リッスン・トゥ・ハー

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ピアノガールと形のない悪魔

2007-01-08 | 掌編~短編
彼は悪魔に血を売ったんだ、こないだからもどらないんです。
彼は旅に出た。行き先を誰にも言っちゃいけない、そう悪魔に念を押された。
だから彼がどこに向かったのか、誰も知らない。もちろん彼女だって。
分かっている事は、彼が旅に出る直前に食べたトーストの粉が散らばり、バターが机の上に出しっぱなしになっていたこと。バターは長い間出してあったため、半分ぐらい溶けてしまった。トーストは悪魔があるいは食べたのかもしれない。それを検証する術は失った。彼は二度と帰ってこないのだから。そしてその行き先は誰も知らないのだから。

誰もいなくなった部屋に彼女は戻ってくる。

彼女は比較的幼い子どもにピアノを弾くことを教えるという仕事をしている。彼女はその仕事が好きだったし、天職だと思っているぐらい。そして彼女が教えると、どんな子どももピアノが好きになった。必ずしも上手くなるわけではなかったがしかし、必ずピアノが好きでたまらなくなる。それは彼女の弾くピアノの調べがとても心地よく、なんというか聞くと非常にリラックスできるから、ピアノが好きになるのだ。彼女は依頼を受けた各家に出向いてピアノを教えていたが、例外なく歓迎された。子どもに教えるというよりは、彼女自身が弾くピアノを聞いていたいと思う大人も多かった。彼女が教える子を持つ親もピアノが好きになったぐらいだった。
彼女は彼が好きだった。いや、好きという言葉ですませられないぐらい、愛していた。彼女にとって彼は身体の一部といえた。彼がいないということはつまり自分の耳や目や乳房がないのと同じ問題であった。だから、彼のいない部屋を見て、彼女は途方に暮れた。ある日突然右耳がなくなっていたら、誰でも戸惑うに違いない。彼女もそうだった。
しかし、すぐに慣れてしまう。彼がいないという喪失感にも、彼女はすぐに慣れてしまった。右耳を失っても、ないという事実を受け入れればすぐに慣れてしまう。同じことだ。ただし彼女は、自分がそれに慣れてしまった、ということが信じられなかった。自分の中で彼はそれぐらいのものだったのか。ひとつになっているとき、彼と離れるという事は直接生死に関わるとんでもない事のように思えたし、彼の肌に触れていないときにはいつも彼女の身体は満たされていなかったから。
いないことに慣れてしまったが、それでも彼女には彼を探しはじめる。
探すというよりは、彼女は理由が知りたかった。もちろん、この時点ではまだ、悪魔の存在に気付いていないし、悪魔がいること自体を信じていない。
私たちはうまくいっていたはずだ、昨日も、仕事から帰って、彼が作ったハヤシライスを一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、それから朝まで十分に愛し合ったし、彼が私に何もいわずに部屋を出る事など、今まで一度もなかった。
彼女は彼が出て行った理由が知りたかった。
例えば、彼は明日の朝食の材料を買いに出かけたのかもしれない、とか、突然友だちに呼び出されて出て行ったのかもしれない、とか、そういうことはありえないことであった。
はっきりとありえないことであるといえた。
分かりやすく言えば勘であるが、彼女のそれはこのようなときにはほぼ完璧に当たっていた。自分でもそれを知っていた。彼女は、何かしつこくまとわりついてくる匂いを嗅ぎ取っていた。
根拠はない。しかし、それは彼が彼のままで戻ってこないのは確実だと気付いていた。

彼は片目が見えなかった。生まれつき見えなく、つまり片目であることを受け入れているので日常生活に支障はなかったが、ことあるごとに片目であるという事実を思い知らされた。
例えば、距離感がつかみにくいらしく、よく彼女を抱きしめる手が空を切った。彼女はすぐに近づいて抱きしめられたが、そうなるといつも彼はごめん、と謝った。いいや気にしないで。彼女はいつもそう言ったが、そのたびに彼は遠い目をして、何かを考えていた。だからあるいは、ずっと前から。彼女はそう考えた。

悪魔が突然現れて、堅苦しい挨拶をしたときにも、驚いたというよりは安心した。彼が出て行った原因がわかる、そう感じたから。
悪魔と言っても、実際に形になっているわけではない。それは匂いそのものだった。ちょうど子どもが車に酔った子どもの吐いた胃液のような匂いだった。匂いは彼女に彼が血を売った話、それから旅に出た話を、語ってやった。彼女はその匂いをひとつたりとも逃さないように熱心に嗅ぎ取った。一通り聞き終えて彼女は、でも彼はなぜ血を売ったの、とはじめて口を開く。匂いに話し掛けた。
「それはたいへん難しい話で、悪魔である僕には分からない」
「悪魔であるあなたには分からない?」
「そう、人間が考えうる事は忘れてしまった」
「忘れた?」
「そう、かつて僕が人間だった頃」
「ちょっと待って、かつてあなたは人間だったの?」
「まあね、遠く昔の話だけれど」
「人間から悪魔に変わったってこと?」
「そのとおり」
「どうして、そうなったの?」
「それが分からないんだ」そう言って悪魔はふわふわと形を変える「人間だった頃の記憶の一部が消えてしまう」
匂いが彼女に近づいてくる。それを彼女は不快だと感じなくなりつつある。それこそが悪魔の怖さといえるのかもしれない。
「ただし」悪魔は完全に彼女を囲んでいる。
「ただし、僕は悪魔になりたかったことは確実だ」
「悪魔になりたかった?」
「理由は忘れてしまったにせよ、とにかく僕は望んで悪魔になった」
「ちょっと待って、そんなに簡単に悪魔になれるものなの?」
「いいや、僕だってずっと、悪魔になりたがっていたわけじゃない。それどころか悪魔の存在自体信じていなかったぐらいだ。僕はごく普通の人間だった。平凡な人間だったと思う。その日、僕は何か嫌な事があって、本当に死にたい、と思ったりした。そのときに今の君みたいに、悪魔がやってきたというわけ、であった瞬間、僕は悪魔になりたいと思った。言ったように理由はわからない。ただ悪魔になりたかった。それだけが唯一の望みと思えた。あとは転がり落ちるように、気付いたら悪魔になっていた。悪魔も捨てたもんじゃない。僕は悪魔になってよかったと思う。」
「家族は、悲しまなかったの?」
「悲しんだかもしれない。家族はどうかわからない、忘れてしまった。けど、通常のレベルで悲しんだんだと思う。あと、僕には、ユリネと言う名の恋人がいて、もうすぐ一緒になる予定だった。そういう意味では順風満帆といえばそうだったのかもしれない。ユリネは悲しんだと思う。でも悪魔になってしまってから、人間だった頃、親しい人間に関する記憶は完全になくなる。今言ってる記憶というのは人間の記憶というのとは、ちょっと違ってて、親しかった人間は僕にとって存在しなくなるんだ。僕はユリネを憶えている。忘れてなんかいない。でも、会って話したりすることや、抱き合ったり、口づけを交わすことはできない。ユリネなんていう人間は僕にとって最初からいないのと同じになっているんだ。もちろん後で知ったことだったけれど。そういうルールらしい。もしかしたら君がユリネかもしれない。でも僕には分からないんだ。全くね。」
「私はユリネではないけど」
「いや、なんていうか、ユリネであるかどうかは君には分からない、まあ、難しいけれどとにかく一生もとの関係には戻れない、ということで、つまり会えないということ。もし君がユリネだったらうれしいけれど」
「ユリネさんの話を聞かせて、私も恋人がいなくなって、というか悪魔になって退屈だったし」
「いいとも」ふわふわとした風が吹く「だたし、僕の流れで話させて欲しい、一見関係のないように見えても僕の中では全てがつながっているんだ」
悪魔は話し始める。

「ユリネは頭の良い女の子だった」