本日、信州安保法制違憲訴訟第5回口頭弁論が行われました。
意見陳述は、松本市の女性と男性の二人が行いました。今回の陳述の特徴は「戦争加害による人格権の侵害」を立証することです。
「実は私の父も、酒に酔った時、気持ちよさそうに軍歌を歌い、敵であった大陸や半島の人たちを蔑称で呼んだりする一面がありました。父のうなされた悪夢は「戦地で怖い目にあった」ゆえでなく、もし中国の人を「怖い目にあわせた」記憶によるのだとしたら…。私自身の存在の寄って立つところが揺らぐ、大きな不安を覚えます。こんなことを考えるのはこの上ない親不孝だと打ち消したい気持ち…心が震えます。私は当初、人の親として、また高校で長年生徒と向き合ってきた教員として、若い世代が戦争のために命の危険にさらされる日の到来を恐れる立場で、この安保法制違憲訴訟に加わりました。しかし現在は「戦争とは、この手で人を殺すこと」という事実への恐怖を、より一層強く抱いています。既に戦闘地域に派遣される可能性のある自衛隊員の方々に「人を殺せ」との命令が下る時が迫っているばかりではありません。安保法制の成立によって、経済界・産業界は防衛装備の需要増大や武器輸出に大いに期待しているようです。「日本企業の技術者が開発した兵器がどこかの誰かを殺した」というニュースが伝えられる想像は、私を凍りつかせます。息子が、教え子が、「死の商人」として成功することなど、あってはならないこと。これらが現実となる可能性は高く、平和的生存権が脅かされるという私どもの主張は、決して曖昧・抽象的なものではありません。」
被告である国は人格権についてつぎのような反論をしています。
「原告らの主張する人格権は国賠法上保護された権利・利益ではない。原告らの主張は極めて抽象的であり、一義性に欠ける曖昧なもので、具体的な権利性が認められない。原告らの主張は、結局のところ、我が国が戦争やテロ行為の当事者になれば、国民が何らかの犠牲を強いられたり犠牲にさらされるのではないかといった漠然とした不安感を抱いたという域を超えるものではない。」
これに対して原告側は、上記の意見陳述を行い、以下の準備書面(6)を提出した。
人格権に関する主張書面です。
学説や最高裁を含めた判例において人格権・人格的利益を保護法益として広汎に認めており、人格権は、人間が人間であることからその存在を全うするために認められる権利であり、その外延を抽象的、一義的に確定することが困難であるとしても、少なくとも人間の尊厳に伴う基本的な法益をその内容とするものであれば、人格権・人格的利益として法的保護の対象となるというべきであると主張しています。具体的な内容として、①生命権・身体権及び精神に関する利益としての人格権、②平穏生活権、③主権者として蔑ろにされない権利、④安定した立憲民主政に生きる権利利益を主張しています。今回の安保法制はこれらの権利を内容とする私たちの「人格権」を具体的に侵害したものであり、被告の主張するような「漠然とした不安感を抱いた」などと評価されるものではありません。
*口頭弁論が終わった報告会でも発言しましたが、憲法9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とうたい、戦争を否定しています。戦争による被害者の立場からの「人格権の侵害」とともに、今回は戦争による加害者の立場からの「人格権の侵害」を訴えました。
私は戦争を直接体験はしていませんが大岡昇平原作の映画「野火」を観たことがあります。飢えと狂気の中で人肉をむさぼる映像がありました。このとき私は「ああこの血が私の中にもながれているんだな」と思いました。戦争の狂気が人格を奪うということにはとどまらない、私もまた平気で自らの人格と他の人格を奪うことへの恐れを感じたのです。それが戦争なんだと言ってしまえばそれまでです。わたしは、自分の血の中に「他の人格を奪う」という、「自らの人格権の侵害」を感じるのです。だから、個別的自衛権の行使だとしても戦争に参加すること自体が「人格権の侵害」だと強く、強く感じるのです。