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自宅と道志の日々

タイトルを「自宅と道志の日々」にしました。日記のようにつぶやいています

良き昭和30年代を思い出す

2024年02月09日 | なかま道志ベース

道志から帰宅すると読んでいなかった新聞がありました。

そんな中で「自分たちの手でやっていた」と踏切の遮断機を手であげている記事がありました。私の生まれた1948年とあります。

ふと、昔を思い出しました。

中央線のある駅では南口が無い時代です。今では別世界で整備された広場と大型スーパーが建っています。

何かの工場跡地だったのでしょう。私たち(私立の小学校が近くにあり)の遊び場でした。

当然、踏切も自動ではなく、人力で上げ下げしていた時代です。電車が通る時間表を見て踏切り番の方がそうしていました。その踏切りは家族でお住いで、中学校の同級生もいました。

やがて南口も開設されて、徐々に駅前開発も行われてきました。

当初、中央線は今の五日市街道沿いを通る計画でしたが、蒸気機関車などの煙や火の粉?で隣接する藁ぶき屋根の農家などから猛反対を受けて、結果計画を変更して、新宿から立川まで当時の計画者が原野だった場所に一本線を引いたと聞いています。

したがって、北海道以外でこんな直線の線路は2番目のようです。

最寄りの駅はここでした。

近くには日赤や当時獣医大学・亜細亜大学・少し離れて国際基督教大学などもあったような気もいたします。

当初、中央線の駅は新宿・高円寺・武蔵境・国分寺・立川だっけだったかと思います。それから次々に駅が出来て150年近くになりました。

駅の改札口を出ると、必ず伝言板や忘れ物などが書ける唯一の連絡方法がありました。

もちろん携帯電話の無い時代です。

この駅は、西武是政線もありました。

是政(これまさ)と言う終点から下りて、歩いて10分くらいのところに多摩川がありました。当時は水量も多く、水質も良く夏になると良く水遊びした場所です。

川の反対側は多摩丘陵と言って、人家の少ない場所でした。

時代は急激に変化し、高度成長期には多摩ニュータウンと言って、若い方が住み始めましたが、核家族化で当時若かった方々も年配者となり寂れたタウンの代名詞にもなりました。(最近はここも再び若者が住み始めているようです)

長男坊が住んでいる聖跡桜ケ丘と言うところも、高層・高級マンションも増えているようで、大型スーパーや高級有名店も多くある場所になりました。

昔は竹藪や雑木林の丘陵だったのですがね。不動産の値上がりも考えて土地を購入した時もありました。

時代はどんどん変わります。恵方巻をいただきました。

関東人にはなじみが薄かった恵方巻ですが、これも今風の商業展開なのでしょう。

バレンタインもホワイトデーも、ボジョレーワインにも踊れされない年齢になってしまいました。

新聞の「自分たちの手でやっていた」から、つい昔を思い出した私がいます。

きっと、みなさんの街でもご幼少の頃とは大きく変化しているのでしょう。

道志で動き過ぎたのか?昨夜はぐっすりと眠れました。

流木を加工して飾って見ました。来週には入りたい道志です。

 

Hiro