。
「もう、何日食っていないのだろう」
支え棒の窓も、閉じたままで幾日か経っている。だが、一向に空腹感が襲ってこないのだ。這っていけば、食料はある。囲炉裏に火を熾すくらいの体力は残っている。温かい芋粥を作って腹に入れると、ちっとは気力が涌いてこようものを、布団の中から出たくない。このまま、じっとして夢を見続けていたいのだ。
「お、お前は弥助ではねえか、死んだと聞いていたが、生きていたのか」
「……‥」
「そうか、そうか、それは良かった、おら、お前に会いたかったのだ」
与作と弥助は同い年である。一緒に野山を駆け回り、兎を捕えたり、スカンポや木苺を食べたり、秋には芝栗、木通がうまかった。
「そうそう、タヌキの仔を捕えて、お前、母狸に見つかって尻を噛まれたことがあったなぁ」
「……‥」
後で弥助の親父に、野獣に噛まれたら死ぬこともあるのだと聞かされて、震えあがったものだ。
「弥助、何か喋ってくれよ、おらを迎えに来てくれたのじゃなかったのか?」
起き上がって、弥助の手を取ろうとして目が覚めた。
「何だ、夢か」
与作の目尻から、涙が一粒あふれ出て、耳朶を濡らした。
「なあ弥助、おらを連れて行ってくれないか?」
弥助の姿は消えて、板壁の隙間から陽が差し込んでいた。
しばらくは、子供の昔に思いを馳せていたが、また睡魔が襲ってきた。
「今度は女房のお松が来てくれたのか」
お松は、与作に背を向けて、せっせと囲炉裏に粗朶をくべている。
「お松、さっき弥助が顔を見せにきてくれたよ」
弥助は、お松のことが好きだった。だが、お松が与作の嫁に決まったとき、何も言わずに引き下がった。与作は長男であったが、弥助は次男であった。次男はやがて家を出て、田畑を継ぐ男が居ない家に婿に入るか、仕事を求めて町へ出るしか生きる道はない。
「弥助が村を出て行く日、お前は峠まで送って行こうと言ったなぁ」
与作は、「行かん」と、お松の提案を無視した。弥助が可哀そうに思えたからだ。弥助は、お松を抱きたかったに違いない。与作も、幼馴染の弥助の思いを遂げさせても良いと思った。
「弥助、一晩お松を抱いてもいいぞ」
与作の口を衝いて出そうになったが、口を噤んでしまった。それは、弥助とお松までも屈辱すると思ったからだ。
「お松、あちらの様子はどうかね」
弥助と仲良くやっているかと言いたいのだ。お松は振り向いて、にっこりと笑った。
「そうかい、弥助は優しいだろう」
お松は鉄瓶に水を入れて、自在鉤にぶら下げた。
「お松、もう食べるものは要らないよ」
お松は、子供を叱るような表情を見せた。
「食べないと、体力が持たないと言いたいのだろう」
お松は頷いた。
「駄々をこねているのではない、食欲が湧かないのだ」
それでも土間へ降りると、お松は迷いもなく米櫃を開けると、米を一つかみ鉄鍋に放り込んだ。放っておけば、粥を煮て自分の口に運ぶのだろう。
「お前なぁ、俺を死なせないためにここへ来たのか?」
お松は、こっくりと頷いて、笑って見せた。
「そうか、分かったぞ、弥助の差し金だろうが」
お松と弥助が仲良くしているところへ、自分が行っては邪魔になるから、もっと生きておれということに違いない。
「弥助、そこらで様子を窺ってニタニタしているのだろう、ここへ出て来い」
お松の自分に向けた顔が、少し怒っているように見える。
「お前さん、焼き餅を焼いているのかね」
今度は窘める表情になって、行き成り与作の布団を捲って、手を握りしめた。
「私は、お前さん一途に生きた女だよ、死んでからも浮気なんかしていないよ」
「本当かね、若い頃お松はよく言っていたね、死ぬときはお前さんと一緒だなんて」
お松は、「うんうん」と頷いた。
「そのくせ何だよ、おらを置き去りにしてさっさと逝っちまいやがって」
「そんなことを言ったって、仕方がないじゃないか」
お松は不貞腐れている。
「私だって、死にたくて死んだのではない、あれが私の運命だったのだから‥」
元気で働いていたお松は、ある夜突然熱を出して寝込み、三日三晩魘されていたが、そのまま息を引き取った。
「お前さんの泣き顔など一度も見たことが無かったのに、死んだ私の手を取って涙を零してくれたねぇ、嬉しかったよ」
お松は何も喋らないが、与作にはそう言っているように思えた。
「お松、お松、粥が吹き零れているようだ」
与作は、叫びながら目が覚めた。もう、夕暮れ刻だろうか、赤い陽が差し込み、少し風が
出て来たようだ。すごく気持ちが良い。はらわたが凍り付いているように思えるが、決して冷たくも寒くもない。全身から、苦痛という苦痛がすっかり抜けだして、今は春の野で野苺を食っているような気分である。
「お松、また来てくれたのか?」
そう思って視線を向けたのだが、それは間違いだった。頭に掛けた手拭を取ると、真っ白の髪で母親のそれであった。
「何だ、おっ母さんか」
何も言わないが、「母親が来てやったのに、何だとは何事か」と、怒った表情である。
「お松が来た頃のおっ母さんは、寂しかったのだろうなぁ」
明けても暮れても、温和なお松に嫌がらせをして泣かせていた。与作がおっ母に注意をすると、いつも何度も繰り返していた。
「お前を産んでくれた母と、他人の女とどちらを大切に思っているのだ」
いつも黙ってしまう与作だったが、ある日ぶち切れて怒鳴ってしまった。
「親と息子は、一世の隔たりだが、妻とおらは隔たりのない一心同体だ」
お松を虐めることは、おらを虐めていることと同じである。これ以上お松を虐めるなら、おらはお松と共にこの家を出て行く。
父は既に亡くなっており、この家の田畑は与作夫婦の肩にかかっていた。そんなことが出来る訳はないのだが、「おらは、いつも女房の味方だ」と母親に分からせたくて言ってしまったのだ。
「この罰当たりが‥」
母親は悲しげにそう言って黙り込んでしまった。与作の父親が死んだとはさえも泣かなかった母親が、井戸端で水を汲みながら泣いていた。
「おっ母、あの時は御免よ、本当は心にもないことを言ったのだ」
そのことがあってから、母親はお松に意地悪をしなくなった。自分には、もう味方は居ないのだと思ったからだろう。
「あの世とやらで、親父に会ったかい?」
母親は、後ろ向きのままで、頷いていた。
「そうか、よかったな」
戸を叩く風の音で、与作は目が覚めた。次から次と、夢ばかり見ているのは、眠りが浅いからだろう。それに、自分の死期が近付いているからなのだろうと与作は思った。それは、孤独死と言われる見た目は哀れなものだろうが、与作の心は安らかであった。寂しくも心細くもない。ただ布団の中でじっとしていれば、やがて訪れるものなのだ。
もう、板壁の隙間から光は差し込まない。闇の中で目を開けてもどっちみち仕方がないことだ。
「与作、与作、お前もここへ来てみろ、あの世も住み心地の良いものだぜ」
弥助の声だ。
「お前、喋れるじゃねぇか」
「あたりめぇだ、俺はいまあの世から話かけているのだ」
「へー、あの世からの声が、おらに聞こえるのか」
「そうだ、ここにはもう妬みも恨みもない、変な想像をしないで、早く来なよ」
「うん、だがなァ、おら兎を飼っているのだ、あいつを野に放してやらねばならない」
「心配いらねぇよ、その兎なら既にここへ来ている」
「死んでいたのか、可哀そうなことをしてしまった」
喋り疲れた所為か、闇の中から強烈な眠気が襲ってきた。
「弥助、おらは何も見えないのだ、ここへ来てくれ」
返事は返ってこなかった。
「お松、俺の手を取ってくれ」
風の音が闇に呑まれた。 ―終―