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原発の源流と日米関係~原潜からはじまった 湯川秀樹抗議の辞任~米のウラン義務付け日本は実験場

2011-07-11 | 原発利益共同体 ・ 軍事体制
 昨日の「内部被曝対策~~」の記事に、武田邦彦・中部大学教授の被曝対処指導を載せましたが、
   北里大学獣医学部・伊藤伸彦教授、琉球大学・矢ヶ崎克馬名誉教授の話も追載しました。

  それと、中部から東の方向に住むお方と九電地域の方?は、もう「アンペアダウン」で同時使用電力上限を下げる格安契約の検討はお済ですかにゃ?? そんなことはCMやお知らせ広告で知らされずに、勝手に高めに設定されていたりしますからにゃ・・・。
 


 
 では、前回に引き続き・・・    ・・・TPP含め、もういい加減、対米従属・癒着をやめさせましょう・・・・



 原発の源流と日米関係  原潜からはじまった   湯川氏 抗議の辞任              
              

                福島第1原発1号機爆発事故

 原潜からはじまった

  軍事優先の開発


 東日本大震災当日の3月11日に炉心溶融(メルトダウン)し、翌12日に水素爆発をおこした福島第1原発1号機は、米ゼネラル・エレクトリック(GE)社が建造したものでした。

 
 2社が独占

 日本で商業用原子炉の運転が本格化した1970年代前半に建設された原子炉はいずれも、米国のGEとウェスティング・ハウス(WH)が受注しています。
 米国の原子力開発はもともと、原爆開発や原子力艦船の建造といった軍事目的で進められてきました

 商業用原発の実用化が進んだ50年代、米国は54年に世界初の原潜ノーチラスを進水させ、核兵器は53年の1000発から、60年には2万2000発に増えました。
 GEとWHは、軍事開発から商業利用にいたるまで原子力開発をほぼ独占的に受注してきました。

 両社は米原子力委員会の下で艦船用の原子炉を開発し、アイゼンハワー大統領はWHの加圧水型(PWR)原子炉を採用。米海軍は現在にいたるまでこの型を使用しています。
 米国は当初、原子力発電には消極的でしたが、英国とソ連が原発の運転に成功すると路線を転換。急きょ、WH社の原潜用原子炉を陸揚げし、57年にシッピングポート原発の運転を開始しました。同原発の運転は米海軍が主導しました。
 一方、GE社はWH社に対抗するため、沸騰水型(BMR)原子炉の開発を続け、59年10月にドレスデン原発で臨界を達成しました。それから数年後に、日本との契約にこぎつけたのです。


 構造的な欠陥

 軍事的なニーズを発端として、ほとんど駆け足で開発された原子炉には、構造的な欠陥がありました。
 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版=3月15日付)によれば、福島第1原発など日本に9基ある『マーク1』型について、米原子力委員会は72年、原子炉の格納容器が小さいことを問題視。水素がたまって爆発した場合、格納容器が損傷しやすいとして「使用を停止すべきだ」と指摘していたのです。
 この警告どおり、福島第1で1号機の格納容器が損傷しました。

 さらに、福島第1原発で1~4、6号機の開発に関わった東芝元技術者の小倉志郎氏は3月16日、外国特派員協会でこう指摘しました。「GE社の原子炉はそもそも津波を想定しない設定だった
。2号機以降は日本で建設したが、1号機の設定が踏襲された」

 津波で非常用電源が喪失し、原子炉の冷却機能が失われる危険性は、日本共産党福島県委員会などが繰り返し、警告していたことでした

 日本共産党の吉井英勝議員は5月27日の衆院経済産業委員会で、福島第1原発事故に伴うGE社の製造責任を追及。外務省の武藤義哉審議官は「現在の日米原子力協定では旧協定の免責規定は継続されていない」と答弁し、協定上は責任を問うことができるとの見解を示しました。

          主契約企業    運転開始

敦賀   1号機  GE       70・3・14 
美浜   1号機  WH/三菱    70・11・28
福島第1 1号機  GE       71・3・26
福島第1 1号機  GE/東芝    74・7・18




 湯川氏 抗議の辞任

 原子力協定の攻防


 「本件発表は慎重を要する」。外務省の解禁文書(1955年3月18日付メモ)にある『本件』とは、同年1月11日、米国が日本政府に示した、対日原子力援助に関する口上書のことです。
 アイゼンハワー大統領が提唱した『原子力の平和利用』政策の具体化として、濃縮ウランや原子炉の提供が盛り込まれました。井口貞夫駐米大使はただちに、「日本においても推進するとの建前をとること内外共に時宜を得たる」(55年1月25日付公電)との見解を示します。

 しかし、『朝日』同年4月14日付で暴露されるまで、口上書の存在は極秘扱いでした。「原子炉建設に関する米国の協力に対する一部学界の反対ないし原子力問題に関する敏感な一般世論に無用の刺激を与えることを避けるため」(前出メモ)という理由からでした。
 

 自主・民主・公開

 『科学者の国会』と言われる日本学術会議は、第五福竜丸事件が明らかになった直後の54年3月18日の原子核特別部会で、後に科学者9条の会発起人になった伏見康治氏らが提案した『自主・民主・公開』の原子力研究3原則を決めました。
 ところが、原子力協定の米国案9条に『動力用原子炉(原発)についての協定が行われることを希望しかつ期待し、その可能性について随時協議する』との規定がありました。

 濃縮ウランも、原子炉も米国産。しかも、米原子力法に沿って機密保護まで求められていたのです。『自主・民主・公開』の3原則に真っ向から反する内容でした。


 財界は米国からの原子炉購入を強く主張しましたが、政府は9条の削除と機密保護条項の適用除外の要請を決断。「動力用原子炉に関する日米間協定の実施から独占的米国資本の導入を誘致し、またわが方の学術的研究の自主性を毀損する恐れある云々との有力にしてかつ多分に感情的なる意見をも考慮」(55年6月7日、井口大使宛て公電)


 慎重でなければ

 55年11月、原発建設を前提としない『日米原子力研究協定』が調印されました。
 自立的な原子力研究が担保されたかに思われましたが、初代原子力委員長に就任した正力松太郎氏は56年1月4日、「5年後に原発建設、米国と動力協定の締結」構想を発表しました。14日には米原子力委員会のストローズ委員長が『正力構想』に対する異例の『歓迎』声明を出しました。56年末には原子力協定見直し作業が始まります。


 これに抗議して原子力委員を辞任したのが、日本人初のノーベル賞受賞者の物理学者・湯川秀樹氏でした。湯川氏は辞任直前、こう訴えました。「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」(『原子力委員会月報』57年1月号)
 しかし、原子力委員会は歴代自民党政権に牛耳られ、安全性を二の次にした原発推進機関に変貌してしまいました。


(つづく)





 原発の源流と日米関係  米のウラン義務付け 日本は施設の実験場 



 1968年2月調印の日米原子力協定に書き込まれた日本の動力用原子炉計画。米国から受け入れを義務付けられたウラン235の量が明記されています。

 米のウラン義務付け

  『逆立ち』のスタート

 米国、フランスに次ぎ、世界3番目の54基もの原発が林立する日本―。米国は、原子炉の燃料となる濃縮ウランの提供をテコにして、日本を危険極まりない゛原発列島〟に仕立て上げました。


 『建前』が一変

 この濃縮ウラン提供を取り決めたのが、日米原子力協定です。
 最初の協定は、1955年11月調印の『日米原子力研究協定』です。『研究』用に米国が日本に濃縮ウランを最大で6kg(ウラン235の量)貸与することを定めました。
 日本の原子力開発の動きは当初から米国の世界原子力戦略に呼応していましたが、建前上は『自主開発』が基本とされていました。
 政府の原子力委員会が57年12月に刊行した『昭和31年版原子力白書』でも、「わが国の原子力開発がスタートした際には、わが国の原子力開発はすべて国産技術を基礎から培養しようとする心構えであり、原子力技術の育成計画もこの線に沿ってたてられていた」と述べています。

 ところが、「日米原子力(研究)協定が登場するにおよび事情は一変した」(前出の『原子力白書』)のです。
 日本政府は、日米原子力研究協定の仮調印(55年6月)を受け、貸与されることになる濃縮ウランを使用するため、米国から研究用原子炉の購入を計画。「濃縮ウランの受入れは、小規模かつ長期にわたって低い処から自力で原子力技術を養ってゆくという考え方を、海外(米国)からの援助を取入れて急速かつ大規模に行うという風に計画を変える大きな要因となった」(同)のです。

 原子力の研究計画もないのに原子炉築造予算を計上(54年度)し、導入する炉型の判断もなしに濃縮ウラン受け入れを決め、炉を設置する研究所(原子力研究所)の設立(56年6月)は最後になりました。こうしたやり方は、世界に例のない「逆立ちした研究のスタート」と指摘されました。


 30年分も購入

 こうした『逆立ち』は、それ以後も続きます。
 55年の研究協定は58年、動力用原子炉の開発を目的にした新たな協定(6月調印)に置き換えられます。同協定は、米国から日本への濃縮ウラン提供量を拡大し、最大で2・7トン(ウラン235の量)を貸与できることを明記。これと一体に実験用原子炉が導入されました。

 さらに、68年2月に調印された日米原子力協定では、日本で建設中または計画・考慮中の原発に、今後30年間必要なウラン235の量を個々に明記。その総量154トンを日本が米国から受け入れることが義務付けられました。その中には、東日本大震災で事故を起こした福島原発も含まれていました。



  日本は施設の実験場

   核燃料サイクル計画


日本で福島第1原発など商業用原子炉の建設が始まったばかりの1967年4月、政府の原子力委員会は、新たな『原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画』を発表しました。

 同『計画』では、日本の原子力発電が今後、長期間にわたり米国が開発した軽水炉に依存し、その燃料である濃縮ウランの供給も米国一国に頼ってしまうことは、原子力開発の自主性を確保する上で「必ずしも望ましいことではない」と強調していました。

 すべて軽水炉

 ところが、日本にある原発54基すべてが、米国で開発された加圧水型軽水炉(PWR)と沸騰水型軽水炉(BWR、改良型4基を含む)です。
 濃縮ウランは、米国からの輸入に100%頼っていた当初に比べれば、フランスやイギリスなど輸入先の拡大が図られてきたものの、今でも7割が米国からの輸入に頼っています。
 
 ①アメリカ 4602・7トン(73%)
 ②フランス 1146・2トン(18%)
 ③イギリス  532・3トン(8%)
 ④オランダ   30.2トン(0%)
 ⑤ロシア    25・8トン(0%)
 全体計   6306・9トン

 (注)全体計が合わないのは、ベルギーなどからもわずかに輸入があるため


 原子力委員会の『昭和62年版原子力白書』は、日本の原発事業者が米国以外からの濃縮ウランを混焼する場合、30%を上限にする契約を結んでいると指摘。制約が課せられていることを明らかにしています。

 さらに重大なのは、1988年の日米原子力協定で、『核燃料サイクル施設』の建設をはじめ危険な計画が新たに大きく動きだしたことです。協定の付属書4は、使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り出して再び燃料にする『六ヶ所村商業用再処理施設』(青森県)や、使用した以上の燃料(プルトニウム)を生み出せるとした高速増殖炉『もんじゅ』(福井県)などを列挙し、米国の同意が与えられています。

 米国自身は技術的に未完成だとして再処理施設の運転は行っていないにもかかわらず、一連の施設建設への同意は、日本を『実験場』とすることを意味しました


 政権交代後も

 こうして進められてきた原発の大量建設は、民主党政権になっても引き継がれました。

 2010年6月、菅直人首相は、総電力に占める原子力発電の割合を20年後に50%以上にすることを想定し、最低でも14基以上の原発を新増設するとした『エネルギー基本計画』を閣議決定。11月にはオバマ米大統領との会談で、原子力分野での日米協力の推進を確認しました。

 今年3月の東日本大震災による福島原発事故を受け、菅首相は『エネルギー基本計画』を「いったん白紙に戻して議論する」と表明しました。しかし、5月末のフランスでの主要8カ国首脳会議(G8サミット)では、オバマ大統領らを前に「最高度の原子力の安全を実現する」などと表明し、原子力発電を今後も続けていくことを国際公約しました

 (おわり)