長内那由多のMovie Note

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『ケイコ 目を澄ませて』

2023-02-10 | 映画レビュー(け)

 三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』(英題“SMALL,SLOW BUT STEADY”)は極限まで贅肉を削ぎ落とし、過酷なトレーニングの末に見事なフットワークを手に入れたボクサーのような映画だ。ムダな所が1つもなく、最小の描写で大きく観客の心を揺さぶってみせる。それでいてランニングタイムはわずか99分。ボクシング映画史上最も孤独な主人公に扮した岸井ゆきのは終生の代表作と言っていい圧倒的なパフォーマンスだ。

 ケイコは生まれつきの感音性難聴で、両耳とも聞こえない。映画は彼女が既にプロデビュー戦で1勝をあげている所から始まる。ケイコは練習に余念がなく、ハンデを持ち前の目の良さでカバーする。見て身体で覚えたら、ノートに書き記すことを忘れない。彼女にとって生活の全てはボクシングのためにある。三宅は街の雑踏からボクシングジムの練習音まであらゆる環境音を際立たせるユニークな音響設計で、これらを決して認識できないケイコの孤独をあぶり出す。彼女が夜更けに佇む荒川の河川敷は内なる声に耳を澄ます深淵なる宇宙だ。

 からくも2勝目をあげたケイコだが、続く3戦目へのモチベーションが上がらない。ジムの会長に宛てて「しばらくお休みしたいです」と手紙をしたためた。本作の最も際立った個性は、並外れた精神と体力で自身にテンションをかけ続けている人だけが陥るブラックホールを描いていることだ。周囲はケイコの求道的なストイックさを褒め称えるが、彼女にとってボクシングとは自身を締め出す社会との闘いであり、果たして心折れた彼女に行き場所などあるのか?慮る弟に向かってケイコは言う「(悩みを話したって)人は1人でしょ」。しかし、ボクサーとして取り立てて秀でた所がなくとも、人として正しい器量を持った彼女に周囲の人々は惹かれていく。この映画のセコンドとも言うべき素晴らしい三浦友和、三浦誠巳、松浦慎一郎と岸井ゆきのが見出すステップ、またステップを見よ!

 勝利と同じ、いやそれ以上に人生には敗北がある。それでも人は自分の居場所のために闘い続けなくてはならない。『ケイコ 目を澄ませて』はこれまでのどのボクシング映画よりも静かに、しかしより熱く観る者の心を奮い立たせてくれるはずだ。


『ケイコ 目を澄ませて』22・日
監督 三宅唱
出演 岸井ゆきの、三浦友和、松浦慎一郎、三浦誠巳

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