長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

第7章 義認と教会(その3)

2016-09-21 21:06:06 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

(4)ライトの「義認」用語理解のマクロ的側面についての見解

ライトの「義認」論を以上のように理解するとして、私個人としてはライトの義認論をどのように評価するか、まだまだ暫定的なものでしかありませんが、マクロ的側面とミクロ的側面に分けてまとめてみたいと思います。

まず、マクロ的側面についてですが、パウロの義認論を考えるとき、全体として個人的救済論の枠組みにおいてだけで理解しようとするのでなく、神の救済のご計画の歴史的展開の中に位置づけようとすることは、今後も必要なことではないかと思いました。また、その中で特にイスラエルに対する神の契約との関わりに注目し、イエスをイスラエルの代表ととらえ、イエスの十字架と復活をイスラエルとの神の契約のクライマックスとして位置付けるライトの理解は、パウロの神学を考える上で、今後も大きな影響を与えていくものと思われます。私としては、細部における吟味は必要と思いますが、大きな理解としては非常にすぐれたものと思いました。また、パウロの義認論を「開始された終末論」に似た枠組みで理解しようとするライトの見解も、それ自体としては間違っていないと思います(ガラテヤ5:5)。ローマ2章についてのライトの見解については疑問を感じますが、それはミクロ的側面として扱われるべき議論になります。

ただ、「福音」についてのライトの主張に対しては、私としては、暫定的にではありますが、異なった理解に立ちたいと思います。ライトは、福音について「人々がいかにして救われるかの説明ではない。それは以前の章で見たように、イエス・キリストの主性の宣言である」と言います(133頁)。しかし、前章についてのコメントでも触れたように、私としては、福音を「人々がいかにして救われるかの説明」を含むものと考えたく思います(前章コメント、ローマ1:17検討部分参照。また、(5)のローマ人への手紙検討部分参照。)。

(5)ライトの「義認」用語理解のミクロ的側面についての見解

このように、パウロの「義認」用語のライトの理解のマクロ的側面について、「福音」理解以外の部分については、私として賛同してよいのではないかと考えます。ただ、それは、パウロの「義認」用語理解の枠組みとして、尊重すべきものとして受け入れるということであって、細部においての検討は必要と考えます。従って、パウロの「義認」用語理解についてのライトの理解のミクロ的側面についても検討していく必要があります。ここで、そのすべてを子細に検討する余裕はありませんが、先に要約列挙したライトの釈義的主張について、一つひとつ取り上げながら検討します。

○ガラテヤ人への手紙

*ライトの主張*
【パウロがこの手紙で扱っているのは、「元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か」という問題である。】

ガラテヤ人への手紙の中で、パウロが取り扱おうとしている緊急かつ実際的な課題は、「元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か」ということであったことは間違いのないことと思います(5:2-12、6:12-15)。多少問題を広げて理解したとしても、異邦人信仰者が真の神の民となるために、割礼その他のユダヤ教的な行いを必要とするかどうかが、この手紙の主題となっていることは確かなことだと思います。この点については、2世紀以降、聖書解釈者の間で長い間共通理解があったことをF.F.ブルースは指摘しています(NIGTC、Galatians、20-23頁)。パウロがこの問題への明確な方向性を示そうとしていることは明らかで、手紙の全体がこの問題に答えるために順序立てられていると見ても間違いではないと思います。注意すべきは、このことについてはルターを含む宗教改革者たちも同様に理解していたという点で、この手紙の扱う問題がそういうことであったとしても、そのことが「義認」用語の理解にどうかかわるのかについては、異なる理解があり得るということのようです。

たとえば、パウロが割礼主義のような実際的問題に対する回答をどのようにして取り扱おうとしているか、手紙全体の文脈を正確に理解しようとすると、色々複雑な要素が絡んでいるため、簡単に割り切れる問題ではないように思われます。少なくとも、福音、律法、信仰、義認、神の子、もろもろの霊力(新改訳では「幼稚な教え」)、自由、肉の働きと御霊による歩みといった要素について考え、それらへの理解がこの問題への取り組みにどう関わるのかを考える必要があります。こういった問題に明快な回答を与えることは、なかなか難しいことのように思われます。

その中で、特に私が注目したい点としては、「義認」用語との関わりの深い点として、後に検討する「律法」理解の問題と共に、「福音」理解の問題があるという点です。というのは、確かにガラテヤ人への手紙で取り扱われている実際的課題は、割礼問題その他、異邦人クリスチャンがユダヤ人を異教徒と区別してきた律法規定を守る必要があるのかという問題でしたが、この手紙の冒頭、1:6-9で明らかにされているのは、そのような実際的問題が、パウロにあっては福音の真正性に関わる問題として認識され、提示されているという点です。パウロは、ガラテヤ教会の人々が直面している問題が、具体的には割礼問題であったとしても、そのことを最初から直接は明らかにせず、むしろ、「違った福音」(1:6)、「キリストの福音を曲げようとしている」(1:7)、「わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝える」(1:8)、「ある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えている」(1:9)といった問題として提示しています。割礼問題がどうして福音の真正性の問題として理解されなければならないのか、これがこの手紙の冒頭で私達が直面する問題です。たとえば、ライトのように、福音をキリストの主権性の告知として理解し、義認を福音とは切り離せないものとしつつも、福音の中に含めないで理解した場合、割礼問題がどのように福音の真正性をゆがめることになるのか、了解が難しくなるように思います。たとえライトのように「義認」用語を教会論的に理解するとしても、少なくとも義認の問題を福音の中に含めて理解するのでなければ、このことは了解しがたいことになってしまいます。

更に言えば、ガラテヤ人への手紙で、福音の真正性の問題を取り上げる前に、パウロは、キリストによる救い、そのための贖いの死についてひと言書き記していることは、福音と救い、また贖いとの深い関わりを自然に想定させます。こうした流れを考えると、2章前半で割礼主義者の問題が取り上げられた後、後半で義認の問題が取り上げられますが、真正な福音の中に「キリストの贖いによる救い」ということがある故に、割礼主義者の問題は、「律法の行いによる義」か「キリストを信じる信仰による義」かの問題に結びつけられている、と理解することは可能ではないでしょうか。「律法の行い」をどう理解するかの問題は、後で再度詳しく検討しますが、こうした流れの中で、「割礼主義」の問題が「福音の真正性」の問題に結びついていると想定することは、手紙の文脈にかなっているように思われます。なおガラテヤ書の中での「福音」理解についてはライト自身の言及がないので、これ以上の検討は差し控えます。「福音」理解の問題はローマ人への手紙の検討の中で、再度取り上げたいと思います。

*ライトの主張*
【2-4章で問題となっていることは、誰が一緒に食べることを許されるか、誰が神の民のメンバーなのか、誰がアブラハムの子孫に属するかという問題が扱われる(3:29)。】

ライトの主張点は、個人的救済論を取り扱うと言われてきた2-4章において、むしろここで取り上げられている問題は、教会論に属するということでしょう。この点について、私としては、個人的救済論と教会論は、常に切り離せない問題であると考えます。個人的救済論に偏って聖書を理解してきたあり方をただす意味では、教会論的理解の強調は必要なことと思いますが、個人的救済論の要素を排除した形での教会論的理解もまた偏っているのではないでしょうか。

もちろん、先の検討点において確認しましたように、この手紙が扱っている実際的課題は、どちらかと言えば教会論的課題と見ることができますが、この課題を取り扱うに際して、パウロは決して個人的救済論を排除する形では取り扱っていないのではないかと思います。この点については、次の検討点でより具体的に考えてみます。

*ライトの主張*
【ガラテヤ人への手紙においてトーラーに対する議論は、もし我々がそれを「律法主義」のわなに対する議論に「翻訳」するなら、うまくいかない。律法についての節は、我々がそれらをユダヤ民族の民族的証書として見るときのみ、うまく働く。】

この点は、いわゆる「パウロについての新しい視点(NPP)」が指摘した問題でもあり、重要課題です。特に「義認」用語の理解において重要になる点が、2:16に3回現われる「律法の行い」の理解です。ここでは、「律法の行いによる義」と「キリストを信じる信仰による義」とが対照されています。従来、ここでの「律法の行い」という表現は、人間の功績、すなわち、人間の行いによって救い(義とされること)が獲得されるという理解に関わるものと受け止められてきました。しかし、当時のユダヤ教についての理解が進み、こうした理解が必ずしもユダヤ教的なものとは言えないとの指摘がなされるようになりました。こうした中から、ここでの「律法の行い」を、「ユダヤ民族の民族的証書」としての律法機能に関わる言及として受け止める理解が広がってきました。ライト自身の場合はそれ程明確ではありませんが、特に、ここでの「律法の行い」をユダヤ人を他民族から区別する諸規定(割礼・安息日・食物規定等)を守ろうとするあり方として受け止める向きも見られるようになりました。おそらく、この点の議論は新約聖書学の分野を越えながら、今後も続いていくものと思われます。

律法の民族的証書としての機能は、ガラテヤ人への手紙が取り上げられている実際的課題との関わりとも密接に関わる部分ですので、この手紙の文脈ともよく合致しているように受け取れます。しかし、これまでの聖書注解者は、ガラテヤ人への手紙がそのような実際的課題に取り組んだものであることをよく踏まえた上で、なおここでの「律法の行い」をいわゆる行為義認との接点を持つものとして捉え得たという点も見逃すことはできないように思います。

私としては、ガラテヤ人への手紙の中の律法についての議論は、確かに現代の教会で一般的に言われている「律法主義」と直接に結びつけることはできないと思います。現代の教会で言う「律法主義」は、特に当時のユダヤ人に限定された話ではないのに対して、この手紙の中に出て来る律法は、文脈上、確かにユダヤ人たちが誇りとしてきた律法であることが明らかだからです。

しかし、私としては、ユダヤ人が神から与えられた律法を誇りとしてきたことの理由として、律法が神の御旨をこの上なく明瞭に表現するものであったことを重視したいと思います(ローマ2:17-20)。本来、神がイスラエルの民に律法を与えられた際、その中心にあったのは、人として神の前に正しい生き方をするということはどういうことなのかを明確にするという機能だったはずです。割礼や安息日規定、食事規定も、そのような本質を表現する意味で設けられた規定であって、その中心は神を愛し、神の御旨に従う聖別された生き方にあったはずです。イスラエルの民の歴史の中で形だけの律法遵守が本来の律法理解をゆがめ、イスラエルの民を神の御心から外れた方向に追いやることが繰り返されてきたのも事実です。しかし、その度に神は預言者を遣わし、本来の律法の精神に立ち返らせようとされました。ですから、神がイスラエルの民に律法を与えることにより、他の民族と区別されたとすれば、単に割礼や食物規定など、外的な民族的区別をもたらす規定に中心があったわけではなく、また、ユダヤ人を他民族と区別するという律法機能自体に中心があったわけでもなく、むしろ、人としての正しいあり方を明確に表現するという、律法の本来的付与によってであったと考えることができます。

しかし、パウロは、そのような本来の律法機能に焦点を絞って考えたときでさえ、それは人を義とすることができず、罪を指摘するのみであること、それ故、キリストの贖いのみわざが必要とされたのであり、それゆえ、「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」と言っている、というように私には読めます(ガラテヤ2:16)。それ故、信仰者はユダヤ人に与えられた律法に固執する必要がなく、自由とされた者であること、ただその自由を肉の働く機会として用いず、御霊による新しくされた者として生きていくべきことを教えた・・・私としてはそのように理解したいと思います。これは、従来の義認用語理解に近いもので、かなり伝統的な見解に立つことになりますが、現時点で私がそのように考える理由をいくつか挙げてみます。

第一に、2:19「律法によって律法に死んだ」の理解です。律法を「ユダヤ民族の民族的証書」と考えた場合、パウロはどのようにして「律法によって律法に死んだ」と言えたのか、という点です。この表現は、従来の理解に立つ聖書注解者の中でも、解釈に幅が見られる箇所であることも確かです。しかし、私としては、ここのパウロは、上に指摘したような、人としての正しいあり方を明確にするものとしての律法機能に言及しているように思われます。神がイスラエルの民と結ばれた契約の中にも、律法に従うなら命と幸いを得、従わないなら死と災いを受けるという内容が含まれていました(申命記30:15-20)。これは、律法の民族的証書としての機能に関わるものというよりは、(いくらかはユダヤ民族に限定的に与えられた規定を含むとは言え)神の御心を明確にするという機能に関わってのことと考えられます。そういう機能について考えたときにだけ、「律法によって律法に死ぬ」ということが成立しえるように、私には思われるのですが、どうでしょうか。(いかなる意味でパウロが「律法に死んだ」と言っているのか、という議論はまた別の論点となりますが、ここでの検討点とは異なります。)

第二に、3:19-24です。ここで律法は、まず「違反を促すため、あとから加えられた」と言われます(19節)。「あとから」というのは、アブラハムとの間で交わされた約束の「あとから」という意味で、その後、(モーセの時に与えられた)「律法」と(アブラハムの時に与えられた)「約束」が対照され、律法が約束の後で与えられたものに過ぎない点が指摘されます。しかし、21節では、「では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。」と書かれ、22節「しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」と続きます。そして、23、24節で、律法の役割がキリストに導く「養育係」としての役割であることが指摘されます。

これらの箇所について、従来の理解では、ここでの律法は、神の御心を明らかにするという機能について言及されており、「違反を促すため、あとから加えられた」とは、神の御心に従い得ない人間の反逆性を明らかにするために与えられたことを言い、「人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう」とは、律法が神の御心を明らかにするだけでなく、神の御心に従わせ、それによって人を生かす力を持つのだとすれば、義が確かに律法によって実現されたであろうことを言い、しかし、実際には律法にはその力がなく、ただ人の違反と罪を指摘し、自分の行いによっては義とされ得ない者であることを明らかにすることによって、救い主の必要性を悟らせ、キリストに導く養育係りとしての役割を果たしたのだ、というように理解されてきました。

従来の理解であれば、文脈理解が以上のように成り立ちうるのに対して、律法を「ユダヤ民族の民族的証書」としての機能に限定して理解しようとすると、これらの箇所の理解が困難になるように思われます。「違反を促すため」(19節、口語訳)「違反を示すために」(新改訳)「違反を明らかにするために」(新共同訳)と訳される表現は、直訳すれば「違反のために」となり、「違反に対処するために」とも訳すことが可能です。しかし、民族的証書としての律法機能を考えた場合、それがどう「違反に対処する」ことになるのか、また、ここでの言及が続く議論とどのように文脈がつながり得るのか、という問題が残ります。また、「人を生かす力のある律法」(21節)という部分を、律法の「民族的証書」としての機能に限定して考えたとき(すなわち、神の御心を明らかにするという機能を排除した形で理解したとき)、どう理解することができるのか。そして、22節の「聖書は」という言葉は、従来の理解では(神の御心を明らかにするという機能を持つものとしての)「律法」と入れ替え可能な表現として用いられていると理解されると思いますが、それまでの「律法」を「民族的証書」としての律法機能に限定した表現と理解する場合、それは果たして「聖書」と同義として用いられうるのか。あるいは同義でないとすれば、文脈はどう続いていると理解したらよいのか。このような疑問が自然に出てきます。

もしこのような疑問がどうしても晴らされないのであれば、これらの箇所での「律法」とは、神の御心を明らかにする律法機能との関連で語られていると理解せざるを得ないのではないでしょうか。

最後に、私にとって決定的と思われるもう一つの点は、ローマ人への手紙における「律法」の取り扱いです。ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙は、手紙が書かれた実際的目的・状況においては異なりますが、真正な福音を明らかにするという意図が手紙全体に行き渡っている点で重なる点が多く、福音、律法、信仰、義認といったテーマが共通して扱われています。ローマ人への手紙で律法がどう扱われているかは、ガラテヤ人への手紙での律法の取り扱い方を考える上で大変参考になります。ローマ人への手紙では、議論の中で取り上げられる「律法」の機能は、ユダヤ人の民族的証書としての機能について決して無視はしていませんが、議論の中心に来ているのは、神の御心を明らかにするという律法本来の機能であるように思います。詳細は、以下のローマ人への手紙の検討のところで扱いますが、ローマ2:17-22だけは、ここでの議論と深い関わりを持つ箇所として取り上げておきたいと思います。ここには、ユダヤ人の誇りが記されています。従って、一般的な意味での道徳主義者としての誇りとは違った、ユダヤ人民族としての誇りが取り上げられていることは事実です。すなわち、ここでの議論がユダヤ人の民族的証書としての律法機能に関連していることは確かです。しかし、なぜユダヤ人にとって、律法を持っていることが誇りとなるかについて、以下のように記されます。「もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇りとし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら」(ローマ2:17-20)。ここで、ユダヤ人が律法を持っていることに民族的誇りを持っていることの理由として挙げられているのは、「御旨」への知識の故であり、「律法に教えられて、なすべきことをわきまえて」いるからであり、「知識と真理とが律法の中に形をとっている」からであるとパウロは指摘します。すなわち、彼らの律法に対する民族的誇りの理由は、律法が神の御旨をこれ以上なく明確な形で表現し、伝え、教えているからであることが分かります。ローマ人への手紙の議論の中で、このことは、ユダヤ人もまた神の前に罪びとであるとの指摘につながります。すなわち、ユダヤ人も異邦人も共に罪のもとにあるのであって(ローマ3:9)、キリスト・イエスの贖いに基づき、イエスに対する信仰によって義とされる他ないとの指摘につながっていきます(ローマ3:24-26)。このように、ローマ人への手紙では、神の御旨を明らかにする律法の本来的機能が議論の中で明確にされています。(この点は、後のローマ人への手紙の検討のところで詳細に検討します。)ガラテヤ人への手紙における議論では、ユダヤ人の民族的証書としての律法機能に関心が向けられている分、神の御旨を明らかにする本来的な律法機能について、どこまで議論で触れられているのか、必ずしも定かではありませんが、ローマ人への手紙での取り扱いを参照する限りでは、特に義認用語と関わる文脈の中では、やはり神の御旨を明らかにする律法機能が前提とされているように思えます。

以上の点を踏まえると、ガラテヤ人への手紙が本来扱っていた「割礼問題」その他、異邦人クリスチャンが民族的証書としての役割を果たしてきた律法諸規定を守るべきかどうか、という問題を扱うに際して、パウロは律法の民族的証書としての機能に限定せず、神の御心を明らかにする律法本来の機能についても議論を広げたと理解することができるかと思います。その上で律法の限界を指摘し、キリストへの信仰のみが人を義とすることを訴え、律法の役割が人の罪性を明らかにし、キリストに導く養育係としての役割を果たしたのだと、パウロはこの手紙の中で律法を位置づけなおしたと理解することができます。

*ライトの主張*
【この文脈において、パウロが義認によって意味しているのは、「あなたがどのようにしてクリスチャンになるか」ということよりもむしろ、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」ということである。二種の人々がクリスチャン信仰を共有しているとすれば、彼らは先祖に関わりなく食卓の交わりを共有することができる。そして、このことすべては、十字架の神学に基礎づけられる。】

上記検討点において見たように、この手紙の中で律法が、ユダヤ民族の民族的証書としての機能に限定して語られているわけではなく、神の御心を明確な形で表現したものとしての本来の機能に言及した上で、その限界性を指摘し、そのような律法が人の罪を指摘し、そのことによってキリストへの信仰への養育係としての役割を果たしたのだとパウロが語ったとすれば、その文脈においての「義認」用語は、当然のことながら個人的救済論に深くかかわる用語として理解することが妥当となります。

かと言って、ここでの義認用語が、個人的救済論的意味合いに限定して理解すべき、とすることも行き過ぎのように思います。手紙全体の文脈は確かに教会論的問題を扱っており、「律法」も「義認」も、その文脈の中から取り上げ、論じられているわけですから、教会論的意味合いと個人的救済論の意味合いの両方を持つ用語として用いられていると考えるのがよいのではないでしょうか。

そして、そのように理解した場合の「信仰」による「義認」は、教会論的意味合いから言っても、個人的救済論の意味合いから言っても、十字架の神学に基礎づけられるというのは間違いのないところと思います(ガラテヤ1:4、2:20、4:5、5:14)。

なお、義認用語のマクロ的検討のところで見ましたように、ライトは改革派神学の線に従い、「信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが『なす』ことではない」と主張し(125頁)、「人が既にメンバーであると宣言するバッジである」と言います(132頁)。このため、義認用語を「あなたがどのようにして契約の子孫のメンバーとなることができるか」ということではなく、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」を表現したものと言います。微妙な表現の相違のようにも見えますが、ウェスレー主義の伝統の中で育った者としては、あまりに信仰に含まれる意志的要素を軽視した理解のように思われます。ただ、この点は、あまり細かい話であるので、深入りしないでおくのがよいかと思います。

○コリント人への手紙第一

*ライトの主張*
【キリストは私たちにとって神からの知恵、義、聖、贖いとなられた。」(1:30)この短い要約を「キリストの転嫁された義」という概念の根拠とすることはできない。パウロが言いたいポイントは、我々が持つ価値のあるすべてのものは、神からのものであり、キリストの内に見い出されるということである。】

指摘されている箇所は、確かに「転嫁された義」の教理の根拠となるようには思えません。おそらく、それは「根拠」というより、他のより詳細に「義認」が扱われた箇所から同様の教理が成立すると考えられた場合に、その教理をキャッチフレーズ的に表現しえる箇所として注目されてきた箇所、というのが妥当な理解ではないでしょうか。

○ピリピ人への手紙

*ライトの主張*
【3章2-11節でパウロはピリピの人々に、契約のメンバーシップについて語っている。】

この箇所で取り上げられている問題は、丁度ガラテヤ人への手紙で取り上げられている問題と重なっているように思われます。すなわち、パウロが呼びかけている「悪い働き人」「肉に割礼の傷をつけている人たち」は、ガラテヤ教会に影響を与えようとしていた、割礼主義的教え、すなわち異邦人クリスチャンもまた割礼を受けるべきとの教えをもたらす人々のように思われます。従って、パウロがここでこの問題をどのように取り扱っているかという問題は、ガラテヤ人への手紙をも参照にしながら検討すべきことであると考えられます。実際、この後取り上げられる3:9の内容は、ガラテヤ2:16の内容と重なる点を多く含んでいます。先に検討したように、もしガラテヤ人への手紙において、特に、2:16を含む箇所において、割礼主義的教えを個人的救済論の問題を含む形で取り扱おうとしたのだとすれば、ピリピのこの箇所においても同様の取り扱い方をしていると考えることは自然でしょう。従って、ここでパウロは、「契約のメンバーシップ」の問題として限定的に扱おうとしているか、個人的救済論を含む形で取り扱おうとしているかは、3:9についての以下の検討とも照らし合わせつつ、判断していく必要があります。

*ライトの主張*
【上記節で「義認」用語が現れる唯一の節は3:9である。それは「メンバーシップ」用語である。】

確かに3:2-11において「義認」用語が現われるのは、3:9のみですが、先に指摘しましたように、ガラテヤ人への手紙に見られる文脈との一致を考えると、ピリピ3:9は余りにもガラテヤ2:16と重なる部分が多く、パウロの「義認」用語理解において、決して軽んじることのできるものではないと思います。むしろ、ガラテヤ2:15-21の「義認」用語の用法と照らし合わせながら見るべき、大切な箇所と言うことが言えます。

その上で、ガラテヤ人への手紙で行った検討結果に照らして考えると、ピリピ3:9に現われる「義認」用語を、「メンバーシップ」用語としてのみ理解することは必ずしも妥当とは言えないでしょう。もちろん、ピリピのこの箇所の文脈からは、「メンバーシップ」用語として見ることはごく自然なことと言えます。しかしながら、ガラテヤ人への手紙の検討の際に見たような仕方で、ここでの「義認」用語を教会論的意味合いと同時に個人的救済論の意味合いを含めて理解することを妨げるものは特に見当たらないように思われます。

*ライトの主張*
【3:9で、パウロが自分はトーラーによる「自分自身の」義を持たないというとき、彼が拒絶しているのは道徳的あるいは自助的義ではなく、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態である。】

ここでも、ガラテヤ人への手紙で検討したことを踏まえると、パウロが律法を、ユダヤ人の民族的証書としての機能に限定して考えているわけではなく、神の御心を明確に表現したものとして理解することができます。そのような理解に立てば、「律法による自分の義」とは、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態を示すと同時に、神の御心を十分に果たすことを通して得られる「義」についても語っていると解することが可能です。

*ライトの主張*
【3:9で、パウロが得ているとされる義は、「ディカイスネー・エク・セウー」(神からの義)であって、神からの賜物である。パウロはここで、契約的「メンバーシップ」の立場が神からしか与えられないことについて語っている。】

ライトが指摘するように、ここでの「神からの義」は、「ディカイオスネー・セウー」(神の義)ではなく、「ディカイオスネー・エク・セウー」ですので、「神からの義」と訳すことができるし、それ以外には受け取られ得ない表現となっています。ライトは、パウロがここで、契約的「メンバーシップ」の立場が神からしか与えられないことについて語っていることを指摘しますが、「義認」用語についての上の検討を踏まえると、パウロは同時に、個人が神の前に「義」とされ、救いを得ることが、人間の行いによらず、神から賜物として与えられる以外にはありえないことについても語っていると理解することができます。

*ライトの主張*
【3:9における「信仰」は、契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない。】

この点もまた、ガラテヤ人への手紙の検討の際にも取り上げました。「信仰」に対するライトのこのような受け止め方は、改革主義神学的なものと言えます。「信仰」の中に人間の側の意志の要素がないかのような理解・表現には違和感を覚えますが、議論を深めることは差し控えたいと思います。

○ローマ人への手紙

ここでの検討点は、前章での「神の義」フレーズの検討の際に、かなり触れました。そこで書いた内容を踏まえつつ、各検討点について、なお具体的に検討していきたいと思います。

*ライトの主張*
【1:3-4は、パウロの福音の内容の要約を与える。パウロが「福音」と言うとき、イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを意味する。】

この点のライトの指摘は、示唆に富んでいます。「福音」と言ったとき、「人がどのように救われるか」に重点が置かれすぎて、キリスト自身が誰であり、何をなさったのかが、軽く扱われるとしたら、福音の中心点を踏み外していると言われても仕方ないでしょう。「この福音は(中略)御子に関するものである。」(1:2、3)との言明は、福音の中心に置かれるべきは御子ご自身であることを明確にしています。このことは、1:10で、「御子の福音」と表現されていることからも支持されます。

また、続く「御子」についての記述は、イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを含んでいるということもまた、現代の福音宣教の状況から見て示唆に富んでいます。これは、「キリスト」についての第3章での検討も踏まえると、ここでのメッセージは、イエス・キリストが全世界の王であり救い主であることの宣言としてのメッセージととらえることができると思います。

私としては、福音の中心は御子であることを確認する必要があると思いますし、イエス・キリストの主としての王的宣言を含むことを見失ってはならないと思いますが、同時に、このお方は全世界の救い主であり、福音はその内容として御子がもたらす救いについても語っていると受け止めたく思います。
この点は、次の検討点での検討を必要とします。

*ライトの主張*
【1:16-17は福音の「内容」ではなく、「結果」の要約を与える。】

この点については、前章での「神の義」フレーズ検討の際、いくらか言及しました。もちろん、そこでの第一の関心は、1:17の「神の義」フレーズの理解でしたが、その検討のためには、1:16、17で繰り返される「福音」への理解も欠かせませんでした。何しろ、「神の義は、その福音の中に啓示され」ると言われているからです。そこで、まず、そこでの検討の結果として提示させて頂いた「神の義」フレーズ理解を再述します。「『福音』の中に啓示されている『神の義』とは、人間の不義を指摘し、その罪悪に対して怒り、正当な報酬を与えようとする『神の報復的義』として、けれども同時に、そのような窮状にある人間に救いをもたらそうとする『神の契約的誠実』として、その結果として不義なる人間に与えられようとする『神からの義』として、重層的に理解することが可能です。」このような理解で「神の義」フレーズを理解する場合、それらのすべてが「福音」の中に啓示されているとすれば、福音の内容の壮大さを考えざるを得ません。こう考えるとき、「信じる者が救いを得る」ということもまた、福音の「結果」というよりは、福音の啓示の中にすっぽりと収まってしまうと考えるべきではないでしょうか。

1:2、3からは、福音が御子に関するメッセージを中心としていることが分かります。上記のような「神の義」に関わるメッセージの中心に御子が置かれるべきことは、その後のローマ書全体の内容を見ても、頷けます。

*ライトの主張*
【1:16-17は、「福音は救いの真の枠組みとしの信仰義認を啓示し、ユダヤ人の自助的道徳主義に反対する」ということを意味しない。福音は神の義(=神の契約的誠実)を啓示し、それは、世の罪をこの主イエス・キリストにおける契約の成就を通して取り扱うことである。】

この点については、既に書きましたように、1:17の「神の義」を総合的、重層的に理解するのがよいのではないかと思います。福音は確かに神の契約的誠実としての「神の義」を啓示しています。しかし、そのことは、人間の罪悪の現実に対して怒り、正当な報酬を与えようとする「神の報復的義」もまた啓示された上でのことであり、更にまた、そのような契約的誠実の結果として、神が御子を通して不義なる人間に与えようとする「神からの義」をも啓示していると理解する方向性を提案しました。このような理解の中では、「(福音を)信じる者が救いを得る」ということも福音啓示の中に含まれることになります。但し、「信仰による義人は生きる」との旧約聖書の引用が、同時にローマ書の内容全体を示唆する形でなされているとすれば、「信仰による義」は、それにとどまらず、神に対して新しく「生きる」ということも含み示唆されていると理解することができます。

*ライトの主張*
【ローマ人への手紙において義認の最初の言及は「行い」による義認の言及であり、見た所、それがパウロの是認を受けているように見える(2:13)。これを理解する正しい方法は、パウロが「最後の」義認について語っていると見ることである。】

この箇所の理解のためには、1:18-3:20の文脈を考える必要があります。この箇所についても、前章「神の義」フレーズの検討の中でかなり扱いました。1:17の『神の義』は、『救い』との深い関わりを持つこと、神の契約的誠実としての『神の義』が『救い』をもたらし、その結果として『神からの義』がもたらされるとの理解が可能ではないかと示唆しました。しかし、そこで語られている『救い』の内容は、この序論的段階では極めてあいまいであることも事実です。人間の『救い』のために、どうして『神からの義』が必要であるのか、『救い』や『神からの義』が具体的には何を意味するのかが当然問題となります。本論の一番初めの部分にあたる1:18以降は、この問題に答えるものと見ることができます。すなわち、人間の不義なる現実、すべての人間が神の怒りに直面していること、このことのために、人間から出発した『義』が解決にならず、『神からの義』がどうしても必要であること等を明らかにするのが、1:18-3:20の役割であると言えます。従って、この箇所は、異邦人だけでなく、ユダヤ人も同様に、不義なる現実を抱え、神の御怒りに直面していることが論証されます。

この内、まず1:18-32は、どちらかと言えば、異邦人の罪の現実を指摘しているように思われます。他方、続く2:1-5は、「人をさばく者よ」と呼びかけられているところから(2:1)、ユダヤ人の罪を指摘しているように思われます。続く2:6-11は、ユダヤ人も異邦人も同様に公正に神の裁きを受けることが記されます。その基準は、「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」ということです(2:6)。既に、1:17の「神の義」フレーズの検討でも触れましたように、そこには、「神の報償的義」が含み示唆されていることを指摘しました。従って、福音の啓示の出発点として、「神の怒り」の「啓示」も当然でした(1:18)。「神の報償的義」は、罪の現実に対して「怒り」を啓示するにとどまらず、不義に対しては相応の報いを与えようとします。このことにおいては、ユダヤ人も異邦人も区別がありません。このことを明確に表現したのが2:6-11であると理解できます。ちなみに、「わざに従って報いられる」という点について、ユダヤ人もギリシヤ人も同様であることの明確化は、福音が「ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも(略)救いを得させる」ことの前提として重要です。

続く、2:12-16の中に、問題の部分が現われます。しかし、ここまでの文脈を踏まえれば、理解はむしろ容易です。ユダヤ人もギリシヤ人も「わざに従って報いられる」と言ったとき、当然、ユダヤ人に律法が与えられている点がそのことにどう関わるのかが問題となります。しかし、その問いに対しては、その冒頭に明確な回答が与えらえます。「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。」(2:12)既にガラテヤ人への手紙で指摘しましたように、律法には、ユダヤ人の民族的証書としての機能を持つと同時に、神の御心を明確な形で提示するという機能を持っていました。ですから、「律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれ」ます。「律法なしに罪を犯した者」については、どのようにして神の御心を知ることができるだろうか。良心の判断がその回答として挙げられます(2:14-15)。これが「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び」ることの根拠となります。詳細については、私たちには知り得ない部分があり、「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日には、明らかにされるであろう」とパウロは言います(2:16)。

このような文脈の中で、2:13は極めて自然に受け取ることができます。「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。」この節は、ユダヤ人が律法を持っているが故に義とされることはありえないことを指摘し、神の御心を表現したものとしての律法に対して、これを行う者を義とするという、神の報償的義のあり方を表現したものと言えます。

ライトには、この部分が「行い」による義認について言及しているように見えるが故に、「不思議である」と指摘します。しかし、私が思うには、「信仰義認」の前提には、「わざに従って報いられる」ということがあるはずですので、何ら不思議ではないと感じます。

逆に、ライトの見方は、私には了解が難しく思われます。「これを理解する正しい方法は、パウロが最後の義認について語っていると見ることであると私は信じる。(中略)最後の日に擁護されるのは、その心と生涯において、神が律法、トーラーを書き込まれた人々である。パウロがこの手紙で後に明らかにするように、このプロセスはトーラーだけによっては果たされ得ない。トーラーがなしたいと願ったができなかったことを、神は今やキリストにおいて、御霊によってなされた。そこで問題が迫ってくる。これらの人々は誰であるか。」こうして、2:17-24において、それが民族としてのユダヤ人ではあり得ないことが指摘されるとします。ここでライトはローマ8:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」に言及しているように思われます。確かにその言明は、2:15「彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互に訴え、あるいは弁明し合うのである」という表現に近いように見えます。しかし、私が読む限り、2:15は、文脈上、律法を持たない異邦人がどのような基準に従って「わざにしたがって報いられる」ことができるのかを説明したものであり、「律法の要求がその心にしるされている」とは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと持っているはずの良心の機能について言及したものであり、決してローマ8:4において記されるような、信仰者が霊によって歩くことによって律法の要求を満たすようになることについての言及とは異なるものと思います。

*ライトの主張*
【2:17-24において、将来義とされるべき真の神の民は、民族によって定義づけられたユダヤ人ではありえない。】

「将来義とされるべき真の神の民」という表現は、上に記したような2:13についてのライトの見解を反映しています。すなわち、2:17-24の前の部分で、パウロは、神がキリストにおいて御霊によって律法の要求をその心にしるした人々について述べており、彼らこそが「義とされる」ことを書いているとした上で、2:17-24は、そのような「将来義とされるべき真の神の民」が誰であるかを取り扱っているとします。

しかし、上に書きましたように、私としては、2:12-16は、律法を持つユダヤ人も律法を持たない異邦人も同じように「わざにしたがって報いられる」ということが、どのようにして成立するのかを説明した箇所と考えます。そうすると、2:17以降は、ユダヤ人に焦点を置いた上で、「わざにしたがって報いられる」としたらどういう結論が導かれるのかを示すために、ユダヤ人のわざがどんなものかを指摘する箇所と理解できます。すなわち、彼らは自分たちは律法を持っているが故に、「御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえて」おり(2:18)、それゆえに、「自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じて」いながら(2:19、20)、盗み、姦淫し、宮の物をかすめるなどして、律法に違反していることをパウロは指摘します(2:21-23)。

続く2:25-29は、本書では特にライトの言及はありませんが、ガラテヤ人への手紙との関連で大切な箇所でもあるので、簡単に触れます。ここで取り上げられる問題は、ユダヤ人が割礼を受けていることが2:17-24に記されたようなユダヤ人の不義の問題とどうかかわるのかという点です。その答えは、「律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう」というものです(2:25)。ガラテヤ人への手紙の検討の際に触れたように、律法には、神の御心を明らかにするという面と共に、ユダヤ人の民族的証書としての役割がありました。ライトは、ガラテヤ人への手紙の検討において、律法のユダヤ民族としての証書としての役割が議論の焦点となっていることを示唆していますが、ローマ2:17-29では、律法に両方の機能があることを踏まえた上で、「わざにしたがって報いられる」神の前に重要なのは、神の御心を明らかにするという律法機能であり、「割礼」その他のユダヤ民族の証書として機能する外的諸規定は、律法によって明らかにされた神の御心に従う民となっていることを示すはずのものであって、ユダヤ人が律法を犯している場合には何の役にも立たないことを指摘しています。

*ライトの主張*
【3:1-9の問題は、もし神の契約の民が神に不正を行ったとすれば、神はいかにして契約に対して真実であり得るのか、である。】

2:17-24を受けて、3:1-8は、確かに、ライトが指摘する通りの問題を取り扱っていると思います。3:1-2で、ユダヤ人が神の言葉を委ねられた特別の民であることを確認した上で、そのような民が不義を行ったとすれば、神は真実であると言えるのかと言う問題が取り上げられます。もちろん、ユダヤ人の不真実によって神の真実が否定されるべきではありません。そのような状況の中でも神の真実が貫かれることをパウロは主張しています。

ここで、神の契約的真実としての「神の義」フレーズが登場します(3:5)。1:18以降、「神の報償的義」がクローズアップされてきました。しかし、人間の側の不義によって、神の真実が損なわれるわけではありません。むしろ、神はここで「神の契約的真実」としての「神の義」が指摘され、そのことが3:21以降のキリストによる「神からの義」の恵みのクローズアップにつなげられようとします。

*ライトの主張*
【3:19、20、罪の故に、異邦人ばかりかユダヤ人も創造者の前に擁護なく裁判にかけられている。これはローマ3:21-31への道を備えている。】

3:9-18は、ユダヤ人も異邦人も罪の下にあることの指摘です。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という指摘は(3:9)、ユダヤ人もギリシヤ人も、わざにしたがって報いられるという指摘と共に(3:6)、ユダヤ人もギリシヤ人も救いを必要とするということの前提を提供するものです(1:16)。これを受け、続く3:19、20は、そのような現実を踏まえて律法がどんな役割を果たすのか、再確認されている箇所です。「すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである」(3:19)とは、律法が神の御心を示し、律法のもとにあるユダヤ人たちもまた神のさばきのもとにあることを明らかにしていることを示唆しているものと思われます。続いて、「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」と続きます(3:20)。律法が神の御心を明らかにする一方で、人は神の御心に従い得ない故に、律法によっては罪の自覚が生じるという結果がもたらされる以外にないことになります。従って、ここで「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」の意味は、単にユダヤ民族の証書としての律法機能だけでなく、神の御心を明らかにする律法機能に基づく言及として理解できます。

*ライトの主張*
【3:21以降で、問題に対する神の解決が明らかにされている。神は今や、真のユダヤ人、メシア、イエスを通して、ご自身の義(=契約的真実)を明らかにした。】

3:21以降では、3:20までの文脈で指摘された問題が、真のユダヤ人、メシア、イエスを通して与えられることが示されているということについては、その通りと思います。また、このイエスを通して、「神の義」が現わされたということが、この部分でのテーマとなっていることも確かです。ただ、ここでの「神の義」が「神の契約的真実」としてのみ理解できるかと言えば、前章の検討で示しましたように、必ずしもそうは言えないと考えます。4回登場する「神の義」フレーズは、旧約聖書からの大きな文脈からはいずれも「神の契約的真実」として理解されることが可能なように見えますが、直近の文脈を子細に調べると、「神からの義」(21節、22節)や「神の報復的義」(25節、26節)としての意味合いを含み持つように思われます。これらの意味合いを無視して、4回の「神の義」フレーズを一律に「神の契約的真実」としてのみ理解することは、逆にここでのパウロの言葉の重層性、深さと広がりを無視することになるのではないでしょうか。

*ライトの主張*
【パウロが3:27において排斥している「誇り」は、成功的道徳主義者の誇りではなく、ユダヤ人の民族的誇りである。3:29参照。彼はここでも、ユダヤ人の民族的特権に基づいて契約的メンバーシップに入る道はないということを主張している。】

3:29に注目したライトの説明は、それなりに説得力を持ちます。3:27における「誇り」を成功的道徳主義者の誇りか、ユダヤ人の民族的誇りかと、二者択一の問題として捉えれば、3:29において、「それとも、神はユダヤ人だけの神で在ろうか。また、異邦人の神であるのではないか。」という指摘がある以上、3:27の「誇り」はユダヤ人の民族的誇りを言っているもの理解する他ないように見えます。

しかし、これまで見てきたように、パウロの律法に対する言及は、神の御心を明らかにするという機能とユダヤ人の民族的証明としての機能の両方を考慮に入れたものとなっています。2:17、18において、「もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇りとし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており」とあるのを見れば、ユダヤ人の民族的誇りは、「律法を通して他の民族が達しえないほどに明確に神の御心を知らされている」という点にあったと考えられます。すなわち、律法を通して他の民族よりもはるかにまさって神の御旨を知らされている自分たちが、その律法を行うことを通して、神の前に義とされるはずだという誇りが彼らにはあったと考えられます。そうしたユダヤ人の考え方に対して、パウロはこれまで、律法によって神の御旨を知らされているはずのユダヤ人もまた、異邦人同様に神の御旨に背き、罪のもとに歩んでいることを指摘してきました(2:21-23)。このことが、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という指摘につながっています(3:9)。3:19、20は、再度、「律法のもとにある者たち」に焦点を当て、律法を持っていることを誇りとしてきた彼らであっても、「神のさばきに服する」ことを避けられず、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」と指摘します。そのような中で、「神の義が、律法とは別に・・・現され」ます。ここでの「神の義」は、「神の契約的真実」を背景としつつも、「神からの義」として理解できます。それは、「すべての人は罪を犯した」という現実下で与えられる「恵みにより、キリスト・イエスによるあがない」による義であり、「イエスを信じる者」が義とされるというものです(3:23、24、26)。

こうした流れを受けて、「すると、どこにわたしたちの誇があるのか」と問われます(3:27)。これまで、パウロは、「わたしたち」を主にユダヤ人読者を意識して語っているように思われます(3:5、9)。2:17において、ユダヤ人たちによる律法の誇りを指摘していることも踏まえると、ここでは、一般的な意味での「成功的道徳主義者の誇り」というより、ユダヤ人としての誇りが扱われていると見ることが自然です。しかし、ここではひとまず、「行いの法則」と「信仰の法則」とが対照されていますので、ユダヤ人だけに限定した話でなく、異邦人にも当てはまる形での言及となっています。そういう意味では、ここでの「誇り」の内容は、単に「民族的誇り」と限定的に見ることのできるものというよりは、異邦人の道徳主義者の誇りとも繋がり得る性質のものと見ることができるのではないでしょうか。

3:28においても、「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」とあるのも、主にユダヤ読者を意識してのものと言えるでしょう。ユダヤ人が誇りとしてきた「律法の行い」を通して義とされる道は閉ざされ、キリスト・イエスの贖いに基づく、信仰による義の道が開かれたことの宣言です。これは、「律法の行い」によって、自分達だけが神の前に義とされようとするユダヤ人たちのアジェンダを打ち砕くものでした。

従って、続く3:29は、「それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。」とあるのは、神がユダヤ人の神であるだけでなく、全世界の神でもあるという当然の事実を指摘しながら、ユダヤ人だけが義とされようとする「律法の行いによる義の道」でなく、「信仰による義の道」が開かれたことを補足するものとして受け取ることができます。

但し、繰り返しになりますが、ここでの「律法」は、ユダヤ人の民族的証明機能だけに注目して語られているのではなく、神の御心を明らかにするという本来の機能に注目した上での議論であることを踏まえる必要があると思います。すなわち、ここでの議論は、確かにユダヤ人についての議論ではあるのですが、異邦人にも拡大適用させることが可能な形で議論が進められていると見ることができます。

*ライトの主張*
【この文脈において、「義認」は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。彼らは比喩的な法廷において「義」であるという立場を与えられる。これが契約的用語で置き換えられると、彼らは将来見られるはずのもの、すなわち真の神の民であると、現在宣言されるということを意味する。現在の義認は将来の義認が全生涯に基づいて公けに主張するであろうものを(2:14-16と8:9-11による)、信仰に基づいて宣言する。そして、この宣言をする際(3:26)、神ご自身は契約に対して真実であられたことにおいて正しい。福音はこうして義、すなわち、神の契約的真実を啓示する。】

ここでの論点は、ライトの「義認」理解の要約とも言えます。「義認」用語のユダヤ的背景に基づき、「契約」的、「法廷」的、「終末論」的用語としての理解が示されています。以下、これら個々の視点に即して、積極的及び消極的評価を与えてみたいと思います。

まず、契約的理解の中から、共同体論的、教会論的理解が出てきます。確かに、パウロの議論では、常にユダヤ人の位置づけに関心が向けられ続けていますので、余りに個人的救済論の枠組みだけでとらえられてきた「義認」用語に対して、教会論的視点で見るようにとの示唆は、意義あるものと思います。ただ、ライトの表現には、逆に個人的救済論的な視点を排除しようとする傾向を感じ取ることができます。これまで見て来たように、「義認」がユダヤ民族の枠を越え、異邦人をも含めたものとされるために、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という指摘がなされます。そして、神のご計画における「神の民」全体への関心の中に、「すべての人は罪を犯した」という、普遍的な人間理解が提示されています。これに対し、「神からの義」としての「義認」が提示されますが、これは民族の枠を超えて全世界が直面する窮状に対する神の解決の提示となっています。従って、ここでの議論は、教会論的にと同時に、個人的救済論的にも大切なものとなっています。

また、ライトは「義認」の「法廷的」要素を認めます。ライトはこれをも常に契約的文脈の中に位置づけるため、若干、見逃されやすい面かもしれませんが、法廷用語としての「義認」用語理解をライトは維持していることは見逃すべきではないと思います。ただ、義認用語の法廷的側面を指摘する際、ライトはほとんどの場合、「比喩的」とか「メタファ」という用語を使いますが、この点、私としては、いくらかの危惧を持ちます。確かに、終わりの時の神の裁きが具体的にどんなものとなるのか、子細には示されない以上、「法廷」的ということはいくらか比喩としての要素を持つことは避けられないことでしょう。そういった意味で、ここでの法廷的要素は、メタファとしての要素を全く持たないとは言えません。しかし、パウロのここまでの議論において、「神の報復的義」の故に、「神の怒り」が啓示されていること(2:18)、「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」こと(2:6)、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」故に(3:9)、「すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服する」ことが避けられないことを指摘しています。このようにしてパウロが鋭く示す人間の窮状に対して、「比喩的」「メタファ」といった言葉が繰り返されることによって、多少なりともあいまいな理解に流れる要因になるとしたら、それはパウロが語っていることをゆがめることになるのではないか、という危惧があります。これは、読む側の問題になるのかもしれませんが、ライトは「義認」用語の法廷的要素と関連して「メタファ」という言葉を用いる際、どういう意味で「メタファ」なのかほとんど説明していないことがそういった危惧を生む要因となっているとも言えそうです。

次に、「終末論」的要素ですが、従来、聖書の示す救済論を終末論的に位置づけなおそうとする試みは、聖書神学の分野で長く取り組まれてきたと思います。しかし、プロテスタント神学の基礎とも言える「義認」用語を終末論的に捉えなおすこ取り組みは、それほど大規模にはなされて来なかったように思います。それだけに、ライトの「将来の義認」といった表現は、議論を呼びやすかったかもしれません。しかし、ガラテヤ5・5を見れば、パウロが「将来の義認」に一切言及していないということは言えません。ただ、「義認」に関するパウロの複雑な議論をどのように理解するかによって、「義認」用語と終末論との関わらせ方は少しずつ違ってくるように思います。私としては、ローマ2:16は確かに将来の義認について言及したものとは思いますが、ここでの文脈は、ユダヤ人も異邦人も同様に神の裁きの対象となることを示すものです。続く結論としては、ユダヤ人も異邦人も同様に罪の下にあるということが示され、従ってここからどうしても「神からの義」が必要となることが示唆されます。その後、「神からの義」がいかにして新しい生き方に結びつくかが示され(6章)、その終局として肉体の復活にまで至ることが指摘されます(8:9-11)。2章において議論される「将来の裁き」は、信仰によらず神の前に立とうとするあり方との関わりで言及されており、8章33節等において議論される将来の「義認」は、信仰によって神の前に立った者との関わりで言及されています。同じく「将来の義認」についての言及であることに間違いはないでしょうが、不信仰者にとっての「将来の義認」と、信仰者にとっての「将来の義認」とを不用意に同一視することは混乱を産むように思われます。

最後に、再び、ライトは、「義認」用語の「契約的」側面を指摘します。3:26より、「イエスを信じる者を義とされる」ことと、「神みずからが義となる」こととが結び付けられており、イエスへの信仰による者を義とすることが神の契約的真実を立証すること、こうして「神の義」、すなわち、神の契約的真実が示されると指摘します。この点については、これまでも何度か触れましたが、3:21-26に現われる4回の「神の義」フレーズの背後に、「神の契約的真実」としての意味合いがあるとの指摘は、旧約聖書からの大きな文脈を踏まえれば、見逃すことのできない大切な視点であると思います。ただ、パウロのここでの議論をより詳細に見ていくと、ここでの「神の義」フレーズが、「神の契約的真実」としての意味合いを背景としつつも、「神からの義」(21、22、26節)や「報復的義」(25、26節)としての意味合いをも浮かび上がらせていると私は理解します。この内、ライトがここで指摘する3:26に現われる「神の義」フレーズは、「神の契約的真実」としての意味合いを背景としつつも、「神の報復的義」と「神からの義」の両方の意味合いを合わせ表現していると考えられ、パウロの「神の義」フレーズが持つ重層的意味合いのすべてを込めて用いられた表現と言うことができると思います。

*ライトの主張*
【ローマ4章は、今や福音において開示された聖書的契約的神学の解説である。パウロがアブラハムの信仰は「義と認められた」(4:5)と語る時、信仰が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。このことはこの種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。この章の強調点は、それゆえ、契約的メンバーシップが割礼によってではなく(4:9-12)、民族によってでもなく、信仰によって定義づけられることを意味する。アブラハムはこの神、死者をよみがえらせる神を信じる故に、信仰において強くなった(4:19-21)。この信仰は、彼が「した」ことではなく、彼がその民のメンバーであることを示すバッジである。】

ローマ4章について、ライトは、「福音において開示された聖書的契約的神学の解説」と要約します(129頁)。章全体に渡りアブラハムについての議論がなされているところから、創世記15章におけるアブラハムとの契約をバックボーンとした「契約的神学の解説」と理解しようとするものです。ここでも、旧約聖書からの大きな文脈から見ればその通りであるのですが、ローマ書の直近の文脈から見れば、3:21からの議論を踏まえ、ユダヤ人の祖アブラハムが「義とされた」ということの理解を求める流れになっています。

4:1-5でパウロは、アブラハムの場合、「行いによって義とされた」のでなく、「信仰が義と認められた」ことを指摘します。ここでの「行い」は、モーセに律法が与えられる以前のことですので、民族的区別を与える行いとは理解できません。また、4:6、7で、アブラハムの議論の間に挟まれた形でダビデの場合を取り上げます。ここでは、詩篇の引用の形で「罪の赦し」が明確に表現された上で、「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている」と指摘していますので、「行いがなくても神に義と認められる」ということが「罪の赦し」とほとんど同じであることが示唆されています。4:9-12は、割礼との関わりでアブラハムの場合を調べます。アブラハムが義と認められたのは、割礼を受ける前であったので、本来、割礼とは「信仰によって受けた義の証印」としての役割を持つことを示唆します。4:13-16前半では、アブラハムとの関わりで律法の問題を考えます。アブラハムとの契約が律法に基づいて与えられたのでなく、信仰の義によって与えられたことを指摘し、この契約にあずかるべき子孫とは、「律法に立つ者」だけでなく、「アブラハムの信仰に従う者」にも保証されると言います(4:16)。4:16後半-25は、アブラハムが「わたしたちすべての者の父祖」であって、アブラハムの復活信仰(4:17)と私たちの復活信仰(4:24)の連続性を指摘します。

「ローマ4章は、しばしば示唆されるように抽象的教義に対する切り離された『聖書からの証拠』ではない。」(129頁)というのは、ここでの議論が、「抽象的議論」とは言えないので、必ずしも間違いではないと思いますが、パウロが3:21以降示してきた議論を支えるために、父祖アブラハムの場合を示しているのは事実で、「聖書からの証拠」という要素が全くないとは言えないと思います。但し、パウロがこれまで進めてきている議論は、常にユダヤ人を視野に置いて進められてきていることは見逃すべきではないと思います。

ライトはここで、「信仰が罪赦された家族のバッジである」という言い方をしますが、それ以前に、信仰が「契約的メンバーシップの真のバッジである」と主張します(129頁)。従来、「罪の赦し」という視点が優先的であったとすれば、その優先順位を逆転させたと言えるでしょう。「契約」的視点は、忘れてはいけない視点だと思いますが、そのことによって、パウロの議論の筋道を見失ってはいけない、とも思います。

*ライトの主張*
【パウロはローマ5-8章において、この福音を信じるすべてのものが真の、罪赦された神の民であり、こうして将来の救いが保証されていること、その救いは神の世界すべての更新の一側面として、彼らの復活を含むということを議論する。】

ここでのライトの指摘は、5-8章について、ごく概略的に述べている部分です。救いの終末論的側面、宇宙論的側面、そして復活の希望の指摘を含み、ライトらしいまとめ方です。聖化に関わる箇所でもありますが、その関わりでの検討は、次章でなされています。

*ライトの主張*
【5:12-21においてパウロは、事実上以下のように言う。契約内の神の目的はアダムの罪を扱うことだ。今やキリスト・イエスにあって、それが正確に神のなさったことだ。】

5:12-21のこの箇所について、ライトは、神のご目的の中で、神がキリスト・イエスにあってアダムの罪を取り扱われたとの要約の仕方をします。「契約内の神の目的」との表現(130頁)がライトらしい部分ですが、この部分と「契約」との関わり方は、詳細は不明です。「アダム契約」「アブラハム契約」などと分ける考え方からすれば、「アダム契約」との関わりを考えることができるのかもしれませんが、その辺のところは本書には触れられていません。

*ライトの主張*
【トーラーは奴隷状態を提供することができるだけだ。しかし今や(8:1-4)、神はトーラーが実際にはしたかったことを果たされた。神は世に命を与えられた。】

この点は、ローマ2章の検討部分でも触れられていた点で、ライトの注目点の一つと思われます。いわゆる聖化の問題について、律法と聖霊との関わりから扱います。

*ライトの主張*
【その命は最終的には人間だけでなく全宇宙を罪と死の結果から解放する効果を持つ。8:31-39でほめたたえられているのは、福音と義認とのこの結果である。そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており、それはすべてのキリスト者の復活、今の苦難の後の彼らの擁護から成っている。】

ライトの宇宙論的視点、あるいは終末論的視点がよく表わされています。8:31-39について、「そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており」(130頁)とある点は、私としては、「終末論的な最終的義認に至っており」としたく思います。

*ライトの主張*
【ローマ9:30-10:21は、神がイスラエルの歴史においてなされたことの結果を描き出す。神はイスラエルの召命をメシアにまで狭めた。その結果、彼の死によって、ユダヤ人も異邦人も同様に、すべての者が救いを見いだすようになるのである。こうして、異邦人は信仰によって特徴づけられた契約的メンバーシップを発見する一方で、イスラエルは契約的メンバーシップを定義づけたトーラーに固執した結果、トーラーに達しなかった。その結果、イスラエルは神の契約的目的、神の義に従わなかった(10:3、4)。というのは、キリストは律法の終り、あるいはゴールだからであり、その結果、信じるすべての者が契約的メンバーシップを受けるのである。】

ライトはローマ9:30-10:21を取り出しますが、9-11章が全体としてイスラエルの問題に焦点を当てていることは比較的明瞭だと思います。それ以前は、「ユダヤ人」という表現を用いていたのが、これらの章では、「イスラエル」という表現が多用されていることも、歴史を導かれる神の目的の中にイスラエルを位置づけようとする表れとも見られるかもしれません。この中で、9:30-10:21は、イスラエルが律法によって義に達しなかったという点を詳述します。よくなされるように、9-11章を、この手紙の中で特殊な主題を扱う章として見るのでなく、むしろ、手紙全体で取り組まれてきた課題のクライマックスとしてライトは描いています。「契約的」という表現が繰り返されるあたりに、ライトの視点が表わされます。

10:3の「神の義」フレーズを「神の契約的目的」と言い換えているところについては、前章で検討しました。私としては、「神の契約的真実」として読む理解も有力ではありますが、そのような意味合いを背景としつつ、ここでも「神からの義」としての意味合いを汲み取るのが、直近の文脈には適っているかと思います。

*ライトの主張*
【キリストは契約的目的を達成し、それらを神によって定められたクライマックスに導かれた。今やその目的は達せられ、残るものはミッションである(10:9~)。】

契約的目的の達成から、ミッションへの移行という視点は、参考になります。ただ、10:9ー21の部分は、9:30-10:8からの議論を引き継いでおり、イスラエルが律法によって義に達しなかったということを、福音宣教との関わりで確認した箇所と思います。11章まではやはりイスラエルの問題に焦点が当てられ続けており、キリストにある新しい生き方が詳論されるのは、12章からと考える方が私としては分かりやすいです。

(6)所感

長々と検討してきました。暫定的とは言え、パウロの「義認」用語に対するライトの見解に対して、自分自身の立ち位置が少し見えてきたように思います。マクロ的な視点としても、ミクロ的視点にしても、随分教えられることも多く、特に旧約聖書からの大きな文脈を大切にする視点、ユダヤ人の位置を考える視点等、今後自分なりによく消化していきたく思いました。ただ、いわゆる「義認論」に直接かかわるような釈義的諸論点については、ライトの視点や見解を自分なりに考慮しつつも、結果的にはかなり保守的な理解にとどまったように思います。ただ、ここで示した私の見解は、現時点での暫定的なものに過ぎません。ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙の比較や、そこでの律法、義認、福音の位置づけの問題等、今後、ライトの注解書や、関係書籍を少しずつ読みながら、なお検討を深めたいと思います。

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