長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

N.T.ライトによるガラテヤ書における律法理解

2018-01-22 20:57:14 | 神学

近年のパウロ研究に大きな影響を与えているNPP(パウロ研究についての新しい視点)と呼ばれる見方があります。この見方では、パウロの律法理解をどう考えるかというポイントが大切な問題となります。NPPの立場でパウロ研究に取り組んでいるとされる学者としては、J.D.G.ダンとN.T.ライトが有名です。ダンについては、ローマ書及びガラテヤ書におけるパウロの律法理解については既にまとめました(注1)。続いて、ライトによるパウロの律法理解への見方を調べます。まずは、ガラテヤ書からです。


1.参考書籍

ライトはまだガラテヤ書の注解書を出していないため、以下の二冊の本を参照します。

"Paul: in Fresh Perspective" Fortress Press, 2005

"The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology" Fortress Press, 1992

両書は、いずれもパウロに関する研究書ですが、少し性質が違っています。

"Paul: in Fresh Perspective"は、ケンブリッジ大学での講義をもとに編集したもので、内容的には、"What St. Paul Really Said"(注2)で扱われた諸テーマを別の角度から発展させたものとなっています。当然ながら、その時点で刊行済みの"The Climax of the Covenant"(注3)、及び"The Commentary on Romans in the New Interpreter's Bible vol.9"(注4)が踏まえられています。(注5)

"The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology"は、 パウロ関係のライトの著作の中で最初期のものです。それまでに、様々な形で発表されていたパウロに関する釈義的な研究成果を、一つの視点でまとめ上げたものと言えます。その視点は、序文の以下の一文に表わされています。「本書のタイトル全体は、私の次のような確信を反映しており、その確信はますます大きくなっている。すなわち、契約の神学はパウロを理解するために通常無視されているが、主要な鍵の一つであるということ、また、彼の書簡において多くの点で―そのいくつかは本書で議論されているが―イエスと律法について彼が語っていることは、イスラエルの神の契約的目的がイエスの死と復活の出来事においてそのクライマックス的瞬間に達したという彼の信仰を反映しているということである。」(注6)

ですから、前者はパウロ研究全体についての講義をもとに書かれており、従って、釈義的論点が詳述されているわけではありません。ガラテヤ書における律法理解についても、ごく簡単に、総括的に扱われているだけです。それでも、ガラテヤ書における律法理解で鍵となるべき2:11-21が扱われていますので、まずはそこでの律法理解について確認することにします。

次に、後者は上記のような特定の視点で編集されているものの、釈義上の諸研究を扱う内容です。特にガラテヤ書3:10-14及び3:15-20については、それぞれ独立した章が立てられ、かなり詳しく釈義的な観点での議論が展開されています。その中から、律法理解に直接関わる論点を確認することにします。


2.2:11-21

先に書きましたように、"Paul: in Fresh Perspective"は、大学での講義がもとになっており、パウロに関して一定の視点からまとめ上げたものと言えます。ですから、ガラテヤ2:11-21についての言及がどのような文脈の中でなされているのかを、まず確認します。

当該の箇所は、第6章「神の民を改訂する(Reworking God's People)」の第3節「イエスを巡る選びの再形成(Election Reshaped around Jesus)」の中に現われます。ライトは、ローマ9:4において「パウロがイスラエルの選びを再確認した」と指摘しつつ、「しかし、選びは再定義されもした。始めるべき明確な場所はガラテヤ書である」と言って、まずはガラテヤ2:11-21を取り上げています。

ライトはまず、この部分で取り組まれている課題を次のように指摘します。「ガラテヤ2:11-21で、パウロはアンテオケでのパウロとペテロとの間の決定的問題に戻っている。実際問題において、神の民のメンバーであるとは何を意味するのか。(中略)ペテロは、彼自身を無割礼の信者たちから引き離すことにより、以下のことを示唆している。すなわち、もし彼らが神の民に属したいなら、彼らは割礼を受けることを通して民族的ユダヤ人のアイデンティティを自らに引き受けなければならないと。」

その上で、ライトは、2:15-16について、以下のように指摘します。「そこで、信仰義認についてのパウロの教義の最初の言述が続く。誹謗者たちのかん高い合唱にもかかわらず、それはここでは明らかに『神の民が再定義される方法』について言及している。」

そう言いながら、ライトは2:15-16の私訳を紹介します。「私たちは生れながらのユダヤ人であって<罪人なる異邦人>ではないが、私たちは次のことを知っている。人はトーラーの行いによらず、メシアなるイエスの真実によって義とされる。それゆえ私たちもまたメシア、イエスを信じたのであり、その結果、トーラーの行いによってではなく、メシアの真実によって義とされた。なぜなら、トーラーの行いによってはどの人も義とされることがないからだ。」

この箇所についてライトは三つの点を指摘します。第一は、「ピスティス・クリストゥー」を「メシアの真実」と訳したこと。第二は、「義とされる」の意味をクリスチャンになる方法についての言及でなく、「誰が神の民に属するか、それを現在どのように語り得るか」ということについての言及として見るべきであること。そして、第三が、「律法の行い」についての以下のような指摘です。

「三番目に、ここでの『トーラーの行い』のポイントは、あなたが神の民のメンバーと『なる』ためにしなければならないと誰かが考える行いについてのことではなく、あなたが神の民のメンバー『であると示す』ためにしなければならない行いについてのことである。これらの行いは、詩篇143:2が示すように、ポイントを外しているとパウロは言う。それは、ある面、誰もそれらを適切に行う者はいないからであり、またある面、あちらこちらでトーラーの行いが造りだすのは、よくても民族的ユダヤ主義の延長としての家族に過ぎず、神が求められるのは全民族の家族だからである。このポイントはガラテヤ3章で繰り返し強調される。」(注7)

従って、ライトは、ここで「律法の行い」について、以下のような指摘をしていることになります。

・「律法の行い」は「トーラーの行い」と訳されるべきである。
・「トーラーの行い」は、神の民のメンバー「であると示す」ためにしなければならないと考えられた行いである。
・しかし、パウロは神の民のメンバー「であると示す」のは、このような「トーラーの行い」であることを否定した。
・その理由の一つは、「トーラーの行い」を誰も適切に行う者がいないからである。
・もう一つの理由は、「トーラーの行い」が造りだすのは、民族的ユダヤ主義の延長としての家族に過ぎないからである。


3.3:10-14

"The Climax of the Covenant"は、ガラテヤ書の内、3:10-14(第7章)と、続く3:15-20(第8章)を扱っています。

この内、3:10-14を扱う第7章「のろいと契約」は、本書全体の第二部「パウロと律法」の冒頭に置かれます。パウロにおける律法理解を考える上で、ライトはこの箇所を最も基本的な点を示唆する箇所と位置づけているように思われます。

(1)Galatians 3: Introduction

まず、"introduction"においては、ガラテヤ書のこの箇所が「契約」のテーマと深い関わりを持つことを指摘します。「私がここで議論したい基本的な論点は、パウロの契約的主題の利用にかかっており、特に申命記と創世記についての彼の解説の中に見出される。(中略)第一に章全体は創世記15章についての延長された議論と見られるべきである。これはユダヤ人の聖書において最も偉大な契約的章の一つであり、イスラエルの神がアブラハムとその家族、彼の『子孫』といかにして最初の、また基本的な契約を結ぶようになったかを描いている。(中略)第二に、ここでパウロが『のろい』用語を使用していることは、まさにこの契約的解説全体に属することである。なぜなら、そのことはもう一つの偉大な契約的節の一つである申命記27-28章より来ているからである。」(注8)

ライトは特に、申命記27-30章との関わりを重要視します。「それ(申命記27章)はモアブでの契約締結を描き、実際締結しているように見える。その契約は祝福とのろいを提供している。(中略)申命記はイスラエルが実際決定的に悪い選択をし、その結果、最悪ののろい、すなわち捕囚を受けるようになるであろうと言う(申命記28:15-29:29)。しかし、それは物語あるいは契約の最後ではない。その後申命記30章は契約の失敗のもう一つの面である望み、すなわち契約更新、捕囚後の人々の再集結、心の割礼、『あなたの近くにあり、あなたの唇に、またあなたの心にある』言葉についての望みを提供する(30:1-14)。言い換えれば、申命記27-30章は、捕囚と回復についてのことであり、それは契約的裁きと契約的更新として理解される。私が示唆したいのは、このことがガラテヤ3:10-14自体を、またこの箇所と章の残りの部分との関連を理解するための基本的文脈であるということである。」(注9)

(2)The Starting Point

続く"The Starting Point"という節では、まず、ガラテヤ3:10-14と、その前にある3:6-9との関わりを考察します。「このことは次のことを意味する。すなわち、9節との関わりは、単に『これは更に、トーラーの行いが家族に入ることを提供しえないという事実によって証明される』ということではなく、『これは更にトーラーの行いが祝福をもたらすどころか、替わりにのろいを提供するという事実によって証明される』というものである。」(注10)

ここでライトは、二つの理解を退けた上で、自らの理解を提示しています。「これは単に聖なる律法によって罪を指摘された罪人の苦境以上のものであり、また、民族主義のわなに捕えられたイスラエルの苦境以上のものである。」(なお、後者の理解は、注釈によってダンによるものであることが紹介されています。)(注11)

この後、アブラハムへの約束がトーラーによって無にされたように見える問題を扱いながら、メシアの死によってこの問題が取り扱われ、契約がメシアの死においてクライマックスに達したことを指摘します。そしてそのことがこの節の最後(14節)に結びついていると言います。その上で、ライトはこの節全体でのパウロの議論を次のように要約しています。「ともかくも、パウロの議論は次のように進んでいる。神はアブラハムに全世界のために意図された祝福を約束した。トーラーは祝福がその到達点に達するのを妨げたように見えた。キリストの死がこの問題を解決し、今や祝福が確かにその到達点に達することができる。」(注12)

(3)The Curse: 3.10

(1)(2)において、節全体の背景、文脈についてのライトに見方が示されましたが、いよいよ各節の検討に進みます。まず、3:10ですが、この節についての諸見解を示したうえで、ライトは一つの問題を提示します。「ここでの問題は―それはこのような読み方のいずれに対しても問題となることであるが―通常次のようなものである。パウロは全律法を守る者がないとどのように知るのか。彼は自分自身、トーラーのもとでの義に関して非がないと言わなかっただろうか(ピリピ3章)。もし彼が非ありとされるなら、律法自体の中に救済策がなかっただろうか。一方では悔い改めの救済策、他方では全犠牲システムである。」(注13)

自らが立てたこのような問題設定に対して、「パウロがここで言及している諸節についての契約神学、特に申命記の諸節における契約神学が一つの解答を与える。」と言います(注14)。「申命記27-30章においてイスラエルは祝福とのろいについて警告され、更に自らのかたくなな心と意志的不従順により、のろいを受けるであろうと警告される。『申命記自体におけるこの節において提供される』このための救済策は、悔改め、犠牲、贖いといった通常のユダヤ教のスキームでは『ない』。それは、旧約聖書の多くの巻がイスラエルの歴史において実行されたと見ているスキームであって、捕囚と回復、裁きと憐みについてのスキームである。(中略)言い換えれば、考えられているのは『この個人やあの個人が罪を犯した時』起こることについての問題ではなく、『民族全体がトーラー全体を守らない時』起こることについての問題である。」(注15)

そのようにライトはこの節でのパウロの議論を次のように分析します。「それゆえ本質的議論は次のように分析されると示唆したい。
a.トーラーを奉ずるすべての者は、イスラエルの民族的生活様式を奉ずるようになる。
b.民族としてのイスラエルは、歴史的にのろいを被ってきた。それはイスラエルがもしトーラーを守らなければトーラーがイスラエルに提供するものである。
c.それゆえトーラーを奉じる者は今やこののろいのもとにある。」(注16)


(4)Habakuku and Levitics: 3.11-12

続く3:11では、まず11bにおけるハバクク2:4の引用についてライトの見方が示されます。「パウロの釈義は(中略)ハバククにおいても中心的であったものに焦点を置き、これを自分自身の時代に再適用している。ハバククはイスラエルの差し迫った破滅に直面し、契約共同体が信仰の言葉で再定義されているのを見ていた。」(注17)

その上で、11aについては次のように指摘します。「パウロはこうして契約共同体のハバククの再定義をアブラハムの原初の約束に結び付け、それによって11a『トーラーに基づいては誰も契約共同体の内にあるとは見なされない』と議論する。(私はここで議論のあるポイントを前提としており、ディカイオイ用語は『契約の内にあるメンバーシップ』との関連で最もよく表わされる。)」(注18)

3:12については、まず次のように指摘します。「12節は、同じポイントの消極的確認を提供するものである。すなわち、トーラーは契約的祝福が見出される場所ではありえない。創世記15章とハバクク2章は共に神の意図的契約メンバーシップが信仰によって見分けられることを明らかにしており、これらの箇所によればトーラーは『行うこと』を土台とする契約的『命』を提供するものであるゆえそれ自体で信仰の手段ではありえず、従って命の手段ではありえない。」(注19)従って、この箇所においては、ライトも律法と信仰の対比を受け入れているように見えます。すなわち、
・トーラー→行う→命×
・信仰→命
という対比が示唆されています。

ここでライトは、レビ記18:5がローマ10:5でも引用されており、両者におけるレビ18:5の引用趣旨が違っているように思われる点を指摘します。「そこ(ローマ10:5)では律法を『行うこと』は、(ローマ10:6以降において)信仰そのものとの関連で解釈されていると私は信じる。逆に、ここ(ガラテヤ3:12)ではそれを信仰に反するものと位置づけているように思われる。」この問題について、ライトは次のような回答を示します。「ローマ10章では、パウロは次のことを示している。すなわち、『新しい』契約においては、律法が要求する『行うこと』さえ信仰において取り上げられ、逆説的に成就される。(略)しかし、ここでは、トーラーそれ自体の枠組みの中で、ハバククは次のように言う。すなわち、契約的メンバーシップはトーラーによって区別されるのでない。なぜなら、それは『律法を行うこと』を契約的境界のしるしとして位置づけ、それゆえそれは究極的に契約が民族によって決定づけられることを意味する。それゆえ、レビ記は、歴史的にモーセのディスペンセーションの一部とみなされるが、ハバククによって相対化される。ローマ書においてパウロはこの相対化がより大きな包括的一致性の究極的働きの内にあることを示すことに向かいうるのではあるが。」(注20)

従って、ライトもこの節において、律法と信仰の対比を受け入れていますが、それは創世記15章とハバクク2章からの議論としてであって、同じレビ18:5を引用するローマ10:5では、律法を行うことと信仰とは対比的にではなく、包括的一致として描かれているとの指摘を付加しています。

(5)The Cross: 3:13

当然のことながら、この節についてもライトは、単に一般的な贖いを提示するものとしては捉えず、アブラハムとの契約との関わりの中で理解しようとします。そして、その中で律法の働きを位置づけようとします。

まず、前節の結論から、次のような直接的問題が現れることを指摘します。「アブラハムへの契約的約束があるとすれば、トーラーの光の中でそれらの約束に対して何が起こるであろうか。」そして、この節においては次のようなことが指摘されると言います。「ここで彼(パウロ)は、単に律法が祝福でなくのろいをもたらすという事実だけに集中する。」その上で、問題を次のように提示し直しています。「それでは、アブラハムの祝福は(トーラーによって囲まれ、脅かされている)ユダヤ人、あるいは、(約束された祝福がそれゆえ自分のところにまで届かない)異邦人にどのようにして到来するのか。」(注21)

そして、その解答の焦点に「メシアの死」が置かれます。(「解答はまさにメシアの死に見出される。」)「彼(パウロ)はここでユダヤ人にも異邦人にも等しく、また同じ仕方で適用可能な贖罪論の一般的言述をしようとしているのではない。キリストは、代表者としてのメシアとして、特殊な任務を達成した。その任務とは、イスラエルに差し迫るのろい、一方ではイスラエルがアブラハムの子孫の中にある十分なメンバーシップを享受することを妨げ、他方ではアブラハムの祝福が異邦人に流れ出すことを妨げるのろいを、自分自身の上に引き受けるという任務である。メシアは律法ののろいのもとにある(4:4を見よ)という、イスラエルのおる場所に来た。それは、イスラエルの代表となるためだけでなく、イスラエルの『贖う』代表となるためでもある。申命記の枠組みにおいては、もしイスラエルが律法ののろいを受けるなら必要とするであろうものは、キリストにおいて備えられる。捕囚と回復のパターンは彼の死と復活において実演される。彼はイスラエル『である』。律法ののろいの下に死にくだり、新しい契約の命に向かってそののろいを通り抜けたのである。」(注22)

このような見方は、集団的キリスト論との関わりで提示されます。また、このような文脈理解の中で、一人称複数の使用が理解されるべきことを主張します。

この節の最後は次のように締め括られます。「少なくとも、もしパウロの十字架の神学に入り込む方法としてこの節を強調しようとするなら、その方法は神のイスラエルとの契約のテーマを通して、また、イスラエルの油注がれた代表者の死におけるその契約のクライマックスを通してでなければならない。」(注23)「契約のクライマックス」は、本書のタイトルでもあり、キリストの死を神のイスラエルとの契約のクライマックスとして見ようとするライトの見方は、本書の中核をなしていると言えそうです。

「キリストは…律法ののろいからあがない出して下さった」という表現から見ると、この箇所では一見、律法が極めて否定的に取り上げられているように見えます。しかし、ライトは、申命記27-30章を背景にしながら、律法によるのろいを通り抜けて回復、命へという線を見ようとしています。神の契約がキリストの死においてクライマックスに達するために、律法(トーラー)が重要な役割を果たしていることをライトは強調しています。

なお、ライトは、この節でユダヤ人の問題と異邦人の問題の両方が取り上げられていることを認めますが、「同じ仕方で適用可能な贖罪論の一般的言述をしようとしているのではない」とも言います。すなわち、ユダヤ人の問題と異邦人の問題を区別しつつ、その両方がメシアの死において解答を備えられていることを見ています。

(6)The Result: Blessing and Spirit(3.14)

この節は、前節に記されたキリストの死に関する言述を受けて、そのことの目的を記します。ここには、特に律法への言及があるわけではありませんが、ライトがそれ以前からの文脈を受けて、この節をどう理解しているかは、ライトの釈義的理解を知るためには大切ですので、簡単にでもポイントを挙げておきます。

まずライトは、この節がパウロのこれまでの論議の流れを正確に受け継いでいることを示唆しながら、これまでの議論の流れを確認します。「一方で10-11節で提示された基本的な問題(祝福はいかにして異邦人に到達するのか)が扱われてきた。他方、二次的な問題がある。このすべてのことにおいて、またそれらを通して、ユダヤ人に何が起こるのか。」(注24)ライトは、14節がこれらの課題に答えを与えていると示唆します。すなわち、14節前半が前者の問題に答えを与えるものであり、14節後半が後者の問題に答えを与えるものであると言います。

ライトは14節後半の聖霊についてのパウロの言及についても、まず契約の枠組みの中でとらえます。「従って御霊についての言及は単に宗教経験の新しい次元についての暗示というだけでなく、より正確には契約が更新され、捕囚からの回復が開始されたという示唆である。」

ここで14節後半の「わたしたち」の問題について、次のように言います。「今回、『わたしたち』は包括的であり、『わたしたちクリスチャンすべて』を意味するということは十分ありえるということは認められる。その場合には、それは3:2、5を反映しているだけだということになる。しかし、私にはそれが排除的であって『わたしたちユダヤ人クリスチャン』を意味するということのほうがよりありえる。」(注25)ライトとしては、13節がユダヤ人に関わる言及であって、13節の「わたしたち」がユダヤ人をさしていることとの連続性を重視しているようです。

なお、14節後半についてのこのような見方解は、ダンの見解とは違っています。ダンは、この部分について以下のように言います。「以前、分離されていたユダヤ人と異邦人は、信仰によって約束の霊を受けた(ユダヤ人たちと異邦人たちの双方を含む)『われわれ』となった」(注26)。

(7)Conclusion

ライトは、3:10-14についての検討を踏まえ、この節の結論を次のように要約します。「トーラーは、イスラエルにとってのろいをもたらす。なぜなら、イスラエルがそれを守らなかったからである。(略)のろいの結果は、アブラハムに約束され、その子孫を通して起こる祝福があたかもその到達点に達しないように見えるというものである。加えて、旧約聖書自体の視点より、トーラーが契約の家族を区別するという明白な任務を果たし得ないと考えられるとパウロは論じる。創世記とハバクク書は、レビ記と申命記に沿って読まれるなら、神が初めから違った区分ラインを提示されたことを示唆しており、それはすなわち信仰である。こうして、まさにイスラエルの運命をご自分に引き受けるメシアとして、イエスの死は、歴史的には申命記27-28章ののろいのクライマックス点であり、従って『神学的には』単にいくつかの証拠聖句の成就というのでなく、イスラエルの逆説的歴史全体の成就である。(略)イエスの死は契約の民を覆っていたのろいをついに使い尽くし、その結果、アブラハムの祝福がついに異邦人とユダヤ人の両方に及ぶ。そして、異邦人とユダヤ人両方の、新しい契約の家族の区分するしるしはもちろん、まさに信仰である。その信仰は、まずアブラハムの信仰であり、ハバククが裁きと回復の時に神の民を定義するしるしとして指摘する信仰である。」(注27)

(8)3:10-14のまとめ

3:10-14におけるライトの律法理解をまとめてみます。ここでのライトの律法理解の特色は、申命記27-30章を背景にしながら、律法ののろいとともに、それを通っての回復、命というテーマをベースに律法を考えようとしている点にあります。ここでは、律法は、否定的言及につながりつつも、キリストの死による解決を通して、契約の成就のために逆説的に一定の役割を果たすという肯定的一面が強調されています。この点は、ダンの理解の中にはあまり見出すことができない論点と思われます。

但し、ライトはこの論点だけで律法を説明しているわけではないことも見ておく必要があります。これは、特に3:11-12で、信仰と律法が対比されていること、3:14には「アブラハムの受けた祝福が…異邦人に及ぶため」という一文があること等を考慮しているためと思われます。これらの箇所についての言及の中には、信仰が命に至らせるのに対して律法が命に至らせることがないという論点が見出されます。また、この論点に関連して、ユダヤ人と異邦人を区別するものとしての役割を果たして来た律法の役割が相対化されたことへの指摘も見出されます。この点は、ダンの理解との連続性を感じさせるところです。

しかし、この箇所に対するライトの見方の特色は、やはり契約神学を背景として、ユダヤ人の課題に焦点を置こうとするところにあると言えます。アブラハムの祝福がユダヤ人だけでなく異邦人にも及んだことを視野に入れつつも、なおライトの見方の焦点はユダヤ人が置かれた歴史的状況にあると言ってもよいと思います。そのことは、上で見たように、14節後半の「われわれ」についてのダンとライトの見解の違いになって現れています。(ダンはユダヤ人たちと異邦人たちの双方を含む信仰共同体を考えるのに対して、ライトは、ユダヤ人クリスチャンと考える。)


4.3:15-20

"The Climax of the Covenant"は第8章で、ガラテヤ3:15-20を扱っています。

これらの節は、契約と律法との関わりについても論じられる大切な箇所ですが、いくつかの点で難解な箇所でもあります。ライトは、これらの節の中の特に二つの節に注目しながら、神の民の単一性というテーマがこの節全体の共通テーマであることを指摘しています。そして、この節における律法(トーラー)についても、そのような文脈の中に置いて理解しようとします。

(1)Introduction

ライトは、3:15-18と3:19-22が「パウロにおいて最も難解と一般にみなされている」(注28)ことを認めつつ、これらの節を読み解く手がかりとして、3:16と3:20に注目を促します。

(a)3:16

まず、3:16の一般的理解を以下のように提示します。「16節において、パウロはスペルマの単数形に基づき、アブラハムとその子孫に対してなされた約束は排他的にキリストを示しており、族長の他の多くの身体的子孫をさしているのではないように見える。」(注29)

しかし、ライトはこの節のこのような理解に問題点があると言います。「このような見方によれば、パウロは語義に関する全くのトリックという、大変不安定な土台の上に放置される。というのは、七十人訳聖書では、単数のスペルマは、人の子孫に関して言及するとき、実際上ほとんど常に単一の子孫をさすのではなく、集団的子孫をさすからである。」(注30)ライトは更に関連する釈義上の4つの問題点を指摘しています(注31)。

(b)3:20

もう一つの3:20については、一般的理解を以下のように提示します。「20節において、パウロは通常以下のように理解されている。すなわち、パウロは仲介者の部分的定義(すなわち、そのような人物の在り方は、所属の二重性を示唆するということ)を提示することによって、トーラーがアブラハムへの約束に劣ると論じている。」(注32)

このような議論が奇妙に見えるところから、幾多の解決法が提案されているものの、合意に至っていないことをライトは指摘します。そして、ライトはそれらの解決法のいくつかを紹介すると共に、それらの解決案の不適切さをも指摘していきます。

(2)The Single Seed: 3.15-18

ライトは、これら二つの節が困難さと曖昧さを持っていることを認めつつも、これらの二つの節と、より広い文脈の両方に対してよい意味を提供する一つの思想の流れが認められることを示唆します。「鍵は『単一性』の概念にある。これは、16節と20節に共通の要素であり、それは両節で我々が直面する諸問題に根本的に寄与する。16節で『子孫』は一つであり、多くでないと言われている。20節で『仲介者』は一つのものでなく、神はおひとりである。」(注33)そして、この文脈が章の終わりまでの文脈に一致していることを指摘します。

この文脈を踏まえつつ、ライトはまず3:16について次のように主張します。「我々は、次のように示唆してよい。すなわち、16節の『子孫』の単数は多くの人々と対照される個人の単数ではなく、パウロの反対者がトーラーについて考えるように考えるとしたらもたらされるような種族の複数と対照される一つの『種族』の単数である。」(注34)

3:16をこのように理解した場合、15‐18節の議論展開をライトは次のように要約します。「アブラハムとの契約は種族の複数性でなく、常に単一の種族を提示した。それゆえ、トーラーは異邦人をユダヤ人から分離させることによって複数性を産み出し、アブラハムとの契約成就の行く手をふさぐ。そしてこれは許されることではない。」(注35)

もちろん、3:16に対するこのような読み方には異論の余地があり、ライト自身、3つの可能な異論を指摘します。第一は、「スペルマ」の集合的意味が正当化されるかというもので、これに対しては、スペルマ及びゼラーの用法を確認しながら、その正当性を主張します。第二の異論は、どうしてパウロは「二つの」と言わず「多くの」と言ったのかというもので、これに対しては、民族的起源が神の民の境界線を定める重要要素として認められるなら、二つの「種族」以上が生まれるであろうと言います。第三の異論は、節の最後のフレーズ「ホス・エスティン・クリストス」はどうなるのかというもので、これに対しては、パウロのキリスト用法には代表的、あるいは集合的意味があり、一般に考えられるより柔軟で、異なるレベルの意味が可能であることを示唆します。(最後の論点に現われているキリストの集合的意味については、本書の2-3章で取り扱われており、本書の重要テーマともなっているようです。)

このような理解に従えば、15-18節では、律法について以下のことが言えるとライトは指摘します。「従って、15-18節において、パウロは単に『律法』と『約束』を互いに相容れないタイプの宗教システムとして対照させているのではない。また、彼は単に律法に対して約束が年代順ですぐれていることを提示しているのでもない。彼は(略)一つの種族がトーラーの所持によって特徴づけられ得ないことを議論している。」(注36)

最後に、この議論がローマ4:13-17との比較によって支持されうることも指摘しています。(注37)

(3)One God, One People, No Mediator: 3.19-22

次に、ライトは19-22節、特に、非常に難解とされる20節の検討へと進みます。

まず、文脈の確認が行われます。19節での「スペルマ」への言及から15-18節からの流れを受けていること、19-22節は、19節の問い、「トーラーとは何か」を問うものであること、その解答は律法が神の計画の必要な部分であるものの最後の言葉ではないというものであること、そして、このことが20節で説明されること(どのように説明されるのかが続いて探求されるわけですが)、同時に20節は21節aの問い(それでは律法は約束に反するものなのか)を引き起こすこと等です(注38)。

次に、20節のフレーズ「ホ・デ・メシテース」についている定冠詞に注目し、遡及指示の定冠詞と理解するのがよいと言います。すなわち、「仲介者」とは、「先ほど言及された仲介者」、すなわち、モーセをさすと言います。(注39)

これらを踏まえ、20節の「ヘノス」の自然な読みは、「単一の『種族』、アブラハムに約束され、キリストにおいて今や実現された一つの家族への言及」として読むことだと言います。すなわち、「パウロが指摘するのは次のことである。モーセはこの約束された『一つの種族』がもたらされる仲介者ではない。彼(モーセ)は、律法のもとにあるイスラエルだけへの啓示の仲介者であるから、そうあり得ない。」(注40)

但し、ここでの「ヘノス」に冠詞がついていないことから、文法構造を少し違うように並べ替えることを提案します。「ホ・デ」を「エスティン」の主語とし、「メシテース・ヘノス」を補語と考えます。その場合、20節aは、次のような意味になると言います。「『彼(すなわち、19節で言及された仲介者)は一つの…仲介者ではない。』すなわち、単一の家族の仲介者ではない。」(注41)

「20節aがこのように読まれると、20節bの問題は全く容易に解決されうる」とライトは言います。すなわち、「モーセは『一つの家族』の仲介者ではない。しかし、神はひとりである。それゆえ、神はアブラハムに約束されたように一つの家族を願われる。」すなわち、「パウロはユダヤ教信条の第一項(唯一神論)を用いて、第二項(選び)を劇的に修正している」と言います(注42)。

また、このようなライトの読みは、ローマ3:20-21との比較からも支持されることを指摘してもいます。

このような読みを前提に、3:19-22について、ライトは三つの点を指摘します。

(a)律法は「加えられたもの」

「それではなぜ律法か」という問いに対するパウロの答えについて、ライトは次のように言います。「パウロはそれが『加えられた』(アブラハムへの約束に始まり、『一つの家族』に到達すべき神の計画に従って)、『違反のゆえに』と言う。」(注43)

「違反のゆえに」について、ライトは「ローマ5:12-14、20のように、ハマルティアをパラバシスに変えるために与えられたという強い意味」と、「身体的実体としてのイスラエルは罪のゆえに『一つの家族』でありえず、メシアと約束された『種族』の創造までに全くさまよってしまわないためにトーラーを必要としたという弱い意味」の二つの可能性を指摘します。ライトとしては、前者に傾いていることを認めつつ、いずれにしても、問題は罪が全く誤らせるものであり、イスラエルだけでなく全人類が自ら神の恵みを要求することができないということだと言います。(注44)

(b)天使への言及(略)

(c)なぜ律法が神の最後の言葉でないのか

「パウロはそれゆえ20節でさらに説明する。律法が神の最後の言葉でありえないのはどうしてか。神はご自身お一人であって、単一の家族を求められるが、モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ、それゆえ、この計画を働かせることができない。(略)全人類は罪深く、それゆえイエス・キリストへの信仰を通してのみ神の民のメンバーシップを得ることができる。(21-22節)」(注45)

(4)Conclusion

結論として、4つほどの点が挙げられますが、その内、ここでの議論が示唆するガラテヤ書全体についてのより広い適用をご紹介します。「たとえば、ここでの議論は以下のような見解を支持する。すなわち、本当の問題は、伝統的なプロテスタントの神学で通常認められるような『律法主義』でなく、神の民に所属するために人はユダヤ人にならなければらないのかというものである。この節における律法は、抽象的、一般的なものでなく、ユダヤ人に、ユダヤ人のみに与えられたモーセのトーラーであって、異邦人との関わりは彼らを契約の外に保つ障壁を作るという点のみにおいてである。」(注46)

(5)3:15-20のまとめ

3:15-20でのライトの律法理解を総合的にみますと、ここでの文脈理解のベースとして、ライトは神の民の単一性に焦点を置いて理解しようとしていると言えます。これは、律法についての論点としては、「一つの種族がトーラーの所持によって特徴づけられ得ない」、「モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ」たのであって、ユダヤ人も異邦人も含む神の民の単一性に反するといった議論につながります。


5.まとめ

ここまで、ライトの二つの書籍から、ガラテヤ書における三つの節(2:11-21、3:10-14及び3:15-20)において、パウロの律法に関する言及をライトがどのように理解しようとしているかを確認してきました。

(1)三つの節に共通している見方

三つの節における律法についてのライトの言及を通して、共通している見方は以下のようなものです。

・これらの節において、律法(ノモス)はイスラエル民族に与えられたモーセ律法(トーラー)をさす。

・パウロは、律法を神がアブラハムと結ばれた契約との関わりで理解し、説明しようとしている。

(2)三つの節それぞれで主張されている強調点

上記のような基本的理解のもとで、三つの節は律法についてそれぞれの強調点を持っていると、ライトは示唆しているように思われます。

(2-1)2:11-21

ライトは、この節での問題が「誰が神の民に属するか、それを現在どのように語り得るか」というものだと言います。そして、この問題に対して「律法の行い」は適切な解答たりえないとライトは指摘します。その理由は、第一に、「律法の行い」を誰も適切に行う者がいないからであり、第二に、「律法の行い」が造りだすのは、民族的ユダヤ主義の延長としての家族に過ぎないからであると言います。

(2-2)3:10-14

この節では、律法とのろいとの関わり、アブラハムへの約束の成就と、律法及びキリストの死との関わりが取り扱われます。ライトが指摘するパウロの議論の趣旨は複雑ですが、要約すれば以下のようなものとなるでしょう。

・イスラエルが律法を守らなかった結果律法はイスラエルにとってのろいをもたらすものとなったように見えたし、アブラハムへの約束は律法によって無にされたように見えるという問題があった。しかし、キリストの死こそがこの問題への解答となった。キリストの死が契約の民を覆っていたのろいを使い尽くし、その結果、アブラハムの祝福がついに異邦人とユダヤ人の両方に及ぶことになった。

(この節への理解のためは、背景として、特に申命記27-28章によって示唆される律法によるのろいと回復が重要視されます。)

・この場合、異邦人とユダヤ人両方の新しい契約の家族の区分するしるしはもちろん信仰であって、律法ではない。従って、律法を奉ずるすべての者は、今やイスラエルが被ることになっていたのろいのもとにあることになる。

(ここでは特にハバククが既に契約の家族を区分するしるしとして信仰を提示していることが注目されています。)

(2-3)3:15-20

この節でライトが注目するのは、神の民の単一性です。3:15-18、3:19-20の両方に現われる「スペルマ」は集合名詞として理解され、アブラハムの子孫(スペルマ)の単一性が強調されます。このような文脈把握の中で、律法はアブラハムへの約束の後に「加えられた」ものですが、約束をその到達点に至らせるものとはなり得ないと言われます。なぜなら、律法はユダヤ人だけに与えられたものとして、新しい契約の家族の中に障壁をもたらし、その単一性を壊すからだと説明されます。

今回も、主にライトの見解をご紹介するだけにとどまります。このような見方に対してどう評価したらよいか、私自身の今後の課題とさせて頂きます。


(注1)J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/c/1d97d88300bb573556e3ec110927b291
ダンによるガラテヤ書の律法理解
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/b92ebd0ce82cbeaf2b567b831d755f4c

(注2)N.T.Wright "What St. Paul Really Said" Lion Books, 1997(邦訳:『使徒パウロは何を語ったのか』岩上敬人訳、いのちのことば社、2017年)

(注3)N.T.Wright "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology" Fortress Press, 1992

(注4)N.T.Wright 'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9" Abingdon Press, 2000

(注5)N.T.Wright "Paul: in Fresh Perspective" Fortress Press, 2005, Preface p9-10.

(注6)Wright "The Climax of the Covenant" Preface p9

(注7)Wright "Paul: in Fresh Perspective" p110-112

(注8)Wright "The Climax of the Covenant"p140

(注9)Wright 上掲書p140-141

(注10)Wright 上掲書p142

(注11)Wright 上掲書p142 原注17

(注12)Wright 上掲書p143-144

(注13)Wright 上掲書p145

(注14)Wright 上掲書p145

(注15)Wright 上掲書p146

(注16)Wright 上掲書p147

(注17)Wright 上掲書p148

(注18)Wright 上掲書p148

(注19)Wright 上掲書p149

(注20)Wright 上掲書p149

(注21)Wright 上掲書p151

(注22)Wright 上掲書p152

(注23)Wright 上掲書p153

(注24)Wright 上掲書p153

(注25)Wright 上掲書p154

(注26)J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』(新教出版社、1998年、16頁)(原著は1993年発行)

(注27)Wright 上掲書p155-156

(注28)Wright 上掲書p157

(注29)Wright 上掲書p158

(注30)Wright 上掲書p158

(注31)Wright 上掲書p159

(注32)Wright 上掲書p159

(注33)Wright 上掲書p163

(注34)Wright 上掲書p163

(注35)Wright 上掲書p163-164

(注36)Wright 上掲書p166

(注37)Wright 上掲書p167-168

(注38)Wright 上掲書p168

(注39)Wright 上掲書p169

(注40)Wright 上掲書p169

(注41)Wright 上掲書p170

(注42)Wright 上掲書p170-171

(注43)Wright 上掲書p171

(注44)Wright 上掲書p171-172

(注45)Wright 上掲書p172

(注46)Wright 上掲書p173

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