リッスン・トゥ・ハー

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悪魔は大根を血で煮る

2008-12-03 | 掌編~短編
「悪魔は大根を血で煮る」



 魂と引き換えに美味しい煮大根を作れるようになるという契約を結んだ。
 拓郎という大好きな男がいて彼は、「あなた間もなく死にますよ」と医者に言われ、「死ぬのは別にいいんだけどただその前に美味い煮大根が食べたい」と言い出し、そんなとき見計らったように悪魔は私の前に現れ、例の取引を持ち出した。

 「あなたの魂と引き換えに、何でも望みをかなえましょう」

 私が魂を奪われることによるメリットとデメリットを並べ、かろうじてデメリットのほうが多かったが、そんな少しばかりのデメリットならば拓郎のために使いたい、と取引に応じることにした。
 最初、私は彼の命を助けてもらおうかと考えたが、彼はそんなやり方で生き長らえても喜ばないような気がしたし、そもそも私は魂がなくなるわけだし、料理の下手な私だって一生に一度ぐらい唸るように美味い煮大根を作ってみたかった。
 私が願いを言うと、悪魔は少し困った顔をして「ええと、ちょっと時間をくれませんか?はい、恐縮です」と言うやいなや煙みたいに消えた。

 数時間後、悪魔は再びやってきた。
 ふっと突然現れるのでなく、ちゃんとインターフォンを押して、戸を叩き、私の顔を見ると「私です」と言った。
 「私です。どうも、お待たせしました、では、さっそくはじめましょうか」
 悪魔は腕時計をちらっと見る。
 「なにを?」
 「もちろん美味しい煮大根を作るのです」
 「実際に?」
 「だって作ってみないことには、美味しいのが作れるようにならないでしょうに」
 「魔術か何かで、知らない間に美味くなっていたりするんじゃないの?」
 「そんな便利なことできたら悪魔はいりませんよ」
 悪魔のいかにも心外だという表情で、持参したエプロンをつけはじめる。
 私は、話が違うよ、と言いたかったが、ぐっと我慢した。悪魔のエプロンは、ねずみの女の子がとろけそうに笑っている絵がついていて、可愛らしいものだった。私がじっと見ていると、「これですか、妻のですよ、何か?」と言い訳するように早口でつぶやいた。
 悪魔はやれやれとまた腕時計を見る。厄介な客にあたってしまったセールスマンみたいだった。

 出来上がった煮大根は本当に美味しかった。
 私はやはり、何か違う、と感じつつもその作り方をちゃんとメモして、ありがとう、と悪魔にお礼を言った。「なんのなんのお安い御用です」と悪魔は得意そうに答えた。
 「料理はあまりしないの?」
 「まあまるでしませんね」
 「でもなんでこんなに美味しい煮大根が作れちゃうの?」
 「申し訳ありませんが、企業秘密です」
 「ふうん」企業なんだ。
 「ではこれで失礼します」と悪魔はビジネスライクに頭を下げ、部屋から出て行った。どうして消えないのだろう、と考えながら私は煮大根をもうひとくち食べ、うまい、とつぶやいた。

 翌日、メモを見ながらなんとか作った煮大根を持って、私は病院を訪れた。
 拓郎は煮大根を食べ、うんまい、と唸った。
 「本当にうまいなあこの煮大根、これで思い残すことないや」
 まだそんなこと言わないで、と思いながらも私は安心して、ふと病室の窓から外を見る。
 と、悪魔がいた。
 悪魔は作業服を着て何食わぬ顔で庭木を剪定している。お前は何者だ、とも思ったが素直に、ありがと、とつぶやいた。不思議そうに拓郎がにっこりと笑う。
 瞬間、誰かに釣り上げられるように、私の意識がふうわりと浮き上がった。拓郎の表情はなくなる。周りの時間が止まった。私は魂を奪われたのだとすぐに分かった。目の前に悪魔が立っていた。
 そういえば、どの瞬間に魂を奪われるかは指定しなかった。だから最初に煮大根を作った直後に奪われてもそれは契約違反ではない。拓郎に食べさせ、最後に笑顔も見せてくれて、この悪魔はきっと良い方の悪魔なのだと思った。
 もしかしたら拓郎を驚かせてしまったかもしれない。ごめんね、と謝ってから、手を引かれるようにふわふわ昇っていった。
 空に浮かぶというのは幼い頃空想したとおり気持ちがよかった。


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