長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第1回)

2018-02-03 10:38:00 | 神学

2016年には、N.T.ライトの"What St Paul Really Said"の検討に取り組みました。その中で、「パウロにとっての律法(ノモス)とはどのようなものなのか」というテーマが浮かび上がってきました。このテーマは、NPP(パウロについての新しい視点:New Perspective on Paul)が掲げる基本的主張、すなわち、パウロの論敵はいわゆる「律法主義者」(すなわち、律法を行うことによって救われるという考え方をする人々)ではなかったという主張(注1)とも深く関わり、パウロ神学の大きな課題となっています。

2017年に入ってから取り組みを始め、ほぼ1年かかっての取り組みとなりました。学んでいけばいくほど、このテーマの深遠さ、難解さを感じさせられています。一方では、パウロ研究の分野でNPPが投げかけた釈義的課題は、多方面に及んでおり、ノモス(律法)についての問題提起はその一部に過ぎません。また、NPPの立場に立つ研究者の中でも、ノモスに関する釈義的見解には幅があることも事実です。他方、パウロ書簡においてノモスの用法はかなり広範囲に及んでおり、かつ、従来より釈義的な課題を持つ用語でもありました。そういった課題に対して、浅学なものが取り組みを進めることは容易なことではありませんでした。(この過程の中で、ダン及びライトの、ガラテヤ書及びローマ書における律法理解をまとめることになりました。)

しかし、パウロ神学の根幹に関わる問題であることは確実ですし、それは聖書全体のメッセージをどう受け取り、どう伝えていくかという、すべての牧師にとっての基本的課題に直結することでもあります。大山に向かって少しずつ上っていくような感がありましたが、とりあえず、NPPがノモスをどう理解しているのかについては私なりに整理されてきましたので、取り組みの途中経過として、ここにまとめてみました。大山の五合目あたりに達したというところでしょうか。

今後、NPPが投げかけた課題に対して、どう答えていくのかという課題が残されます。今回、結部ではこれまでの取り組みの中から見えてきた手がかり、現時点で考えている検討の方向性をまとめています。しかし、果たして無事大山の頂上までたどり着けるのか、現時点では何とも言えません。神の助けを頂きながら、行けるところまで行ってみたいと思っています。


1.NPPによる問題提起

パウロにおける「律法」についての教えについては、従来から新約学者の重要テーマの一つでしたが、NPPが注目されるようになったことにより、この問題が新たな角度からクローズアップされてきたと言えます。

たとえば、福音主義神学会東部会研究会での岩井敬人牧師による発題は、NPPを次のように紹介しています。「パウロ研究に関する新しい視点とは、1977年にE.P.Sandersが著したPaul and Palestinian Judaismを発端として、パウロ研究の分野にもたらされた第二神殿期ユダヤ教の視点であり、そこからパウロの手紙(特にローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙)の再解釈を試みた新約聖書学における一連の研究の流れである。(中略)サンダースによると、第二神殿期ユダヤ教は、律法の行ないによって義とされることを追求する宗教ではなく、神の恵みによる選びと神との契約に基づいた宗教(covenantal nomism,「契約規範主義」)であった。律法遵守は、あくまでも契約を維持するために要求されていたのであり、神との契約関係に入るために求められていなかった。ところが、これまでのプロテスタント理解によると、『律法の行いによって義とされる』とは、当時のユダヤ教が教え、実践したことであると解釈されてきたのである。もし一世紀ユダヤ教が律法主義ではなく契約規範主義であったのなら、これまでのパウロ理解、特にローマ書やガラテヤ書の解釈をもう一度問い直さなければならないのである。」(注2)

もちろん、同じ発題で明らかにされているように、NPPの立場からの釈義的課題としては、「神の義」「義認(ディカイオー)」「ピスティス・イエスー・クリストゥー」理解等、幅広い論点が関わっています。しかし、NPPが掲げる問題提起が、第二神殿期ユダヤ教への理解から始まり、パウロの手紙と「律法主義」との関係(あるいは無関係)の問題に進んでいったことを踏まえると、「パウロにおいて律法はどのように考えられ、教えられているのか」という問題は、NPPがパウロ理解に投げかけた一番最初の基本的な問題提起であったとも言えます。

ただ、人々の関心が「NPPは従来の義認論にどのように変更を迫るのか」といった観点に焦点が当てられがちであるため、なかなか「パウロと律法」という基本的釈義課題が深まらない、ということもあるのかもしれません。ここでは、この点に焦点を絞った上で、NPPの問題提起を整理してみたいと思います。


2.NPPのノモス理解に迫るための方向性

課題への取り組み方は色々ありうると思うのですが、この点について、上記発題は以下のように指摘しています。「パウロ研究に関する新しい視点は、あくまでもパウロ書簡の釈義という土俵で論じられる問題であり、聖書釈義における議論の過程を飛び越えて、神学(あるいは組織神学)の土俵で扱われるべき問題ではない、ということは多くの研究者が同意するのではないだろうか。」(注3)この点については、私もその通りと思いますので、ここでもまずは釈義的課題として取り組みたいと思います。

ただ、釈義的課題と考える際にも、色々な方面からの取り組み、視点がありえます。ここでは、特定箇所の詳細な釈義に入り込むよりも、パウロの各手紙(ローマ書やガラテヤ書を中心に)における律法の用法を、全体的に把握することをめざしたいと思います。その意味では、聖書神学的アプローチを取ることになるかと思います。

取り組みの手がかりとして、パウロ書簡における「ノモス」用法に関わる基本的な釈義的課題を二つ挙げさせて頂きました。一つは、「ノモス」という用語が持つ語意の広がりの問題。もう一つは、パウロがローマ書やガラテヤ書などにおいて、「ノモス」に対して、肯定的言及と否定的言及の両方を繰り返しているように見える問題です。これらは、NPPだけでなく、OP(古い視点)に立つ研究者たちも取り組んできた課題と言えます。従って、まずはこの二つの釈義的課題に対して、OP(古い視点)とNP(新しい視点)がどのようにその問題に解答を与えたのかを注目します。それによって、パウロの「ノモス」用法を巡る議論において、とかくすれ違いに終わりやすいところに、とりあえず共通の土俵を用意することができると共に、OPとNPの視点の違いを比較対照することが容易になるのではないかと考えました。


3.用語についての基本的確認

(1)トーラーとノモス

基本的なこととして、旧新約聖書で「律法」と訳される言葉を確認しておきます。旧約、新約、それぞれ、色々な言葉が「律法」と訳されますが、その中で圧倒的に多い言葉が、旧約聖書では「トーラー」であり、新約聖書では「ノモス」です(注4)。

まず、旧約聖書で用いられる用語として、「律法」(Law)と訳されるのが最も多いのが「トーラー」です(220回)(注5)。この言葉の本来の意味は、「指示、導き、教え」といった意味で、旧約聖書でも、一般的用例がないわけではありません(箴言1:8、イザヤ42:4等)。しかし、最も多いのは、モーセ五書を中心にモーセを通してイスラエルの民に与えられた神の個々の教え(出エジプト12:49等多数)、及びその総体(ヨシュア1:7等多数)について言及するものです。

次に、新約聖書で「律法」と訳される言葉のうち、最も用例が多いのは「ノモス」です。「ノモス」という言葉もまた、いくらかの広がりをもって使われうる言葉です。大きく言えば、(a)「基準、法則、原理」といった意味合いで使われる場合もありますが(ローマ8:2等がその例とされてきました)、より一般的なのは(b)「法律」としての意味合いで用いられるケースで、新約聖書においてはほとんど「律法」と訳されます。細かく分けて言えば、(イ)一般的な「法律」の意味合いでの用例と断定できる箇所は見当たらないようです。「律法」と訳されうる用例としては、(ロ-α)モーセの律法(ユダヤ人の道徳的・祭儀的律法全体)(マタイ22:36等)、(ロ-β)モーセ五書(旧約聖書の区分の一つとして、ルカ24:44)、(ハ)キリストの律法(ガラテヤ6:2)といった使われ方の区別があるとされます(注6)。

(2)パウロにおける「ノモス」用例(概観)

パウロはノモスを119回用いており、それは新約聖書全体の191回の半分を越えます(62%)(注7)。その中でも圧倒的多数は、ローマ書とガラテヤ書での用例です(注8)。たとえば、Leon Morrisは、受け取り方の難しい用例として、ローマ7:23(口語訳聖書で「罪の法則」「心の法則」と訳される部分)、7:2(口語訳聖書で「夫の律法」と訳される部分)、ローマ8:2(口語訳聖書で「罪と死との法則」と訳される部分)を挙げていますが、その他の部分では、「ほとんど彼は、モーセを通して神が与えた律法を考えており、それを神のよい賜物と見ている」と指摘しています(注9)。

すぐ後で見ますように、「ノモス」という用語自体は、かなり幅の広い語意を持った言葉です。ですから、この言葉自体は、必ずしも、モーセ律法に限定して理解される言葉とは言えません。従来、保守的学者の間では、パウロがローマ書やガラテヤ書で、ノモスをかなり幅のある使い方をしてきたと理解してきました。しかし、NPPの立場からは、パウロ書簡におけるノモスを基本的にモーセ律法として理解する見方が提示されています。この点は、今後、検証していくべき大切な点の一つとなりますが、NPPの立場以外でも、レオン・モリスのような新約学者において、パウロの用いたノモスの基本的用法として、「モーセを通して神が与えた律法」としての用法を考えていることを、まずは押さえておくべきでしょう。


4.パウロの「ノモス」用法に関する二つの釈義的課題

まず、パウロの「ノモス」用法を検討していくと、すぐに直面させられる問題が二つあることを指摘させて頂きたいと思います。

(1)「ノモス」の語意の広がり

第一には、ギリシア語「ノモス」に、語意の広がりが見られることです。たとえば、岩隈による「ノモス」の語意分類を要約的に再掲します(「1.」参照)。

(a)「基準、法則、原理」(ローマ8:2等)
(b)「法律」「律法」
(イ)一般的な「法律」
(ロ-α)モーセの律法(ユダヤ人の道徳的・祭儀的律法全体)(マタイ22:36等)
(ロ-β)モーセ五書(旧約聖書の区分の一つとして、ルカ24:44)
(ハ)キリストの律法(ガラテヤ6:2)

これまでパウロの「ノモス」用法の中では、一般にこれらの用法のほとんどを見い出すことができると考えられてきました。

(a)の用法としては、レオン・モリスが受け取り方の難しい用例として挙げているローマ7:23(口語訳聖書で「罪の法則」「心の法則」と訳される部分)やローマ8:2(口語訳聖書で「罪と死との法則」と訳される部分)がその用例と考えられてきました。

次に、(b)の用法の中で、(イ)の用法を指摘するのは比較的少数の注解者のようですが、それでもF.F.ブルースは、4:15、5:13、7:1を「一般的法」として挙げています(注10)。

(ロ‐α)について言えば、少なくとも、パウロの用法のかなり広い範囲に見い出すことができることが明らかです。たとえば、ローマ2章において、ユダヤ人と異邦人について代わる代わる取り扱っている箇所での「ノモス」は、明らかに(ロ-α)の意味で用いられています。「律法を持たない異邦人」(2:14)、「もしあなたがユダヤ人と称し、律法に安んじ(中略)、律法に教えられて…」(2:17、18)等を(ロ‐α)以外の用法で理解しようとすることは難しいでしょう。また、ローマ5:13「律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められない」と、5:14「アダムからモーセまでの間においても」を比較すると、5:13における「律法」はモーセの律法と理解する他ないように思われます。更に、ガラテヤ3:17「神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。」も、明らかに(ロ‐α)でしか理解できません。

次に、おそらくは(ロ-β)の用法と思われるものとしては、ローマ3:21「律法と預言者とによってあかしされて」の部分の「ノモス」で、ルカ24:44に見られる用法と同じです。

(ハ)の用法の意味合いについてどう判断するかは、今後、検討を進めていくべき課題の一つとなりますが、とりあえずはガラテヤ6:2や第一コリント9:21において、クリスチャンも守るべきものとして用いられていることを指摘しておきます。

ここで「ノモス」についてのもう一つの意味合いの可能性を付け加えておきたいと思います。これは、後に説明しますが、F.F.Bruceの解説の中にも見い出されるものです(注11)。すなわち、「広い意味での神の法」としての意味合いです。すなわち、ユダヤ人も異邦人も従うべき神が定めた法としての「ノモス」です。この用法がパウロの手紙の中に見い出されるのかどうかもまた、検討課題の一つとして含めることができるかと思います。

このように、本来「ノモス」という言葉自体はかなり幅広い意味合いを含んでいるため、パウロが各特定箇所で「ノモス」をどの意味合いで用いているのか、見定めていく必要があることになります。

(2)「ノモス」に対するパウロの否定と肯定

次に、パウロの「ノモス」用法において、特に「律法」と訳される箇所の中では、否定的に言及している箇所、肯定的に言及している箇所の両方があります。これらの言及をどう理解したら首尾一貫した理解が得られるのかが問われます。

まず、律法に対して否定的に見える箇所が沢山あります。たとえば、「義とされる」ことのために律法が果たす役割を否定しているように見える箇所、律法による罪の悪性化を指摘する箇所、キリストが「律法の下にある者をあがない出す」と語る箇所、更に、キリスト者が「律法のもとにない」と指摘する箇所があります。(訳はいずれも口語訳)

ローマ3:20「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」

ローマ3:28「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」

ローマ4:13「なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。」

ローマ5:20「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。」

ローマ6:14「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」

ローマ7:5「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。」

ガラテヤ2:16「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」

ガラテヤ2:19「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。」

ガラテヤ3:2「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」

ガラテヤ3:5「すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」

ガラテヤ3:10「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。」

ガラテヤ3:11「そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。」

ガラテヤ4:5「それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」

ガラテヤ5:4「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」

第一コリント9:20「律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。」

このように、律法に関して否定的な言及が沢山ある一方で、肯定的言及も沢山見出されます。たとえば、律法を擁護するように見える箇所、キリストあるいは聖霊によるによる律法の確立・成就を示唆する箇所、キリスト者もまた律法を守るべきであると示唆しているように見える箇所などがあります。

ローマ3:31「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」

ローマ7:12「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。」

ローマ7:14「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。」

ローマ8:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」

ガラテヤ5:13、14「ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」

ガラテヤ6:2「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」

第一コリント9:21「律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。」

律法に対して、明確に肯定的な箇所、否定的な箇所のほかに、肯定とも否定とも取れる箇所として、以下のような箇所があります。

ローマ10:4「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(口語訳)

新改訳では、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」と訳していますが、別訳として、「律法の目標であり」を表示してもいます。

新共同訳では、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」と訳しています。

更にまた、肯定的及び否定的言及が絡み合っているように見える箇所、律法に対して制限された一定の役割を指摘する箇所もあります。

ガラテヤ3:19-22「それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたものであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」

ガラテヤ3:24「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育係となったのである。」

このように、律法に対するパウロの言及は、肯定的なものも否定的なものも複数方面からの言及があり、それらが錯綜しているように見える箇所もあります。これらを統一的にどのように理解すべきかが大きな課題となります。

以上、パウロのノモス理解を考える上で、これら二つの釈義的課題(第一=本来広がりのあるノモスの語意の中で、パウロがノモスをどの語意を想定して用いたのか、及び、第二=パウロのノモスに対する肯定的及び否定的言及をどう理解するのか)のあることを見てきました。以降は、OP及びNPにおいて、これら二つの課題にどう答えてきたのかを確認してみたいと思います。


5.OP(古い視点)の立場から

上記のような、「ノモス」に関する二つの釈義的課題について、OP(古い視点)ではどういう解答を与えてきたのかを確認してみます。もちろん、これらの課題についての解答の仕方は、OP内でも細部においてはかなりの多様性があるはずですが、OPのOPたる特徴点を明確にすることを明らかにするなら、一定の方向性が見えてくると思います。

このために、著名な保守的新約学者二人の解説をまずご紹介します。

(1)F.F.Bruce

最初に、F.F.Bruceを取り上げます。ブルースは、ティンデール注解書シリーズに含まれるローマ書の注解書の序論部分で、"'Law' in Romans"というタイトルで、ローマ書における「ノモス」についての用法を解説しています(注12)。私が持っているものは、第二版で、1985年に出されており、NPが現われ始めた頃のものです。"'Law' in Romans"の最後の部分、脚注において、サンダースの"Paul, the Law and the Jewish People"(1983)も紹介されていますから、ブルースはそれらの文献にも当たった上で、この解説をまとめているはずです(注13)。内容的には、典型的なOPとしての見方を表わしているように見えますが、あるいは現われ始めたNPに対するブルースとしての応答として書かれたものなのかもしれません。

ブルースは、この解説文において、まず、5.(1)の課題、つまり、ノモスの語意の広がりに留意しながら、論を進めます。彼は、パウロにおいて「ノモス」の意味合いとして、頻度の少ない用法から頻度の多い用法へと、以下のように紹介します。

(1)一般的な法(4:15、5:13、7:1)
(2)原理・法則(3:27、7:21、23、25b、8:2)
(3)モーセ五書(3:21b)
(4)旧約聖書全体(3:19)
(5)神の法(Law of God)

これらはいずれも、ほぼ岩熊の辞典に記載される語意と重なりますが、差異を指摘することのできるものとして、(5)を挙げることができます。この意味合いについて、ブルースはまず、パウロが育った背景からは、「神の法」をモーセの律法と同一視することが自然だとします。実際、ローマ書の中でも明らかにモーセの律法を意味している箇所があることを指摘します。しかし、同時に、神の御心の啓示は、モーセ律法に限定されないことも指摘します。ユダヤ人も異邦人も神の御心を行うに失敗していることについては神の前に同じであることを議論する際、ユダヤ人がモーセ律法において神の御心の特別な啓示を持っていた一方で、異邦人は神の御心についてのすべての知識から排除されていないことを指摘していると言い、ローマ2:14、15を引用します。そして、3:20で「律法によって罪の自覚が生じる」とパウロが言うとき、ユダヤ人も異邦人も同様の原理で真理であるようなことを語っていると指摘します。また、同じ文脈で、律法の行いによっては人は神の前に義とされないと言うとき、このこともまたユダヤ人にも異邦人にも当てはまると指摘します。そして、「律法の行い」が明瞭な神の権威によって公表されたおきてに従ってなされたとしても、良心の命令によってなされたものだとしても、それらは人々が神に受け入れられる根拠とはならないと言います。(注14)

このようなブルースの見解は、確かにOP(古い視点)に立つものと言えるでしょう。新約学者として、彼はノモスの語意の広がりに留意しつつ、も、ローマ書における最も頻度の高い意味合いとしては、このような「神の法」を挙げています。そして、「神の法」としてのノモスは、モーセ律法を含みつつも、異邦人にも適用される広い意味での「神の法」であって、ローマ書の中でも義認論に関わる決定的な文脈においては、このような意味でのノモス用法を見い出していることが分かります。

ブルースが5.(2)の課題について、どのような解答を示しているのか、詳細を調べる余裕はありませんが、上記"'Law' in Romans"や、彼の注解書から考えてみると、以下のように要約することができそうです。

・ローマ3章において「ノモス」は義認との関わりで考えられる。ユダヤ人も異邦人も、「ノモス」(広い意味での「神の法」)によっては罪の自覚が生じるのみであり(ローマ3:20)、神の前では、律法(神の法)を行うことによっては義と認められ得ない。(ローマ3:28)

・ローマ6-8章において「ノモス」は、聖化との関わりで考えられる。「律法のもと」にあることが罪に支配されることに結び付けられ、「恵みのもと」にあることは罪の支配から自由にされるだけでなく、律法の束縛からも自由にされることだと指摘される(ローマ6:14)。律法からの自由がもたらされるのは、キリスト者がキリストと共に死んだからである(ローマ7章)。(注15)。「律法の要求が…満たされる」ことは、エレミヤ31:33に預言される新しい契約の成就であり、「肉によって」「律法の下で」(すなわち、束縛の古い時代の中で)なく、「霊によって」「恵みの下で」(すなわち、自由の新しい時代の中で)生きることによって、それがなされる(ローマ8:4)。(注16)

このように、「ノモス」(律法)は神の法であるゆえに「聖なるものであり」「正しく、かつ善なるもの」(ローマ7:12)であることにおいて、肯定されますが、義認においては、ノモスを行うことによっては義認に至らないことにおいて、聖化においてはノモスのもとにあることでは聖化に至らないことにおいて、否定されます。しかし、同時に、キリスト者はノモスのもとにでなく恵みのもとにあることにより、肉によらず霊によって生きることを通してノモスの要求が満たされることにおいて、肯定されます。

(2)Leon Morris

次に、Leon Morrisを取り上げます。私の手元にある"New Testament Thology"は、もともと1986年発行ですので、上記ブルースの注解書同様、NPが現われ始めた頃の発行です。第3章 'God's Saving Work in Christ'(キリストにおける神の救いのみわざ)の中で、'The Law'というタイトルの一節があります(注17)。脚注の中ではありますが、サンダースの"Paul and Palestinian Judaism"を取り上げ、8行にわたってサンダースの律法理解を検討しています。

「2.パウロにおける「律法」用例(概観)」でも、レオン・モリスの指摘を参照しながら、いくつかの点を書きましたが、'The Law'においては、新約学者らしく、まずはパウロのノモスの用例を概観するところから始めています。語意の広がりに留意しつつも、モリスは、以下のように指摘します。「ほとんど彼(パウロ)は、モーセを通して神が与えた律法を考えており、それを神のよい賜物と見ている」(注18)。

従って、ブルースのように、ノモスの基本的な用法として、ユダヤ人だけでなく異邦人にも及ぶものとしての広い意味での神の法という意味合いを考えるのではなく、あくまでも基本的にはモーセ律法のことを考えているのだというのが、モリスの判断です。

しかしながら、モリスは、次のように指摘します。「しかし、律法の位置を誤解することは容易であって、概してユダヤ人はまさにそうしてきたというのがパウロの論点である。ユダヤ教文書には神の恵みやゆるしについてのいくつかの美しい感動的な記述があるが、ユダヤ教文書はパウロのようには語っていない。彼らにとって律法を守ることは基本的なことであり、神の哀れみはその枠組みの中で機能する。ユダヤ人は律法を神が彼らに与えた偉大なよきものとして歓迎する。しかし、彼らは間違って律法を救いの道に引き上げた。」「そのような(律法についてのユダヤ人の)議論のゴールは、神の恵みの不思議さについての畏れではなく、律法に対する深い尊敬であって、その結果すべてのことがあまりに容易に律法主義へと堕落した。」(注19)

従って、ノモスについてのパウロの議論、特に否定的な議論は、律法主義的な考え方への反論として理解されることになります。以下展開されるモリスの主張は、要約すれば以下のようなものです。

・「律法の行い」によっては人は神の前に義とされないとパウロは主張する(ローマ3:20、ガラテヤ2:16、3:11)
・律法の機能は罪を明らかにすることである。
・律法は救いをもたらすのではなく、救いの必要を明らかに示す。
・律法は我々をキリストに導く。(ガラテヤ3:24)
・律法は我々に死をもたらす。(ローマ7:9‐10)

そして、'The Law'の節を次のように締めくくっています。「律法の道に対するユダヤ教の強調に対して、パウロは明らかに反対している。(中略)今や彼は恵みの道を知り、律法を敵として見ることしかできない。律法は救いをもたらすどころか、罪の同盟者である。人々は律法からの解放を必要としている。律法主義的メンタリティは、奴隷の身分である。」(注20)

ここでの議論を見る限り、モリスにおいては、パウロの律法についての(主に否定的な)議論を律法主義への反対という枠組みの中に位置付けていることが伺えます。

(3)まとめ

ここまで、ブルースとモリスの主張点を概観してきました。

パウロの「ノモス」用法を巡る釈義的課題の内、語意の広がりについての解答の与え方については、相違点のあることを確認しました。すなわち、パウロによるノモスの基本的用法として、ブルースが、ユダヤ人だけでなく異邦人に対しても適用される広い意味での神の法を考えるのに対して、モリスは、モーセを通してユダヤ人に与えられた律法、すなわちモーセ律法を考えるという点です。

しかしながら、もう一つの課題、すなわち、「ノモス」に対するパウロの肯定的及び否定的扱いをどう統一的に捉えるのか、という課題に対しては、ブルースとモリスの見解には重なるものがあります。すなわち、特にノモスに対するパウロの否定的な扱いについては、律法を行うことが(従来の意味での)義認や救いをもたらすとの考え方(律法主義)に対する否定として理解するという点です。ブルースの指摘の中には、律法のもとにあることによっては聖化にも至らないとの指摘も含まれており、このあたりについてのモリスの見方を確認することはできませんでしたが、いずれにしても、両者共に、OPに特徴的な見方を維持してることが伺えます。


6.E.P.サンダース

OPの中に考え方の多様性があるように、NPの中にも当然考え方の多様性があります。ただ、OPのOPたるゆえんに注目するとき、OPとしての考え方の特徴が見えてくるように、NPのNPたるゆえんに注目するとき、NPとしての考え方の特徴も見えてくると予想できます。

まずは、NPPのきっかけを作ったE.P.Sandersを取り上げます。

(1)サンダースはNPPと言えるか

いきなりですが、果たしてサンダースがNPPと言えるかという問題があるようです。

「1.NPPによる問題提起」でご紹介したように、従来のパウロ理解が1世紀ユダヤ教を律法主義として理解した上に成り立っていたのに対して、NPPは1世紀ユダヤ教が律法主義ではなく、covenantal nomismであるとの前提に立ち、パウロを理解しようとします。「もし一世紀ユダヤ教が律法主義ではなく契約規範主義であったのなら、これまでのパウロ理解、特にローマ書やガラテヤ書の解釈をもう一度問い直さなければならないのである。」(注21)

ここで、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismであると言い始めたのがE.P.Sandersです。しかも、彼自身、その視点に立って、パウロについての新たな理解を求める取り組みを続けているので、彼こそはNPPの元祖のような存在であると言えそうです。ところが、彼自身は、「自らは『パウロ研究の新しい視点』のグループではない、と主張している」そうです(注22)。確かに、サンダース自身が提起しているパウロ理解は、ダンやライトに比べると、かなりの違いがあり、そういったところから「・・・のグループではない」という主張に至ったのでしょう。あるいは、サンダースのパウロ理解の議論自体は、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismではないということを起点とした議論に必ずしもなっていないという点から、そう言っているのかもしれません。ただ、NPPの起点となったのが、1世紀ユダヤ教についてのサンダースの新たな理解であったのは間違いのないところであり、サンダース自身のパウロ理解も相当な内容を持っていることも事実であるので、ここに含めて検討することにします。

(2)covnantal nomismとの関わり

私の手元にあるのは、サンダースの代表的パウロ著作としては三冊目になる『パウロ』の邦訳です(注23)。一冊目の"Paul and Palestinian Judaism"(1977年)こそは、1世紀ユダヤ教を契約規範主義として描き出した最初の書物であり、本来は、"Paul and Palestinian Judaism"や二冊目の"Paul, the Law, and the Jewish People"により、パウロのノモス用法理解を検討すべきでしょうが、今回はこの二冊を踏まえて書かれ、よりコンパクトにまとめられている『パウロ』により、簡単な検討をします。

まず、注目すべきことは、『パウロ』には、covnantal nomismという言葉が出てきません。"Paul and Palestinian Judaism"はもちろん、"Paul, the Law, and the Jewish People"も、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismであるとの指摘をした上で、パウロ理解の問題に取り組んでいるようですが(注24)、本書『パウロ』には、この言葉が出てこないということは、注目すべきことです。本書の訳者の一人、太田修司によれば次のような解説が付されています。「『パウロとパレスチナのユダヤ教』と第二作、第三作を比べると、釈義が緻密になるのに応じて重点が多少移しかえられていることに気づく。このため、サンダースのパウロ解釈の枢要がどこにあるかは必ずしも明瞭ではないが、パウロの宗教をユダヤ教の契約的法規範主義とは根本的に異なる『参与論的終末論(participationist eschatology)』として特徴づける姿勢は最初から一貫して保たれており、ここにサンダースのパウロ論の要諦があると言ってよいであろう。」(注25)

『パウロ』の議論を見ても、covenantal nomismとしての1世紀ユダヤ教理解についてはほとんど触れられず、主にガラテヤ書及びローマ書により、「信仰による義とキリストにあること」の結びつきを論証した上で、パウロが律法をどのように扱い、理解したかを論証します。従って、ダンも指摘するように、「サンダースは、なおパウロが律法を破棄していると述べ、なおパウロがひとつの体系からもうひとつの体系へ気ままな飛躍をしていると述べている」ように見えます(注26)。サンダースにあっては、パウロの律法理解と1世紀ユダヤ教における律法理解を特別に関連付けて考える必要はほとんど感じていないように思われます。

しかしながら、後のダンやライトにあってはそうではなく、パウロの律法理解と1世紀ユダヤ教の在り方とは深いところで関わりあっていると理解されます。その前提としては、サンダースが主張したcovenantal nomismとしての1世紀ユダヤ教理解があります。幸い、『パウロ』の巻末には、太田修司により、サンダースが指摘したcovenantal nomismについて簡略な解説がなされていますので、ご紹介します。

「サンダースによれば、紀元前二〇〇年頃から紀元二〇〇年頃に至るパレスチナ・ユダヤ教の諸文書(ラビ文献、死海文書、旧約外典と偽典)から知られるユダヤ教に共通する累計は「契約法規範主義(covenantal nomism)として特徴づけられる(七五、二三六、四二二頁等)。これは『神の計画に占める人間の位置は[神とイスラエルの]契約に基づいて確立され、契約は人間の適切な応答として戒めへの従順を要求すると同時に、罪(違反)の贖いのための手段を提供する』という立場を指す。契約的法規範主義に含まれる諸要素としてサンダースは、(1)神によるイスラエルの選び、(2)律法の授与、(3)律法は選びの維持に関する神の約束を含意する、(4)律法は従順への要求を含意する、(5)神は従順に報い罪(違反)を罰する、(6)律法は贖罪の手段を提供する、(7)贖罪によって契約関係は維持ないし再確立される、(8)従順と贖罪と神の慈愛とによって契約のうちに留まる者はすべて救われる者たちの集団に属する、の八つを挙げている。」(注27)

ここには、選び、契約、律法、従順、報いと罰、贖罪の関係が扱われており、確かにユダヤ教の諸要素が総合的に取り扱われているように思われます。特に注目されるのは、律法への従順が神の選びと契約の枠内に位置付けられている点です。そういう意味では、covenantal nomismの訳語として多くの訳語が提案されていますが、私としては契約的律法主義とするのが一番シンプルで、内容を把握しやすくなるのではないかと思うのですが、どうでしょうか(注28)。

(3)「ノモス」に対する二つの釈義的課題について

次に、サンダースによるパウロのノモス用法についての理解の仕方を調べてみます。ここでも、4.で見たように、語彙の広がりの問題と、肯定的・否定的言及についての統一的理解の問題の二点から検討します。

まず、ノモスの語彙の広がりについて、『パウロ』では特段詳しく扱われている訳ではありません。ローマ7:21のように「法則」と訳されうる箇所(注29)等、例外的な用法があることを認めつつ、基本的にパウロのノモス用法はモーセ律法を意味することを大前提として議論が進められています。

次に、パウロのノモス用法は肯定、否定の両方の言及に用いられており、これらをどう統一的に理解するかという点については、『パウロ』においても随分苦心して取り扱われています。

先にご紹介しましたように、少なくとも『パウロ』の議論の展開を見る限り、サンダースにおけるパウロ理解は、「信仰による義」と「キリストにあること」との結びつきを核として理解している様子です。ガラテヤ書、ローマ書を中心に、「義とする」「義とされる」の用法と、「キリストにあること」との関わりがまず注目されます。「義」が法廷的意味合いを持つことが通例であることを認めつつ(注30)、そのような枠を越えた意味で用いられることのあることを指摘し、特に「義とされる」と受動態で用いられたときには、常に変えられること、あるいは一つの領域から別の領域に移されることを意味すると指摘します(注31)。こうして、パウロの思想の中心部分にあるのは、「新しい創造への参与によって実際に変えられること」であるとの指摘がなされます(注32)。

ガラテヤ書、ローマ書がこうした比較的一貫した視点から理解される一方、そこで扱われる律法についての言及をどう理解するかという課題については、サンダースも随分苦心して取り組んでいる印象を受けます。律法について集中的に取り扱う第9章冒頭には、サンダースが取り組んだ課題について以下のように記されます。「パウロが直面した根本的な神学的問題は、古いシステム(dispensation)と新しいシステム―その両方を彼は信じていた―をいかに調和させるかという問題であった。彼は律法を特にねじれた(さまざまに屈折した)仕方で取り扱った。この問題をもっと詳しく考えてみたい。」(注33)

この章で、サンダースはまず、パウロの律法に対する取り扱いを理解するための困難要因として、律法、特に割礼については、「状況に応じてさまざまに異なることを書いた」ことを挙げます(注34)。そして、「彼は、律法についての単一の神学を持たなかった。それは彼の思考の出発点ではなかった」と言います(注35)。その上で、律法が問題となる4つのコンテキストを挙げつつ、パウロが律法をどう取り扱ったのかを描き出します。

(1)神の民の成員の要件としての律法:このコンテキストでパウロは、律法について肯定的発言をする一方で(ローマ3:31)、きわめて否定的な発言をする(ローマ6:14、ガラテヤ3:19、ローマ3:20、4:15、5:20)。

(2)律法の要求する正しい行い:このコンテキストでパウロは律法に対して肯定的に発言し、ほとんど至る所で彼は、律法の要求する行いに同意している。

(3)律法の目的:律法を受けいれることが決して神の民となる要件でないとすれば(1)、神はなぜイスラエルに律法を与えたのか。このコンテキストでパウロは、人々を断罪するため(ガラテヤ3:19、ローマ3:20、4:15、5:20)という理由と、律法は善であるが罪の力のゆえ断罪が起こる(ローマ7章)という二元論的律法の説明との間を行き来するが、最終的には神の摂理の教理を固守するほうを選んだ(ローマ11:32)と、サンダースは説明する。

(4)古い律法のシステム(務め)と新しいキリストへの信仰のシステム(務め)の比較:このコンテキストでは律法は本来悪であるのではなく、新しいシステムに比較すると古いシステムが無価値だということである(第二コリント3章、ピリピ3:3-11)。(注36)

この内、コンテキスト(1)と(3)において、特に否定的発言として挙げられる箇所の中に重複があります。(1)と(3)は内容的に言っても、また実際に手紙で扱われる際にも、重なっていると言えそうです。要約的に言えば、神の民の成員となるための要件としては、キリストへの信仰があるだけで、律法を受けいれることには何の力もないとする点において、パウロは律法を否定するのであって、神がイスラエルの民に律法を与えられた目的も断罪により、キリストによって救うという究極の目的を果たすためとされます。ただ、律法の要求する行いについては、正しい行いとして肯定している、というのがサンダースの理解と言えそうです。


7.ジェイムズ.D.G.ダン

ダンは、1982年に"The New Perspective on Paul"というマンソン記念講演を行い、その内容が翌年発行された大学発行物に収められました(注37)。そして、これが'New Perspective on Paul'という呼称の発端となりました。この講演自体は、ガラテヤ2:16の釈義を中心として取り扱いながら、パウロ理解に新しい視点を提案するものでした。それは、サンダースが指摘したcovenantal nomismとしてのユダヤ教理解と、パウロの理解との間に、非連続性だけでなく連続性を見い出そうとする視点でした。ダンはそのような視点でガラテヤ2:16への釈義を試み、その視点の有効性を主張するのですが、その中心的部分で扱われたのが、この節に現われる三箇所の「律法の行い」の解釈と位置付けでした。その後、ダンはこの視点に基づき、関連する研究書と共に、ローマ書の注解書(1983年)(注38)、ガラテヤ書の注解書(1993年)(注39)、またその姉妹編としてのガラテヤ書の研究書(原著1993年)(注40)を出しました。

これらの書における、パウロのノモス用法についてのダンの理解について、詳細は別途、ブログにアップしていますので、詳細についてはそちらをご覧ください。

「J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/cd165a3f471a2e9804bb12e0b27be498

「ダンによるガラテヤ書の律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/b92ebd0ce82cbeaf2b567b831d755f4c

上記ブログ記事では、ローマ書とガラテヤ書におけるパウロのノモス用法について、ダンがどう理解しているか、かなり詳細にご紹介しています。これらを4.で挙げた二つの釈義的課題に即して、要約的にまとめておきます。

(1)ノモスの語意の広がりについて

ノモスの語意の広がりの課題について、ダンは一貫してトーラーとして理解すべきとする点で極めて特徴的です。この点について、たとえばローマ書注解の序文でも取り扱っています。トーラー及びノモスの語意の広がりの問題を扱いつつ、結論的には、パウロのノモス用法は、モーセ律法としてのトーラーと同一線上にあることが指摘されます(注41)。

例外としては、ローマ3:21(「律法と預言者」で旧約聖書全体をあらわす)、ガラテヤ4:21(トーラーではあるが、諸律法だけではなく、ナラティブも含み、モーセ五書としての理解に近い)くらいです。従来、「法則」「原理」と理解されることが多かったローマ3:27及び7:23、8:2においても、ダンは貫してノモスをトーラーと考えます。また、モーセ律法とは区別して理解されることの多かったガラテヤ6:2の律法(キリストの律法)についても、トーラーと理解した上で、ここに律法の成就としてのテーマを見ようとしています。

(2)ノモスに対する否定的及び肯定的言及について

(2-1)ガラテヤ書において

まず、ガラテヤ書におけるノモスについての否定的、及び肯定的言及については、次のような理解が示されます。大きく言えば、5章前半までと、5章後半以降とで、論点の差異を認めることができます。

(2-1-1)5章前半まで

5章前半まででは、まず、否定的言及が以下のような三つの論点を持っていると考えられます。

(1)パウロの非難は、「律法の行ない」が唯一の民としてのイスラエルの特殊性を維持するための義務という観点から捉えられていることに対して向けられる。(2:16、3:2、5、10)

この点は、まさに"The New Perspective on Paul"で取り上げられた点です。以下のように解説されます。「『律法の行ない』によって、パウロは割礼や食物規定のような律法の中の特定の項目を守ることを読者が考えることを意図していた」(注42)。そして、これらの行いは、「ユダヤ人にとっては自らのアイデンティティの印として特別に機能し、(略)ユダヤ人が特別な民族であることを示し、他と区別するための特別な儀式であった」と説明します(注43)。本来、トーラーの中で中心的位置を占めていなかったこれらの行為が、重要な役割を果たすようになったのは、マカベヤ時代以後であるとも指摘します(注44)。そして、「パウロが『律法の行ないによって義とされる』という可能性を否定したとき、パウロが攻撃していたのはまさにこのユダヤ教の基本的な自己理解であった」と主張します(注45)。

但し、注意したいのは、ここでの言及が2:16に3回現れる「律法の行ない」というフレーズについてのものだということです。同様の理解は、3:2、5、10に現れる「律法の行ない」のフレーズに対しても適用されます。しかし、ダンにおいては、「律法の行い」というフレーズで用いられる「ノモス」だけでなく、これら以降に現れる単独での「ノモス」についても、ほぼこれらの「律法の行ない」と一致する、あるいは重なると理解して議論が進められる場合が多くあります。たとえば、3:11に現れるノモスについては次のように言われます。「ここで『律法によって(において)』は明らかに『律法の行ないによって/から』の簡略形である。」(注46)

(2)パウロの非難は、「律法の行ない」に引き続き執着したり、律法の実行に頼ったりすることが、信仰の充足性を否定することに対して向けられている。(2:16、3:10)

この論点は、まず2:16において認められます。たとえば、2:16の「これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした」という目的節は、「ユダヤ人たちと異邦人たちが主イエス・キリストによって受け入れられるためにはキリストへの信仰で十分であったという事実は、ただ信仰のみで十分であるということ、および、キリスト教徒ユダヤ人たちに関しては、律法のわざに引き続いて執着することは不必要であり、かつ執着自体がキリストへの信仰の充足性を脅かす、ということを立証する」ものであると指摘しています(注47)。

また、3:10についてのコメントにも同様の論点が見られます。「この含蓄は明らかである。すなわち、それは、『律法の実行に頼る者』は信仰の充足性を見失ったということ(略)」(注48)。

ここでも、これらの箇所においては、「律法の行ない」についての論点であることに留意する必要があります。しかしながら、それら以降の議論に現れるノモスも、「律法の行ない」と一致または重なると理解される場合が多いため、同じ論点がそれらの箇所にも現れることは、論点(1)と同様です。

(3)更にパウロは、律法を終末論的区分の中で位置づける論点を加え、その「一時的役割」、「命を与えるという役割が全くないこと」を指摘し、黙示的転換前の古い時代に位置づけ(3:19-22、24、4:5)、にもかかわらず、律法のもとにとどまろうとすることは、「罪の下」にとどまることと関連付けられ(3:22、23)、(罪に似た)霊的勢力への隷属に逆戻りすることとして言及される(4:3、4:8-11)。

この論点は、多くの節にわたって複雑に展開されています。詳細は、以下のブログ記事を参照ください。注目点としては、論点(1)(2)と異なり、「律法の行ない」ではなく、律法そのものについての論点となっている点です。

「ダンによるガラテヤ書の律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/b92ebd0ce82cbeaf2b567b831d755f4c

また、上記3つの論点は、ある部分では混然一体となって現れる箇所もあります。たとえば、割礼問題を扱う5:1-12では、上記3つの論点が総合的に組み合わせれ、論じられています。

他方、5章前半まででは、一見、律法への肯定的言及がほとんどないように見受けられますが、その中でも、ダンは律法へのパウロの積極的理解を見出そうとしています。たとえば、上記否定的言及に関わる二つ目の論点は、裏を返せば、「律法の行ない」をイスラエルの特殊性を維持するための義務と捉えることをやめ、律法本来の役割に注目すれば、律法をより肯定的にとらえることが可能になることを示唆していると考えられます。また、三つ目の論点、終末論的区分の論点においても、必ずしも否定的な言及だけでなく、たとえば「養育係」という表現には肯定的な意味合いを見出しています(3:24)。

(2-1-2)5章後半以降

次に、5章後半以降では、否定的言及としては、霊と律法とがアンチテーゼとして扱われていることが指摘されます。たとえば、5:18についてのコメントでは、「『律法の下に』あるということは、成文法、或いはユダヤ人たちの民族的伝統、すなわち、慣習や宗規といった外的拘束によって決定された生活を生きることであった(3:23-25、4・1-2)。霊の下にいるということは、内的要求と強制によって取って代わられた外的拘束からの自由を知ることである」と言います(注49)

他方、5:13-15及び6:2では、律法が肯定的に言及されます。「霊の内的な強制は、キリストという外的な規範に従って表現され、またその基準に照らして評価された」。そして、「その最も際立った特徴は、パウロが『キリストの律法』と称しているもの、および隣人愛において要約されている」と言います(注50)。ダンはここに、「律法の成就」というテーマがパウロによって表明されていると見ています。「最も驚くべきことは、ローマ13:8-10、15:1-2とガラテヤ5:14、6:2の並行関係である。とりわけ、律法の『成就』という共通テーマがあることに注意せよ。」(注51)

(2-2)ローマ書において

次に、ローマ書ですが、ダンは以下のような理解を示しています。ここでも、大まかに言えば、2-4章及び9-10章についての論点は共通のものがあり、5-8章及び13章での論点も共通のものがあるように思われます。詳細は、以下のブログ投稿をご覧ください。

「J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/cd165a3f471a2e9804bb12e0b27be498

(2-2-1)2-4章及び9-10章

まず、2-4章での律法に関するパウロの理解についてのダンの論点は、ローマ2:1-3:8の序論部分に記された以下の一文に要約されるでしょう。「パウロのポイントは、律法は神によって設けられた普遍的標準としての機能を許容されなければならず、ユダヤ人を異邦人から区別するアイデンティティ・マーカーのレベルに縮小されてはならず、『私達』ユダヤ人を『彼ら』異邦人から区別する割礼のような儀式によってあまりにも表面的に特徴づけられてはならないということである。」(注52)。この一文によれば、パウロが律法を肯定するのは、「神によって設けられた普遍的標準としての機能」のゆえであり、他方律法に対して否定的に言及するのは、「ユダヤ人を異邦人から区別するアイデンティティ・マーカーのレベルに縮小されてはならない」という点だということになります。

ここで特に、律法に対する否定的言及についての論点は、パウロが律法を扱う基本的文脈について、ダンが次のように理解していることと関わっています。まず、ダンはユダヤ人の律法理解の原点を基本的にCovenantal nomismとして理解します。但し、ダンにおいて、そのことはイスラエル民族の創設行為において自明であったのであって、パウロの議論の歴史的文脈としては、むしろ捕囚期後のいわば変質が問題とされていると言えそうです。すなわち、捕囚期後、選び、契約、律法の結びつきが基本的テーマとなり、律法は神の民として選ばれた者たちとしてのイスラエルの「特異性」の表現となります。更には、そのことが選ばれた民としての特権意識をもたらし、特にイスラエル律法のうち三つのもの―割礼、食物規定、安息日―が注目を得ることにもなります。これがローマ書においてパウロが律法を扱う文脈であって、パウロはこの手紙において約束と律法の両方を民族的束縛から自由にしようとしたのだ、というのがダンの理解の基本線となります。(注53)従って、特に「律法の行ない」というフレーズについては、ガラテヤ書で見たのと同様の論点が発生することになります。(3:20、28)

関連する論点として注目されるもう一つの点は、翻訳聖書では見逃されやすい、「行い」の単数・複数です。2:15「ト・エルゴン・トュー・ノムー」(律法の行い・働き(単数))は、心に起こっているものであり、律法本来の働きであると言えます。他方、「(タ・)エルガ・(トュー・)ノムー」(律法の行い(複数形))は、常に否定的に用いられており、外的で深みにかけたものとして理解されます(3:20、28、ガラテヤ2:16、3:2、5、10)(注54)

なお、2-4章にも、9-10章にも、ユダヤ人のアイデンティティ・マーカーとしての外的行いと結びついた律法(行いの律法)と、義を定義する標準として、信仰の従順との関わりで理解された律法(信仰の律法)との対比が現れているとの指摘は注目すべきところです(3:27、9:31-32)。

(2-2-2)5‐8章及び13章

これに対して、5-8章では、律法が罪と死の働きと一緒になって働くように見えるという課題を取り上げながら、実は律法そのものが悪いのではなく、罪が真犯人であることをパウロは明らかにします。たとえば、律法の果たす役割についてパウロは7章でまとめており、ダンは次のように要約します。「彼は律法を誤解から守ろうとするが(7:7-14)、なおより鮮明な主張をなし、律法が罪と死の働きにおける作用因となるのを神がいかにゆるされたかを示す(7:21-23、8:2)。」(注55)従って、ここでパウロが律法を否定的に言及するのは、律法が罪と死によって利用されており、死に至らせる罪の道具となっているという点であり、しかしながら肯定的に言及するのは、問題の真犯人が罪であって律法自体が悪いのではなく、本来的には良いものであるという点です。

ここでは、罪の道具となって働く「罪の律法」(7:23、25)と、内なる人として願わしく考えられる「心の律法」(7:23)、更に「心の律法」をその無能から解放する「御霊の律法」(8:2)とが対比されているのも注目すべきでしょう。そして、「心の律法」「御霊の律法」は、愛による律法の成就を歌う13:8-10につながっていると見ることができます。

なお、以上のようなローマ書及びガラテヤ書におけるダンの解説を、更にまとめてみることも価値ある試みとなることでしょう。ただ、両者をどうまとめるかは、必ずしも容易なことではなく、ダン自身によるまとめでない限り、ダンの見解をゆがめる恐れもあると感じます。ここでは、このままで置いておくことに致します。

(続く)


(注1)鎌野直人「パウロ研究の新しい視点:肯定的な見地から」(日本福音主義神学会西部部会2012年度秋季研究会議資料より、1、7頁)
この資料は以下のPDFファイルに含まれる。(PDFファイルの26-32頁目部分)
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_west/20121119_jets-w_NPP_all.pdf

(注2)岩上敬人「ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点」(日本福音主義神学会東部部会2014年度春の研究会発題資料より)

(注3)岩上敬人上掲資料、2頁

(注4)『聖書語句大辞典』(教文館、1959年、1447-1449頁)

(注5)"The International Standard Encyclopedia, Vol.3" p.76

(注6)岩隈直『新約ギリシヤ語辞典』(山本書店、1993年、319頁)。なお、Bauer "A Greek-English lexicon of the New Testament and other early Christian literature" The University of Chicago Press,1979においても、基本的に同様の用例分類が提示される。

(注7)Leon Morris "New Testament Theology" Zondervan,1986, Paperback Edition 1990, p.59

(注8)George V. Wigram "The Englishman's Greek Concordance"Baker,1979,p.517-518

(注9)Leon Morris上掲書、p.60

(注10)F. F. Bruce "The Tyndale New Testament Commntaries: The Letter of Paul to the Romans -Snd ed.-" Eerdmans, 1985, p50

(注11)F. F. Bruce 上掲書、p52-56.

(注12)F. F. Bruce 上掲書、p50-56.

(注13)F. F. Bruce 上掲書、p56.

(注14)F. F. Bruce 上掲書、p52-53.
 
(注15)F. F. Bruce 上掲書、p135-137.

(注16)F. F. Bruce 上掲書、p153.

(注17)Leon Morris "New Testament Theology" Zondervan,1986, Paperback Edition 1990, p59-62.

(注18)Leon Morris上掲書、p.60

(注19)Leon Morris上掲書、p.60

(注20)Leon Morris上掲書、p.61

(注21)岩上敬人「ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点」(日本福音主義神学会東部部会2014年度春の研究会発題資料より)

(注22)鎌野直人「パウロ研究の新しい視点:肯定的な見地から」(日本福音主義神学会西部部会2012年度秋季研究会議資料、4頁、脚注9)

(注23)E.P.サンダース『パウロ』(教文館、初版2002年、改版2008年)原著は"Paul" Oxford University Press,1991.

(注24)ジェームズ・D・G・ダン『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986年、56‐57頁)

(注25)サンダース上掲書、271頁

(注26)ダン上掲書、57頁

(注27)サンダース上掲書、272頁

(注28)サンダース上掲書では、改版に際し、covenantal nomismの訳語を「契約規範主義」から「契約的法規範主義」に改めたそうです(284頁)。また、翻訳者の一人、土岐健治は、訳語として「契約・法主義」を提案しています。「契約律法主義」という言い方を避ける理由は、『初期ユダヤ教と聖書』(日本基督教団出版局、1994年)を参照とのことです(287頁)。これに限らず、covenantal nomismの後半の言葉、nomismの訳語として「律法主義」が避けられているのは、「律法主義」という言葉が救済論などとの関わりで特定の考え方を表す用語として定着してしまっていることが背景に挙げられると思います。ただ、ここでのnomismは、モーセ律法についての考え方を表現するわけですから、「規範主義」「法規範主義」「法主義」といった訳語では、その意味合いからかえって遠ざかってしまうようにも思えます。救済論上の「律法主義」とは区別しつつ、モーセ律法との関わりを示唆するためには、「『契約的律法』主義」「『契約内律法』主義」あたりがよいのではないかと思いますが、ただでさえ多くなっている訳語の種類を更に増やすことにもなりますので、本論考では、引用部分以外ではcovenantal nomismのままで表示することにします。

(注29)サンダース上掲書、100頁(259頁、訳注6も参照)

(注30)サンダース上掲書、96頁

(注31)サンダース上掲書、96‐99頁、138‐139頁

(注32)サンダース上掲書、151頁

(注33)サンダース上掲書、170‐171頁

(注34)サンダース上掲書、171頁

(注35)以上、律法に関する4つのコンテキストは、サンダース上掲書、172-199頁

(注36)サンダース上掲書、171頁

(注37)邦訳は、『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986年)に「パウロ研究の新しい視点」として所収。

(注38)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans" Word,1988

(注39)James D.G.Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans" Baker Academic, 1993

(注40)J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』(新教出版社、1998年)、原著は1993年発行。

(注41)Dunn"Word Biblical Commentary Romans"(1-8)、Preface17

(注42)ダン『新約学の新しい視点』65頁

(注43)ダン上掲書66頁

(注44)ダン上掲書67頁

(注45)ダン上掲書70頁

(注46)ダン『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』104頁

(注47)Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"、174頁

(注48)ダン上掲書、110-111頁

(注49)ダン上掲書、139頁

(注50)ダン上掲書、149-150頁

(注51)Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"、323頁

(注52)Dunn"Word Biblical Commentary Romans"(1-8)、p77

(注53)Dunn上掲書(1-8)、Intro.p63‐72参照

(注54)Dunn上掲書(1-8)、p100

(注55)Dunn上掲書(1-8)、p365


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