女房が土曜日(11月23日)敬老の日に山梨(実家)に行かない?と急に言い出したのです。
私が道志で使う稲ワラが欲しくて、女房と取りに行ったのです。
母と女房は元気に話し合っています。
更に裏手から、ワラを何束も引き出して来た母です・・・。
後日、私はそのワラを一週間後に道志にワラを運び入れました。
帰宅しようとした早朝(6時半)に携帯電話が鳴りました・・・。
実家の長男からです。
内容は母危篤でした。
そして、その日に帰宅し女房と山梨の実家に向かい、静かに眠る母に会いました。
えっ!1週間前はあんなに元気で、東京オリンピックも楽しみだと言っていた母が永眠するなんて信じられません。
婿である私とも草花の取り持つ共通の趣味で、女房より田舎に行っていた回数も多いかも知れません。
本当に良くしてくれました。
通夜式や告別式の日程やお飾りする顔写真も決まりました。
たまたま、米寿の時の私とのツーショットをトリミングしたもにしました。
通夜式当日、あの富岳(富士山)を目指して、山梨の実家に向かいます。
軽く昼食を取ろうとしてと初狩サービスエリアに入りました。
思い出せは、7年前のこの日に笹子トンネルの天井落盤事故があった日です。
私もこの日、30分前にこのトンネルを通過していました。
その直後に事故は起きたのです。
帰りは遠回りして、帰宅した覚えがあります。
サービスエリア内のフードコートでいただきました。
私は初狩ラーメンです。
腹を満たすだけで、何故か味は感じません。
一週間前に93歳になる母と、元気よく話をしていた時にパチリしました。
最後の一枚です。
女房が残した、鰻飯もこれをお茶漬けにすると美味しいんだよと言って、残しておいてくれとのことです。
女房の妹とも亡くなる二日前に電話で話したり、その日も洗濯や掃除をして、近所に住む母の妹とお芋を食べながら話し込んでいたそうです。
そして、その夜に戻して頭が痛いとのことで救急車で病院に行き、検査を受けたのですが、大したことは無いとのこと、帰宅しました。
翌朝、早い時間にトイレに行って廊下で倒れたそうです。
その音に気が付いたのは孫娘でした。
一次は回復したかのように見えたのですが、結局は帰らぬ人になりました。
享年94歳です。
通夜式が終わらんとするところ、私の長男坊が東京から駆けつけました。
近くの通夜式を終え、兄妹孫たちは実家に戻り、しばしの会話です。
長男坊は東京へ帰宅し、私たち夫婦はその日は甲府市内のホテルに泊まることにいたしました。
甲府の駅前も変わりましたね。
岡島や山交デパートなどは無いようです。
駅前も整備されています。
駅の傍には武田信玄公の像あります。
結婚当初(48年前)は良くこの辺のデパートで買い物した記憶があります。
実家周辺(当時は竜王町)も田んぼで囲まれていました。
夏には蛙の鳴き声も良く聞こえたものです。
田植えや稲刈り、側溝掃除も手伝いました。
田舎の無い私には楽しい作業でした、。
今ではアパートや店などが建ち並んでいます。
出張であれば、こんなような場所に寄って行ったのでしょう。
この日はコンビニで酒類を買い求め、一人晩酌です。
女房と昔話をしながら、いつの間にか寝入っていました。
翌朝、6時半より朝食です。
7時過ぎには納棺の儀で組の方々や親族が集合いたします。
所変われば作法(やり方)も変わります。
そして、斎場に移動いたします。
富士山が見え、アルプスや八ヶ岳に囲まれたところです。
このような場所で育った女房ですので、結婚し東京で暮らし始めたころ、山が見えないので淋しいと言っていました。
告別式会場には思い出の写真が飾られています。
私がお撮りした写真や作ったフォトブックもあります。
大正・昭和・平成・令和の激動の時代を過ごして来た母です。
楽しいことの何倍も苦しいこともあったのでしょう。
勤労報国隊で横浜の軍事工場へ駆り出されたとも聞いています。
戦争によって多くの人に苦しみや人生も変えさせました。
戦後生まれの私です。
その恩恵?を受けて、今まで暮らして来ることができました。
私たちの結婚記念日には、毎年母に感謝の電報を送っていました。
引き出しには全て残されているようです。
私たちも年老いた母の思い出づくりに、小旅行に行ったりしましたね。
大事な娘を東京に行かせるのですら、私は出来るだけ両親に心配かけ無ようにしてきましたつもりです。
夫婦仲良く、孫たちも元気にしていることが一番の知らせだと思っています。
18歳の時の母のようです。
そう言えば面影も感じられます。
4年前に投稿した記事です。
何でも興味を持っていて、凄く心配性でもありました。
長男で同居する息子を始め子どもたちの健康、もちろん孫のこと、親戚やご近所のことなどもです。
母より若い方が亡くなると「悪いじゃんねぇ~こんな生きちゃってぇ~」なども口癖でした。
告別式も終わり、初七日です。
豪華な食事が出されます。
あちこちで、良いお婆ちゃんだった。
誰にもご迷惑をおかけせずに、お別れしたいとの話も聞えます。
私も親族代表として御礼のご挨拶をさせていただきました。
先ずはご列席いただいた方への感謝と菩提寺住職さまへの御礼、いただいた戒名を想像しての内容のご紹介をいたしました。
更に、沿道で黄色く色づいた銀杏の葉は散っていく様は、生きとしてるものは全て散って行くんんだなぁ~と感じたこと。
また、母と女房とで、時折方言が混ざっての電話が聞けなくなった淋しさ。
組(ご近所)の方や普段は合うことが少ない親族や知り合いが葬儀の場をお借りして参集できたのも母のおかげです。
誰もが信じられない別れでした。
人によっては94歳であれば大往生だねと言われますが、気持ち的には年齢に関係なくまだまだ長生きしてほしかったが実情です。
家族も含めて他人にご迷惑をかけさせないで最後まで家事を手伝い、翌朝には同居する家族に見守られての往生は誰にマネできないかと思います。
こんな一生を終えることが、誰しも夢かも知れません。
時間があれば、もっともっと話したかったこともありました。
会葬御礼の品々も場所に寄って異なります。
日曜品が多いですね。
昨日も朝7時ごろ納棺式に間に合うように私の次男坊も駆けつけ葬儀に参列いたしました。
夕刻6時ごろになって、次男坊も他の車で帰宅しました。
女房は疲れていたのでしょう。
居間でうたた寝していました。
今日は早速、喪中のはがきづくりです。
弟夫婦もよく母の面倒を見てくれました。
この様な内容をアップしてスミマセン!
Hiro