俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

2014-10-16 10:14:34 | Weblog
 鮭の握り寿司をサーモンと呼ぶのはそれが元々寿司ネタではなかったからだ。天然の鮭はかなり高い確率でアニサキスという寄生虫に取り付かれており、これを殺すために塩漬けや干物にしてから食べていた。生きたアニサキスを食べるとアニサキス症と呼ばれる激しい腹痛を起こすそうだ。
 生で食べられるサーモンはアニサキスに寄生されていない。それはアニサキスが殆んどいない南半球の海で養殖されるからだ。なぜか知らないが鮭類は北半球にしか住んでいない。そのために鮭類と共生するアニサキスも大半が北半球に住む。アニサキスが殆んどいない南米の海で養殖するからチリ産の鮭は安全だ。日本が輸入する鮭類の4割以上がチリ産なのはこんな事情からだ。
 しかし今後もチリが鮭の養殖のために良い環境であり続けるとは思えない。チリの海にアニサキスが殆んどいないのは寄生主になる鮭がいなかったからであり、常時鮭が住むようになればアニサキスも増えるだろう。これを防ぐことは難しい。養殖場を海から隔離しない限り不可能だ。
 南極の基地で暮らす人は滅多に風邪をひかないそうだ。寒過ぎるためにウィルスが生きられないためらしい。ところが本国から物資が届く度に風邪が流行する。物資にウィルスが付着しているからだ。
 病原体や寄生虫を根絶することは難しいしその拡散を防ぐことさえ困難だ。日本ではデング熱の拡散を防げなかったし、アメリカでさえエボラ出血熱を国内感染させてしまった。感染症の拡大を防ぐ最も有効な方法は水際で防ぐことだ。江戸時代の鎖国政策はコレラやペストを防ぐ効果もあった。梅毒がアメリカ大陸から運ばれて世界中に広まったように、グローバル化は地域の病気を世界中に拡散させるという負の側面も併せ持つ。
 人類発祥の地であり遺伝的多様性が最も豊かなアフリカが文明の起源となれなかったのは病原体との戦いに勝てなかったことも一因ではないだろうか。エボラ出血熱やエイズ(HIV)に限らず疫病の存在は人類にとって大きな脅威であり続けている。アニサキスのいない海で安全な鮭が得られるように、病原体と戦うよりも逃れようとすることのほうが利巧な戦略だろう。旧ロシア軍はナポレオン軍やナチスドイツ軍と戦うことよりも撤退を重ねることによって勝った。世代交代の早い病原体は進化の速度も早いので人類が病原体との競争に勝つことは極めて難しい。新しい治療薬を開発しても病原体はそれを上回る速度で進化して耐性を持つ。このイタチごっこは勝ち目の無い競争ではないだろうか。私は核兵器よりも病原体によって人類が死滅する可能性のほうが高いのではないかとさえ思っている。

限界

2014-10-16 09:34:30 | Weblog
 人は知覚可能なものしか知覚せず、思考可能なものしか思考せず、理解可能なものしか理解できず、言語化可能なものについてしか語れない。
 知覚できなければ怖がることさえできない。サメが傍に迫っていてもその姿を見るか攻撃されるまで認知できない。知覚できない放射線は機械を使って初めてその存在を知る。
 知覚できないことを科学技術によって知覚できることは素晴らしい。しかし思考できないものや理解できないものは変形させることによって思考可能・理解可能にされている。例えば夢は最も把握し難いものの1つだ。曖昧であり論理以前の世界だからだ。夢の中では私が同時に他人であったり因果性に背くことも起こる。それを把握するために実際に見た夢が捻じ曲げられる。丁度、伝言ゲームで当初矛盾していた話がゲーム中に辻褄合わせされるように、事実に忠実であるよりもそれまでに構築されていたパラダイムに合うように変形される。思考や理解が可能なものに変えるために秩序付けや簡略化が行われる。
 質の違いを量に置き換えることも思考を歪める。例えば「誰が一番好き」という考え方は間違っている。個々人に対する評価は質的に異なっているから量に還元できない。比較不可能なものを無理やり比較可能にしようとするから質の違いを量の違いに摩り替える。
 言語化できないことを伝えようとすれば大変な困難を伴う。それを表現するためには1冊の本か1編の映画が必要だろう。それでも充分には伝わらない。優れた絵画には言語を超えた深い思想があると言う。ピカソは戦争への怒りを「ゲルニカ」で表現したそうだ。私にはさっぱり分からないが分かる人にはその怒りが強烈に伝わるのだろう。
 芸術によって言語以上の表現が可能なら、論理を一旦保留することによって夢を正確に思い出すことも可能になるのではないだろうか。我々は単純化・数値化・言語化といった把握し易くするための技術に余りにも依存している。論理以前の混沌を素直に受け入れられれば、それまでは思考できなかったことも思考できるようになるのではないだろうか。