長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第2回)

2018-02-03 10:55:58 | 神学

NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第1回)
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/e62a88b8c0c42c103efe364a73a17e18


8.N.T.ライト

ダンがNPを本格的に新約学会に提示した人物だとすれば、N.T.ライトは、NPを学会以外の領域、キリスト教会全体に対して広く提示した人物と言えるかもしれません。ライトは特に、アブラハムとの契約との関わりで聖書全体を理解しようとする視点を強調します。ダンの釈義がどちらかといえばミクロ的な方向に向きがちなのに対して、ライトの視点はマクロ的な方向に向かいがちであるように思われます。そういったことから、ダンとライトの取り組みには、いくらかの方向性の違いがありますが、NP、特に「ノモス」の取り扱いについては、ダンの取り組みを踏まえた上にライトの取り組みがあると考えられ、共通部分が大きいのも確かです。

N.T.ライトのパウロ研究の原点と言える著作があるとすれば、おそらく、 "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology"(1992)が挙げられるかと思います(注56)。それまでに、様々な形で発表されていたパウロに関する釈義的な研究成果を、一つの視点でまとめ上げたものと言えます。その視点は、「契約の神学」と呼ばれうるもので、「イスラエルの神の契約的目的がイエスの死と復活の出来事においてそのクライマックス的瞬間に達した」という視点から、パウロの手紙の内容を見ていこうとするものです(注57)。

従って、ライトの律法理解も、大枠としてはこのような基本的枠組みの中で捉えられていると言えます。この後のパウロ研究に関する著作としては、 "What St. Paul Really Said"(原著1997年)(注58)、'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9"(2000年)(注59)、"Paul: in Fresh Perspective"(2005)(注60)等があります。特に、ローマ書におけるノモスの用法について、ライトの理解に迫ろうとすれば、ローマ書の注解書に当たるのが最善でしょう。

なお、ガラテヤ書の注解書がまだ出されていませんので、ライトによるノモス理解を全般的に詳述することはできませんが、ガラテヤ書のノモスについても、上記その他の著作によって、部分的には把握することが可能です。

ガラテヤ書における律法理解とローマ書における律法理解について、詳細を別途、ブログ記事にまとめていますので、適宜ご参照ください。

「N.T.ライトによるガラテヤ書における律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/1868634631decae493ba081e54f435b2

「N.T.ライトによるローマ書における律法理解」
(第1回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/884ef80f475113d50f55d358ca1bc140
(第2回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/aa027c3893941d8590f5f60a7537141f
(第3回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/fb44fc3532f47f13c57a97adcada76ad

ここでは、それらの記事でご紹介した内容を踏まえながら、4.で挙げました二つの釈義的課題に即して、要約的にまとめます。

(1)ノモスの語意の広がりについて

この点は、ライトもダンと同様に、基本的にはパウロ書簡に現れるノモスをモーセ律法、トーラーと理解します。たとえば、ローマ書で最初に登場するノモス(2:12)について、ライトは以下のように説明しています。「『律法』はここにおいて、また多かれ少なかれローマ書全体において、『ユダヤ人律法』、すなわち、シナイ山においてモーセに与えられたトーラー、イスラエルを定義づけ、教え、彼らが(おそらく)神の民であることを可能にする律法を意味する。」(注61)このようなライトの理解は、私が触れた範囲ではガラテヤ書におけるノモスについても、同様のようです。

あえて、例外的な箇所を挙げるとすれば、ローマ3:19に現れる二回のノモスの内、最初のものは、トーラーと理解しつつも、広い意味として理解されます。また、ローマ3:21に二回現れるトーラーの内、後のものについても、トーラーとして理解しつつも、ヘブル語聖書の区分をさしていることが指摘されます。

これは、従来、モーセ律法とは理解されてこなかった多くの箇所についても同様で、これもダンの理解と一致しています。詳細は上記ブログ記事を参照頂きたく思いますが、ローマ書であれば、3:27、7:21、23、8:2の内、口語訳聖書で「法則」と訳されているノモスについても、トーラーとしての理解を一貫させています。詳細は、上記ブログ記事の該当箇所を参照ください。

(2)ノモスに関する肯定的及び否定的言及について

(2-1)ガラテヤ書において

先にご紹介したように、ライトはガラテヤ書の注解書を出していないため、取り扱いは部分的になります。箇所としては、2:11-21、3:10-14、15‐20の3箇所を取り上げます。2:11-21は"Paul: in Fresh Perspective"で、3:10-14、15‐20は、"The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology"で取り上げられています。議論の詳細は、上記ブログを参照ください。

ここでは、それらの議論を総合したとき、ガラテヤ書における律法(トーラー)理解において、特に律法への肯定的及び否定的言及について、どのような論点で論じようとしているかを考えます。もちろん、ガラテヤ書全体の取り扱いではないことに留意する必要がありますが、ライトの見方を部分的にでも、できるだけ総合的に考えてみたいと思います。

ガラテヤ書の各箇所に現われる律法(トーラー)についてのライトの議論は、相当複雑で、それらを要約的に語ると、多少なりとも過度の単純化が避けられないかもしれませんが、私なりにライトの論点を調べると、以下の三つの論点が絡み合っているように見えます。その内、二つは強い論点で、一つは弱い論点です。

(1)トーラーは、ユダヤ人のみに与えられたものとして、ユダヤ人と異邦人との間に障壁を作るという点において、今や退けられなければならない。新しい契約の家族を区分するしるしは、トーラーの所持でなく、信仰である。

この論点は、第一の強い論点で、ガラテヤ書についてのライトの記述の中に繰り返し現れます。

(2:16)「トーラーの行いが造りだすのは、よくても民族的ユダヤ主義の延長としての家族に過ぎず、神が求められるのは全民族の家族だからである。」(注62)

(3:11、12)「すなわち、契約的メンバーシップはトーラーによって区別されるのでない。なぜなら、それは『律法を行うこと』を契約的境界のしるしとして位置づけ、それゆえそれは究極的に契約が民族によって決定づけられることを意味する。」(注63)

(3:16-17)「彼は(略)一つの種族がトーラーの所持によって特徴づけられ得ないことを議論している。」(注64)

(3:20)「律法が神の最後の言葉でありえないのはどうしてか。神はご自身お一人であって、単一の家族を求められるが、モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ、それゆえ、この計画を働かせることができない。」(注65)

これらは、トーラーがユダヤ民族と異邦人との間に障壁をもたらす点について、パウロが特に否定的に言及していることを指摘するものです。

このような論点の中では、律法と信仰との対比も見られます(3:11、12)。ライトは、ローマ書のほうでは、同様に律法と信仰を対比していると見られやすいローマ10:5-6では、対比的にでなく、包括的に理解していますが、ガラテヤ3:11-12では、律法と信仰の対比を認め、上記のように語っています。

このようなライトの論点は、特に「トーラーの行い」を中心にダンが指摘した論点との連続性を持っていると言えそうです。

(2)トーラーは単に一時的な役割を果たすべきものである。

これは、ライトにおいてはかなり弱い論点となっていますが、いくつかの箇所でこの論点を認めることができます。

(3:10-11についての上記引用に続いて)「それゆえ、レビ記は、歴史的にモーセのディスペンセーションの一部とみなされるが、ハバククによって相対化される。」(注66)

(3:19)「パウロはそれが『加えられた』(アブラハムへの約束に始まり、『一つの家族』に到達すべき神の計画に従って)、『違反のゆえに』と言う。」(注67)

(3:20)「パウロはそれゆえ20節でさらに説明する。律法が神の最後の言葉でありえないのはどうしてか。神はご自身お一人であって、単一の家族を求められるが、モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ、それゆえ、この計画を働かせることができない。」(注68)

以上、挙げてみるとすぐ分かりますように、この論点(2)は、ライトにおいては、(1)に付属していると言ってもよい位、目立たないものとなっています。

(3)律法は、アブラハムへの約束の成就を妨げ、のろいをもたらすように見えるが、この問題をメシアの死が解決した。

論点(1)は、ダンとの共通性を感じさせる、いわば、NPPに立つ人々が共通して注目してきた論点と言ってもよいものですが、ライトの特色として、論点(3)の強調を挙げることができます。これは、ライトにあってはかなり強い論点と言えます。

(3:10)「それゆえ本質的議論は次のように分析されると示唆したい。a.トーラーを奉ずるすべての者は、イスラエルの民族的生活様式を奉ずるようになる。b.民族としてのイスラエルは、歴史的にのろいを被ってきた。それはイスラエルがもしトーラーを守らなければトーラーがイスラエルに提供するものである。c.それゆえトーラーを奉じる者は今やこののろいのもとにある。」(注69)

(3:13)「それでは、アブラハムの祝福は(トーラーによって囲まれ、脅かされている)ユダヤ人、あるいは、(約束された祝福がそれゆえ自分のところにまで届かない)異邦人にどのようにして到来するのか。解答はまさにメシアの死に見出される。」(注70)

たとえば、ライトは、3:10-14全体について、「契約」のテーマとの関わり、及び「のろい」用語の使用に注目します。

まず、3:10については、ここでのトーラーについての言及は、それ自体では全く否定的なもののように見えますが、3:10で引用される申命記27:26から、申命記27-30章の文脈に視点を移すことにより、トーラーの役割はそれに終るのでないという論点が浮かび上がってきます。

また、3:13についても、「キリストは…律法ののろいからあがない出して下さった」という表現から見ると、この箇所では一見、律法が極めて否定的に取り上げられているように見えます。しかし、ライトは、同じく申命記27-30章を背景にしながら、律法によるのろいを通り抜けて回復、命へという線を見ようとしています。神の契約がキリストの死においてクライマックスに達するために、律法(トーラー)が逆説的に重要な役割を果たしていることをライトは見ようとしています。

(2-2)ローマ書において

ローマ書においてのトーラーに対するパウロの理解をライトがどう見ているかについては、ライトの注解書を中心にかなり詳細に調べることができます。以下のブログ投稿では、注解書本文に当たりながら、ローマ書各節における議論をまとめていますので、参照ください。

「N.T.ライトによるローマ書における律法理解」
(第1回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/884ef80f475113d50f55d358ca1bc140
(第2回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/aa027c3893941d8590f5f60a7537141f
(第3回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/fb44fc3532f47f13c57a97adcada76ad

上記投稿では、注解書全体の中から律法に関する議論を抽出し、その論点を洗い出し、それらの論点を整理、要約するところまで行いました。

ここでは、それらの論点整理を踏まえながら、特に、律法に対するパウロの否定的言及、及び肯定的言及をどう見たらよいのか、という観点から、整理し直してみます。

上記投稿で詳しく検討していますように、ライトの注解書本文から洗い出された論点は、各聖書テキストの釈義的議論などと結びついていると共に、論点相互の関係も複雑です。しかし、上記投稿では17の論点を4つの論点群にまとめました。ここにそれらを再掲すると共に、それらの論点に言及する主な注解書箇所を例示してみます。(詳細は、上記ブログ投稿に当たってください。)

(1)トーラーをユダヤ人と異邦人とを区別するものとし、ユダヤ人がトーラーの所有を契約の民のバッジとしようとすることに対して、否定的に扱う論点群

(3:20)もし、『ユダヤ人たち』がトーラーをアピールして、『これがわたしの異邦人と違うことを示してくれる』と言うなら、トーラー自身が『ノー』と言うだろうとパウロは言う。(略)パウロの時代、特に契約の民であることを示すものとして言及された『行い』は、もちろん、とりわけディアスポラにおいてユダヤ人を異邦人の隣人たちから区別するもの、すなわち、安息日、食事規定、割礼であった。(注71)

(3:28)イエスにおける神の真実の啓示の光においては、神の契約的民を今区別するものは、民族的イスラエルの境界を確定するトーラーの行いでなく、『信仰の律法』であって、逆説的ではあっても事実トーラーを真に成就する信仰である。
(注72)

(4:13-15)トーラー自体は契約の子孫の区分の印ではありえない。(略)彼はここでこのことを、なぜ割礼がこの子孫におけるメンバーシップに必要でもなければ十分でもないかということの更なる説明として提供している。それは、トーラーをメンバーシップのバッジとして絶対化するであろう。しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。(注73)

(2)トーラーが罪を指摘し、罪の問題を拡大する機能を持ち、イスラエルを断罪するに至ることについての論点群

(3:20)むしろ、彼のポイントは、トーラーの所有をアピールすることによって自分たちの契約的立場を正当化しようとするすべての者が、トーラー自身が彼らを罪に定めるのを見出すだろう、ということである。(注74)

(4:15)しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。トーラーは怒りをもたらす。(4:15a、それは3:19-20、またその背後に2:12bに言及する。)(注75)

(5:20)トーラーは、その所有者をアダムの罪の継承から解放するどころか、実際、彼らにとってそれを悪化させるように見える。このことは多かれ少なかれ、3:19-20でパウロが既に語ったことである。(注76)

(3)良い知らせの啓示は「トーラーを離れて」起こった。

(3:21)今パウロがしなければならない最初のことは、良い知らせの新しさを強調することであり、この啓示が『トーラーを離れて』起こったことを強調することである。(注77)

(4)罪はトーラーを通して問題をもたらすが、トーラー自体が悪いのでなく、むしろ信仰が御霊によってトーラーを成就に至らせる。

(3:27)むしろ、トーラーは信仰を通して成就される。言い換えれば、誰かが福音を信じるとき、たとえ驚くべき方法ではあっても、トーラーは実際に成就されつつある。(注78)

(7:13)すべての責めは、再度罪そのものに向けられる。罪は律法(『良いもの』)を通して『私』の内に働く。律法それ自体でなく、罪のその働きが死をもたらす。これが7:5の濃縮された言述の背後にある基本的説明であって、トーラーを過程における意図的共犯者の容疑を晴らすものである。(注79)

(7:22-23)トーラーは神に与えられたものであって、それ自体、きよく、正しく、良いものである。それはまさに喜ばれるべきものである。トーラーが罪の働きの拠点となる限りにおいて(8、11節)、それは罪によって乗っ取られ、『罪の律法』になった。(注80)

(8:2)トーラーは、それゆえ(略)神が成し遂げられたもの、すなわち、御霊が人格的与え主となる命の、隠れたエージェントである。(注81)

(8:3-4)神は罪をイエスの肉において罰せられた。その結果、律法が提示した命は御霊によって導かれるものによって正しく与えられた。(注82)

(10:4)トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうること、『義』を入手しうることである。(注83)

(13:8)隣人を愛する人々は、こうして、彼らは決してトーラーが禁じることをしないという直接的な意味においても、彼らを通して神の命の道がよく見られるという、より広い意味においても、『トーラーを成就する』。(注84)

以上、4つの論点群について、該当する聖書箇所、及びそこでのライトの言及を挙げてきました。ご覧いただいたらお分かり頂けると思いますが、これらの論点群は、互いに深く関わり合っています。たとえば、論点群(1)は論点の趣旨自体の中に論点群(2)との接点がありますし、3:20の取り扱いでは両方の論点が含まれます。また、論点群(3)は3:21に見られるものですが、そこでのライトの注解を読むと、その中に論点群(1)と(2)の両方が結び付けられているのが分かります。更に、論点群(4)は、論点群(2)を受けて発展させられています。

これらの論点群をダンの場合と比較してみますと、論点群(1)は、特にダンの理解との一致性、連続性が強くあります。論点群(2)については、ライトにおいては論点群(1)と並んで、かなり強く表現されていますが、ダンにおいては論点群(1)の強調の陰で、あまり強くは表現されていないように見えます。論点群(4)についても、ダンの理解と共通している部分がかなりありますが、ライトはダンよりもなおこの論点群をなお強く強調しているように思われます。

さて、パウロが律法に対して否定的に言及していると見られる箇所は、上記の論点群で言えば、(1)または(4)に属していると見られます。

一方の論点群(1)においては、ユダヤ人がトーラーを所有していることにおいて異邦人とは異なり契約の民のメンバーシップを主張したとしても、それは否定されるという点において、否定的言及となります。

他方、論点群(4)においては、たとえば、7:5のように「律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして」といった箇所において、一見、律法に対する否定的言及に見えるとしても、トーラー自体が悪いのではなく、罪が問題の根源であるという論点において、トーラーに対する擁護がなされることになります。

逆に、パウロが律法に対して肯定的に言及していると見られる箇所は、論点群(4)に属していると見られます。但し、肯定的論旨としては二種類あって、第一には、律法が罪の働きを増すように見えるのに対して、律法自体が悪くないことを主張する場合(7:12、14)、第二には、信仰が御霊によって律法を成就することを主張する場合です(3:21、8:4)。


9.NPPの立場からのその他の解答

ダンが"The New Perspective on Paul"というタイトルでマンソン記念講演を行った1982年から30年以上の歳月が流れました。その間に、これに反対する立場からも、同調する立場からも、多くの論文や著作物が出されてきました。ただ、その多くは、英語での文献になるようで、私にはその状況を大まかにでも把握する力がありません。それでも、ダンとライト以外に、手近なところで入手可能な資料、文献もありますので、二人の方を簡単にご紹介致します。

(1)浅野淳博

一年前、私が「NPPによるノモス理解」のテーマに取り組み始めた頃はまだ発行されていませんでしたが、取り組みにようやく終わりが見えてきた頃、日本で新しいガラテヤ書の注解書が出されました。浅野淳博著『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』です(注85)。この注解書は、まさしくNPPからのノモス理解に立って書かれています。彼は、その注解書の中でガラテヤ書研究において重要なのテーマを17のトピックスとして取り上げており、その中には、「#8 ΝΟΜΟΣ:律法とユダヤ人の律法観」「#9 ΚΑΤΑΡΑ:呪いと救い」「#16 ΝΟΜΟΣ ΧΡΙΣΤΟΥ:律法、キリスト、キリストの律法」が含まれています。NPPの立場からのノモス理解についての日本語のまとまった文章として、今後、大いに参照されるべき内容になっています。ここでは、これらのトピックスの内容を中心として、著者のノモス理解をごく簡単にまとめてみます。

・NPPと律法理解

「トピック#8 ΝΟΜΟΣ:律法とユダヤ人の律法観」では、まず、伝統的な律法理解とNPP及びその後の視点について簡略に触れられています。その中で、パウロの律法理解に対してNPからの問いかけがなされたことが指摘されています。「この律法理解(サンダースが提唱したcovenantal nomismとしての第二神殿期ユダヤ教理解)は広く受容され、『新たな視点(New Perspective)』の幕開けとなった。一方でこの視点は即座に新たな疑問を投げかけた。すなわち、〈律法が悪でないならパウロはなぜ律法を否定的か、律法の何を批判するか〉である。」

このように指摘しながら、サンダース自身の回答に対しては「印象的だが創造性に欠ける」と指摘しながら、次のような示唆を与えています。「むしろ、律法を持つ者の奢りという主題(ロマ2章)や『律法の行い』(ガラ2:16;3:2,5)という表現の意味に注目し、律法が象徴するイスラエルの選民的民族意識がパウロによって批判されている点に注意を向ける必要があろう。」(注86)これは、概ね、ダンが示唆した方向性に一致しています。

・神の律法

パウロが律法をいかに理解したかという問いに対して、浅野は大きく二つの方面から示唆を与えます。まず、「神の律法」とのタイトルのもとに、二つのサブタイトル(「命を導く律法」、「罪を定義する律法」)が掲げられます。ここで指摘されているのは、一見、パウロが律法に対して否定的に言及しているようであっても、厳密には律法を批判しているわけではないという点です。たとえば、次のように指摘されます。「したがって、パウロが律法は命を与えないと述べる場合(ガラ3:21)、それは上述の神の憐みと律法との違いを意識しており、厳密には律法を批判しているのではない」、「したがって、律法をとおして罪の知識がもたらされ(ロマ3:20)、律法のないところに違反が認められない(4:15)ことは、厳密には律法への批判でなく、この律法の機能を述べている。」(注87)

・律法の終末的評価

次に、「律法の終末的評価」とのタイトルのもとに、三つのサブタイトル(「律法の一次性」、「律法の隷属性」、「誤った律法観」)が掲げられます。まずは総括的に次のように言われます。「しかしパウロが、キリストによる神の救済計画の成就という終末的な観点から、律法に関する独特な評価を下していることも確かだ。」(注88)しかし、この観点からの律法評価においても、実は律法を批判しているわけではない点が関わっているとし、それでは実際にパウロが否定的に言及するのが何にたいしてであるのかという問いに迫っていきます。

まず、「律法の一時性」は、ガラテヤ3章に見出されるパウロの論点ですが、次のように言います。「これは神が与えた律法の役割に対する適切な認識で会って、律法の批判でない。」

続いて、「律法の隷属性」は、パウロがガラテヤ4章等で述べている論点ですが、これについても次のように指摘されます。「これは本質的には、上で述べた罪を定義する律法の機能を言い表しており、罪(不従順)→捕囚→帰還というプロセスの拘束性を強調している。人の罪という変数を組み込むと、律法の公式はおのずから拘束/隷属という解をたたき出す(Dunn 1988:158-59参照)。したがってこの点に関しては、律法の批判というよりも、罪深い人類と律法が対峙する歴史が表現されていると理解できよう」。

以上、ガラテヤ3-4章における律法の評価については、「それが与えられた目的を与えられた期間に果たした、ということである」と言います。但し、この評価は同時に、「律法がユダヤ人による神の独占を保証するという民族的な排他性に対する牽制」でもあって、このことが律法に対するパウロの著しく否定的な表現につながると指摘します(注89)。

続く「誤った律法観」というサブタイトルの下で、パウロの批判点が明確化されます。(ローマ2章を挙げながら)「律法を誇りながら律法に従わないユダヤ人は神を侮辱する」、「上では、神が契約の民の生き方を規定する目的で律法を与えたという理解を指摘したが、パウロはユダヤ人がこの神の憐みによる計らいを選民思想の根拠とし、自民族による神の特権的占有を保証する象徴として律法授与を捉えたことを指摘する。」、「ガラ2:16では、このユダヤ人による律法への歪曲した誇り、それを根拠としたユダヤ民族の優位性を『律法の行い』というパウロ特有の句によって表現し、その象徴としての割礼と食事規定を異邦人へ適用することを問題視した。」(注90)

・キリストの律法

他方、「トピックス#16 ΝΟΜΟΣ ΧΡΙΣΤΟΥ:律法、キリスト、キリストの律法」では、「ユダヤ律法と出会い直した新約聖書学は、パウロの倫理における律法の意義をふたたび問うた。この新たな試みにおいて起点となるのが『キリストの律法』というパウロ自身の表現である」と言います。そして、この「キリストの律法」について、「それはユダヤ律法に替わるキリストの原理でなく、キリストが体現した律法の精神だ」と主張します(注91)。

(2)T.ギャラント

日本ではほぼ知られていない学者だと思いますが、ネット上に、この方の以下のような小論を見つけました。

'Paul and Torah-An introductory overview'
http://www.rabbisaul.com/articles/overview.php

この小論は、パウロ研究に関する資料を集めた以下のサイトで掲載されていたところから見つけました。
http://www.thepaulpage.com/

このサイトには、NPPに関する資料が集められており、NPPサイドに立つものが'From the New Perspective'という形でまとめられていました。上記小論は、その中に含まれていましたので、このサイトでは、上記小論をNPPサイドに立つものとみなしていることになります。

以下は、上記小論の内容についての簡単なご紹介です。

NPPが現われてからのモーセ律法についてのパウロの見方についての議論が複雑であることを認めつつ、ギャラントは、以下の点を主張します。

・パウロ研究において福音主義的基本姿勢を明確にすべきである。

パウロ研究についての福音主義的評価のためには、基本姿勢として、パウロが首尾一貫した見解を持ち、自己矛盾を起こしてはいないという前提が必要であることを明確にしています。その意味で、レーザネン、ヒュプナー、サンダースといった学者たちの見解を退けています。

・パウロにおけるノモスは通常トーラー(モーセ律法)を意味する。

いくつかの用法を挙げながら、パウロにおけるノモスが通常モーセ律法を意味するとの見方を明確にしています。但し例外としては、ローマ3:19を挙げます。

・トーラーを救済史的枠組みの中で位置づけようとする姿勢を明確にしている。

ギャラントの特徴として、救済史的枠組みの中にトーラーを位置づけようとする姿勢が強いことです。その意味で、クリスチャンは現在、トーラーのもとにはいないことが強調されます(ローマ6:14、第一コリント9:20)。また、ローマ10:4の「テロス・ノムー」については、"goal"としての訳を好むと言いつつ、その理解としては、ある種の「終わり」として理解しようとします。

・パウロのトーラーを巡っての否定的言及は、主に、トーラーがキリストにおいてゴールを迎えたことを否定することに対して向けられている。

上記強調点の帰結として、パウロがトーラーに対して否定的に語る場合、それはキリストが来られたことにより、トーラーがゴール(終り)を迎えていることを否定することに対して向けられているということになります。なお、彼のこのような理解は、ガラテヤ書自体を注意深く読んだ結果であると言います。

・律法の成就もまた、契約の移行という枠組みの中で理解されるべきである。

ギャラントの強調点は、トーラーとの連続性よりも非連続性に置かれているように見えます。そうした場合、パウロがしばしば提示する「律法の成就」というテーマをどう理解するかが問われることになります。ギャラントは、この点についても救済史的枠組みの中で理解する方向性を示し、トーラーは規範的契約であることをやめたのであって、キリストにある新しい契約の中でこのテーマを見ようとします。

以上、小論におけるギャラントの論点の概略を見てきましたが、印象としては、NPP、特にライトの主張をよく踏まえつつも、ライトがあえて強調しなかった救済史的視点を強調しているところに彼の特色があるように思えます。あまりよく知られている人ではないですし、私自身どこまでネット上の小論を読んだだけのことに過ぎませんが、NPPの幅の広さを感じさせるものではありますので、ご紹介させて頂きました。


10.今後の検討の方向性

以上、パウロのノモス用法について、二つの釈義的課題に照らしながら、OP及びNPの立場からの理解、主張を見てきました。今後は、これらの理解、主張を踏まえた上で、どういう判断でこれらの問題を見ていくのか、検討を深めていく必要があります。ここでは、現時点での所感と共に、今後の検討の方向性として、今の時点で考えていることを挙げさせて頂いて、この論考を一旦終えさせて頂きたいと思います。

まず、二つの釈義的課題に照らしながら、OP、NP双方の論点、主張点を整理する中での所感ですが、自分としては思うに勝って、このテーマについての争点が整理されてきたように思います。しかし、同時に、それはこのテーマの難解さ、複雑さがなお強く理解されてくることでもあったように思います。更には、このテーマについてどういう見方をするかが、パウロ理解にとどまらず、福音理解、聖書理解をも大きく左右することも痛感しています。

今後の検討の方向性ですが、やってみないと分からない面が多々あることを承知の上で、現時点で考えていることをアトランダムに挙げてみます。

・とりあえず、ノモス=トーラーの線で検討を進めてみる

私としては、とりあえず、ノモス=トーラーの線で検討を進めてみたらどうかと思っています。NPからの主張に触れるまでは、私も概ねOPの線でパウロの律法言及を理解していたと思います。しかし、NPからの問いかけを踏まえてパウロの手紙を読んでみると、パウロのノモス用法の少なくとも相当部分はトーラーとして理解するのが自然と思われます。とりあえずは、基本的にノモス=トーラーの線で検討を進めていければと思います。従来、一般的原理として理解されることの多かった箇所(ローマ3:27、7:23、8:2)でも、トーラーとして理解することが可能かどうかを含めて、検討し直してみます。

・各書簡が書かれた背景・状況と、ノモスに関する論点との関わり具合を考える

パウロのノモス理解を考える上では、これまで見てきたように、ガラテヤ書及びローマ書への取り組みが第一となります。両書は、取り組むテーマや提示される論点、またその表現において、多くの重なる点を持ちますが、その書かれた背景においては少し違ったものがあります。そのことが、各書簡におけるノモスに対する論じ方に、ある程度の差異を与えているように思われます。そのあたりを私なりに探ってみたいと思います。

同時に、パウロのノモス理解を考える上で、コリント書やピリピ書も相当重要です。また、その他の書簡にノモスについての言及が少ないとしたら、それはどうしてなのかという問いについても、検討したいと思います。

・ノモス以外の関連フレーズについての釈義的検討

NPPが投げかけた釈義的課題は、ノモス理解だけでなく、パウロの「神の義」「義とされる」、あるいは「ピスティス・クリストゥー」をどう理解するかという課題があります。私としては、それらを一遍に取り組むことは混乱のもとであると考え、これまで特にノモス理解の問題に焦点を当てて考えてきました。しかし、最終的には、これらの別課題にどう答えるかが、パウロのノモス理解の問題への解答の仕方に関わってくることも、避けられないことと思います。いずれかの時点で、これらの課題にも取り組んでいきたいと思います。

・"What St. Paul Really Said"読後の暫時的見解の再検討

2016年には、ライトの著作"What St. Paul Really Said"(原著1997年)に対する検討を進め、14回にわたってブログに投稿しました。その内、特に、「第7章 義認と教会」では、ライトの義認論を巡る文章への検討をしました。その中では当然、パウロの律法理解の問題も扱うことになりました。その際には、その時点での暫定的見解もまとめさせて頂きました(以下の投稿参照)。

「第7章 義認と教会(その3)」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/3b1f74674e764c211c4dc393d8c83b63

内容的には、ノモス=トーラーとしての理解を受け入れ、また、パウロの律法についての議論をいわゆる律法主義に反対する論ではないという指摘も受け止めつつ、なお、全般的には保守的な見方を保持するものだったと思います。その時点では、NPP全般に対する理解も浅く、ライト自身のノモス理解の詳細については無知なところが多々ありましたので、あくまでも暫定的な見解にとどまるものでした。(今となっては、軽々によくも公表したものだと呆れる思いも持ちます。)

今回の検討を通して、ダンやライトその他、NPの立場からの諸見解に触れることができました。その中で、私が以前自らの暫定的見解のために挙げさせて頂いた論点のいくつかは、随分多方面から反論されているのを確認することができました。しかし、ざっと見たところではまだ私の見解が全体的に反証され尽くしているわけではないとも感じています。現段階での印象では「少なくとも部分的には成立の余地を残している」という感を抱いています。この点についての検証も、私の中では大きな課題となります。

・「律法の成就」のテーマを見逃さないこと

他方で、「律法の成就」というテーマは、パウロがローマ3:31、13:8でも表現しており、「キリストの律法」という表現とも関わると見られます(ガラテヤ6:2、第一コリント9:21)。また、主イエスにあっても、同じテーマが強調されていることを考えると(マタイ5:17)、パウロの律法理解をどのように考えるとしても、このテーマを無視してはいけないし、むしろしっかりと踏まえる必要があるかと思います。

・旧約聖書及び主イエス及び初代教会における律法理解についての歴史的文脈を踏まえること

NPPでは、パウロの律法理解を考える上で、1世紀ユダヤ教における律法理解がどうであったのかという、これまで軽視されてきた点をよく踏まえるべきことを提唱しています。パウロが諸書簡を書いた背後には、多かれ少なかれ1世紀ユダヤ教との関わりがあったのですから、この提唱には大きな意義があったと思います。しかし同時に、当然のことながら、旧約聖書における律法に関する啓示、主イエスの律法についての教え、また他の使徒たちがどう律法を理解し、位置づけたか等、律法理解についての幅広い歴史的文脈をも踏まえる必要があるかと思います。パウロがそれらを踏まえた上で、自分なりの仕方でこの問題を整理し、論じたであろうと思うからです。

・律法と契約との関わり、及び契約間の連続性と非連続性の問題を考えること

ライトは特に、律法を契約との関わりで見ようとします。両者の密接な結びつきは、特にガラテヤ3章で明瞭に現われています。ただ、ライトの場合、アブラハム契約、シナイ契約(モアブ契約)、そして新しい契約の間で、非連続性よりも連続性に目を向ける姿勢が強く表われます。他方、ギャラントのように、契約間の非連続性に注目し、律法に対するパウロの否定的言及についても、主としてこの点から説明しようとする学者もいます。律法と契約との関わり、また古い契約と新しい契約との関わりについて、自分なりに検討を加えたいと思います。


以上、思いつくままに書いてみました。この他にも、NPに対するOPからの応答として出された近年の著作がどのような論点を提示しているのかも見ていければと思います。挙げてみると、際限のないことのようにも見えますが、今回の論考をまとめ始めたときには、このような地点に到達することさえ危ぶんでおりましたので、神の許しがあれば、行けるところまで行ってみたいと思います。

なお、パウロのノモス理解の問題は、当然のことながら、今後、新約学者のみならず、日本の諸教会、牧師、信徒が取り組んでいくべき課題となることと思います。諸方面からのご教示、異論、対論、歓迎します。また、ご一緒に取り組んで下さる方がありましたら、ご連絡頂けますと幸いです。

 


(注56)N.T.Wright "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology" Fortress Press, 1992

(注57)Wright上掲書Preface p9

(注58)N.T.Wright "What St. Paul Really Said" Lion Books, 1997(邦訳:『使徒パウロは何を語ったのか』岩上敬人訳、いのちのことば社、2017年)

(注59)N.T.Wright 'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9" Abingdon Press, 2000。

(注60)N.T.Wright "Paul: in Fresh Perspective" Fortress Press, 2005

(注61)Wright 'Romans'、p356

(注62)Wright "Paul: in Fresh Perspective"、p110-112

(注63)Wright "The Climax of the Covenant"、p149

(注64)Wright上掲書、p166

(注65)Wright上掲書、p172

(注66)Wright上掲書、p149

(注67)Wright上掲書、p171

(注68)Wright上掲書、p172

(注69)Wright上掲書、p147

(注70)Wright上掲書、p151

(注71)Wright 'Romans'、p375

(注72)Wright上掲書、p395-396

(注73)Wright上掲書、p408

(注74)Wright上掲書、p375

(注75)Wright上掲書、p408

(注76)Wright上掲書、p442

(注77)Wright上掲書、p383

(注78)Wright上掲書、p395

(注79)Wright上掲書、p475

(注80)Wright上掲書、p480

(注81)Wright上掲書、p486

(注82)Wright上掲書、p489

(注83)Wright上掲書、p562

(注84)Wright上掲書、p625

(注85)浅野淳博『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』(日本キリスト教団出版局、2017年)

(注86)浅野淳博上掲書、251頁

(注87)浅野淳博上掲書、253頁

(注88)浅野淳博上掲書、253頁

(注89)浅野淳博上掲書、254頁

(注90)浅野淳博上掲書、255-256頁

(注91)浅野淳博上掲書、459-460頁

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