長田家の明石便り

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第7章 義認と教会(その4)

2016-09-21 20:59:40 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


1.「義認」とは何か

多くの人々は、パウロの教えの中心は「信仰義認」だと言う。そういう人々がこのフレーズの意味として理解するのは次のようなものだ。人々は自分自身の努力によって自分たち自身を救おうとし、自分自身を神のために十分良いものにしようとする。これはうまく行かない。人は全く功績によらず神の恵みによってのみ救われ、良い行いによってではなく信仰によって救われる。義認についてのこの説明は、かなりの部分、五世紀初めのペラギウスとアウグスティヌスの論争、及び16世紀初めのエラスムスとルターの論争に負うている。

この章では、「信仰義認」についてのこのポピュラーな見解が全く間違っているわけではないけれども、パウロの教義の豊かさと正確さを正当に扱わないということを示唆したい。そしてパウロの「福音」(3章で論じた)とパウロが意味するところの「義認」との間を結びつける、より適切な方法を示唆したい。これらの問題を扱うために、近年のパウロ研究の一局面をもう一度思い起こす必要がある。

パウロ神学の伝統的議論は「サンダース革命」と呼ばれるようになったものによって全く新しい形に変えられた。サンダースの基本的な議論はこうである。一般の(特にプロテスタントの)クリスチャンのパウロの読みは、1世紀ユダヤ教に中世カトリックの神学的見解を帰したために、ひどく台無しになっている。ユダヤ教を正確に表現したら、我々はパウロのユダヤ教批判を考え直すように迫られるだろうし、次にはパウロの積極的神学の全体を考え直すように迫られるだろうと。新約聖書学に取り組む我々のほとんどは、聖書本文を注意深く調べ、これらのことがそうなのか、そうだとしたらどれほどそうなのかを見ようとしてきた。この章は、そのような課題のためのものである。

サンダースのパウロについての発表で奇妙なことの一つは、パウロが「義認」そのものについて意味していると伝統が語ってきたことを、彼が受け入れ続けていることである。義認はパウロの思想の中心ではなく、シュバイツァーが「キリスト神秘主義」と呼び、サンダースが「参与」と呼ぶものに対して二次的な位置を占めると彼は考えた。しかし、パウロが義認について語る時、伝統によってパウロが語っていると考えられてきたものについて語っていると、サンダースは想定し続けている。

このことは、実際には事実ではないことを私は示唆したい。パウロ思想における義認の位置について言えば、それが中心には置かれ得ないことを既に指摘した。と言うのは、その位置は既にイエス自身と、イエスが絶対的に王であることの福音の宣言によって占められているからである。しかし、このことは、義認が二次的なものとなることを意味しないし、本質的でないものとなることはなお意味しない。私がブレーデやシュバイツァーに同意すると考えないでほしい。むしろ、パウロが「義認」によって意味することを正確に理解するなら、それが「福音」によって意味するところのものと有機的に、また総体的に関連していることを知るようになるだろう。義認を福音から引き離すならパウロの中心部分を抜くことになる。しかし、この主張は、それ自体では義認が実際に何であるのかを示すものではない。

義認の議論は教会史の多くにおいて、特にアウグスティヌス以来、まずいものとなり、今に至るまでそうであり続けてきた。アリスター・マクグラスは義認についての記念碑的歴史書において、冒頭から、この可能性を見越している。彼はこう書いている。「義認論は聖書的起源から全く独立した意味を発展させ、神に対する人の関係が確立される手段に関わってきた。(略)」パウロが一つの言葉で何を意味しようとも、教会がその言葉をほとんど二千年間もの間何かほかのことを意味するために用いて来たとすれば、それは問題外のことだ。しかしそれでも問題は残る。「義認」と呼ばれるようになったものについての教会のすべての議論では、パウロ自身がもちろんのこと引き合いに出される。もしパウロが「義認」によって続く議論が示唆してきたのとは全く違う何かを意味したのだとすれば、彼へのアピールはだいなしになり、全く無効とさえなるかもしれない。もし我々がパウロ自身を理解しようとするなら、そのようなテキストが実際に誤用されたかどうかを問うことは重要である。そして、その質問に対する答えとして私が示唆するのは、大文字の「イエス」である。

マクグラスは言う。教会の「義認論は、キリストにある人間に対する神の救いの行為がいかに個人に適用されるかについての問題である。」すなわち、それは「人がキリストを通して神との関係に入るためになりをしなければならないかの問題」である。古典的に、この教理はアウグスティヌス以来、ペラギウス主義の色々なバージョンを撃退することに関心を抱いてきた。もちろん、あなたがペラギウスのプログラムを達成することができると純粋に考える誰かに出会ったら、あなたはやさしく、しかし断固として彼らを正すべきだと私は主張しなければらない。人間が自分自身で神の臨在や神の救いに間に合うようにできるということは全くありえないことである。

しかし、いかにして人間が生ける救い主なる神と生きた救いの関係に入るかについての問題を心に抱いてパウロに近づくなら、彼の唇やペンに起こってくるのは義認ではない。人々がキリストにある神のみわざに直面して、そのみわざを自分たち自身に適用させようとするかをパウロが表現する時には、彼は明確な一連の思想を持っている。イエスとその十字架と復活についてのメッセージ、すなわち「福音」が彼らに告げられる。この手段を通して、神は彼らの心に御霊によって働く。結果として、彼らはメッセージを信じるようになる。彼らはバプテスマを通してクリスチャン共同体に連なり、その共有の命と共有の生き方を分かち合い始める。それが人々が生ける神との関係を持つようになる方法である。

もしあなたがこれは信仰義認によって自分が意味するものだと言うなら、パウロがたとえば第一テサロニケ1章でしているように、この思想の連関を示そうとするとき、義認について語っていないという事実に我々は注意を払わなければならないと答える。それは彼が語っていることではない。もしあなたがローマ人への手紙全体が人がどのようにクリスチャンになるかについての記述であり、義認はそこでの中心だと答えるなら、ローマ人への手紙のこのような読み方は、何百年もの間テキストに対して組織的に暴力を行ってきたのであり、テキスト自身がもう一度聞かれるべき時であると答えるだろう。パウロは実際、教会が「義認」と呼んできた主題について語っているが、彼はそのために「義認」という用語を用いない。

それではパウロは「義認」という用語を用いるとき何を意味しているのだろうか。そして、これは福音とどのように関連付けられているのだろうか。私は今や、前章で「神の義」を理解するために提供した三重の格子と密接に対応するものとして、パウロの義認用語についての三重の局面について論じよう。

第一に、それは「契約的」用語である。16、17世紀の議論を通して有名になった「契約」の意味ではなく、1世紀ユダヤ教の意味であるが。パウロが義認について語るとき、彼は第二神殿期のユダヤ教の思想世界の中で語っており、第二神殿期ユダヤ教は増大する困難の中にある政治的状況に直面して契約的約束に固執していた。

第二に、「法廷的」用語であって、強い説明的メタファとして契約的状況内で機能する。二つの事がこれについて言われなければならない。第一に、このメタファは契約が一体なんであるのかを理解するために必要である。契約は世界を正しくし、悪を取扱い、世界に対する神の正義と秩序を回復するために存在する。第二に、それは契約的状況と独立させてはならない。もしそれが絶対的で孤立的概念にされてしまったならば、それ自体と、契約の基本的意味とに暴力を働かずには置かない。

第三に、パウロにとって義認は「終末論」から離れて理解できない。すなわち、それは、ランダムに適用されうる抽象的あるいは非時間的システム、救いの手段とされることができない。それはパウロの世界観の一部であり、そこにおいて世界の創造者がユニークに、劇的かつ決定的にイエス・キリストにおいて、全世界の救出のために働き、今や、キリストの御霊によってすべてのものをこのイエスに従わせておられるのである。

このことは詳細にはどうなるのか。これに答えるため、我々はもう一つのステップに戻らなければならない。すなわち、今度はパウロ自身のユダヤ人の世界へである。


2.パウロのユダヤ教的文脈における義認

私は既にタルソのサウロの世界観とアジェンダを概観した。彼は彼自身の告白によれば熱心なパリサイ人であり、見解においては徹底的革命主義に近かった。サウロは、行為義認であろうと他の何であろうと、非時間的な救いのシステムに関心はなかった。彼は神がイスラエルを贖われるのを望んでいた。サウロのような人々は自分たちの死後の魂の状態には特に関心を持たなかった。彼らは一人の真の神がご自身の民イスラエルに約束した救いにしきりに関心を持った。

この望みの一つの特徴は、この点で強調される必要がある。「契約の目的は単に創造者が、世界の残りの運命に関係なく、イスラエルを特別な民として持つということでは決してなかった。」契約は世界の罪を扱い、世界の救いをもたらすために存在した。従って、この偉大な出来事は悪が通常扱われる状況から引き出された用語において、すなわち法的用語で表現されるはずだということは全く適切である。前章でみたように、神ご自身は裁判官として見られる。悪人はついには裁かれ、罰せられるであろう。神の忠実な人々は、擁護されるであろう。彼らの贖いは、政治的開放、神殿の回復、究極的には復活自体の、物質的かつ完全な形態をとり、偉大な法廷の決着、偉大な裁判官の前での偉大な勝利として見られるであろう。

この「義認」はこうして「終末論的」でもある。それはイスラエルが長く育ててきた望みの最終的成就となるであろう。しかし、重要なことは、この出来事はある状況下で「期待され」うることである。特定のユダヤ人たちは、他のすべての人々が彼らを真のイスラエル人と見る日に先立って、自分たち自身を真のイスラエル人として見るだろう。トーラーに対する適切な仕方に固執する人々は、自分たちが将来擁護される者たちであるということを、今確信させられる。このスキームは思うに、クムラン写本、特に最近出版された4QMMTという名で呼ばれる巻物において最も明確である。そこでは、「行為義認」は一種の原ペラギウス主義者を企図するユダヤ人個人とは何の関係もない。関係するのは、最終的な終末論的決着に先立つ真のイスラエルの定義である。この状況下での義認は、従って、「いかに人は真の神の民の共同体に入るか」ではなく、「誰がその共同体に所属しているかをどのようにして語るか」である。

一旦、一世紀ユダヤ教の契約神学が実際どのように働くかを理解するなら、法廷用語、「参与」用語や他の多くの用語が落ち着き、混乱なしにぴったりとはめ込まれ、混同なしに区別される。しかし、これを更に推し進めるためには、最後にパウロに戻らなければならない。正確にはパウロは「義認」によって何を意味し、「福音」によって意味するものとどう関連付けられるのだろうか。


3.パウロのキリスト教神学における義認

時系列の順序と私が信じるものによって、これらの手紙を議論し、それからいくつかの筋道を引き出したい。

○ガラテヤ人への手紙

逆の長い伝統にもかかわらず、パウロがガラテヤ人への手紙で扱う問題は、誰かがクリスチャンになるため、あるいは神との関係に入るための正確な方法の問題ではない。彼が扱う問題はこうである。彼の元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か。この問題は、アウグスティヌスとペラギウス、あるいはルターとエラスムスが直面していた問題とは明らかに全く関係がない。1世紀の文脈においては特に、それはあなたが「神の民をどう定義するか」の問題と明らかに関係がある。神の民はユダヤ民族のバッジによって定義づけられるのか、あるいは他の何かの方法で定義づけられるのか。割礼は、「道徳」の問題ではない。それは道徳的努力や良い行いで救いを得ることとは関係がない。従ってすべての宗教的儀式を原ペラギウス主義者の良い行いとして意味させることもできないし、ペラギウスを結局のところ主要な敵としてガラテヤに持ち込むこともできない。一世紀の思想は、ユダヤ教思想にしろクリスチャン思想にしろ、そのようには働かないのである。

それでは、ガラテヤの手紙の議論は、ことに決定的な章である2-4章では、どう進むのか。アンテオケの教会で問題となっていることは、パウロが2章で言及していることであるが、人々がどのようにして神との関係に入るかという問題ではなく、誰が一緒に食べることを許されるかという問題である。誰が神の民のメンバーなのか。元異教徒の回心者はメンバーであるのかどうか。この問題をパウロは明らかにガラテヤ人たちが直面する問題のパラダイムとしてみなしているのであるが、その問題の中で特にいくつかのことが際立っている。

第一に、文脈は決定的に契約的である。ガラテヤ3章はアブラハムの子孫についての長い講解であって、最初に契約的章、創世記15章について焦点を当て、他のさまざまな契約的諸節、特に申命記27章からの諸節に進む。彼は実際的主題に戻っているのであって、それはアブラハムやガラテヤ人らが信仰に来る方法ではなく、誰がアブラハムの子孫に属するかという問題である。これは3:29において明らかであって、そこでの議論の結論は、「あなたがアブラハムの子孫であるなら、あなたはキリストの内にある」というのではなく、全く逆である。神はアブラハムの子孫を確立された。パウロはそれを再度確証した。問題は誰がそれに所属しているかということである。パウロは、キリストにある全ての者がその民族的背景に関わらずそれに所属している、と言う。

更に、パウロの議論は伝統的な20世紀の学問上の戦闘ラインを切り分け進む。もしあなたがローマ人への手紙に集中し、そうしながら片目をつぶるなら、1-4章を(サンダースの用語で)「法廷的」なものとして、5-8章を「参与的」なものとして扱うことがうまくいくであろう。しかし、ガラテヤ人への手紙では、二つのカテゴリーは、幸いにもごちゃまぜにされており、3章の最後の節ではとりわけそうである。(3:24-29)

ことに、ガラテヤ人への手紙においてトーラーに対する議論は、もし我々がそれを直截的な自己救済的道徳主義やより微妙な「律法主義」のわなに対する議論に「翻訳」するなら、うまくいかないであろう。律法についての節は、我々がそれらをユダヤ民族の民族的証書としてのユダヤ人律法、トーラーに対する言及として見るときのみ、うまく働く。

パウロはトーラーを悪いものとはみなしていない。彼はそれを神の秘められた計画の一つの重要なステージの部分としてみなしている。そのステージは、今や働きだし、完成された。時は新しいステージのために到来した。キリストにあって、御霊によって、一人の神が救いを人種に関わりなくすべての者に拡大されたのである。それはアンテオケやガラテヤで聴く必要のあるメッセージであった。

この文脈において、パウロが義認によって意味しているのは、それゆえ明らかである。それは、「あなたがどのようにしてクリスチャンになるか」ということよりもむしろ、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」ということである。二種の人々がクリスチャン信仰を共有しているとすれば、彼らは先祖に関わりなく食卓の交わりを共有することができると、パウロは言う。そして、このことすべては、もちろん十字架の神学に基礎づけられる。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはや私ではない、キリストがわたしの内に生きている。」と彼は言う。十字架はタルソのサウロが自分自身で享受していると考えていた特権的区分を除去した。彼が使徒パウロとして持っている新しい命は、古い実存によってでなく、十字架につけられ復活されたメシアによってのみ定義づけられる命である。

事実、十字架は、歴史における贖いのターニングポイントである。イスラエルの契約的ストーリーのゴールである。神が世界を癒す方法である。十字架を通して、「世は私に釘づけられ、私は世に対して釘づけられた」。従って、「割礼があるかないかは問題ではない。重要なのは新しい創造である」(6:14-16)。これは契約的用語である。ガラテヤ人への手紙において、義認はキリストへの信仰を共有するすべてのものが、その人種的違いに関わらず、同じテーブルに属し、共に最終的新創造を待ち望むということを主張する教えである。

○コリントの類似表現

コリント第一1:30を一瞥する。そこではパウロは、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは神のみわざによる。キリストは私たちにとって神からの知恵、義、聖、贖いとなられた。」と言う。この短い要約から、義認についての何らかの正確な教義を絞り出すことは難しい。それは「キリストの転嫁された義」と言われるもの―これは新約聖書においてよりも後期改革派神学と敬虔主義においてより多く見られる表現である―が聖書本文の中に何らかの基盤を見い出すものとして私が知る唯一の箇所である。しかし、もし我々がそれをそのようなものとして主張するなら、我々はキリストの転嫁された知恵、キリストの転嫁された聖、キリストの転嫁された贖いについても語る用意をしなければならない。パウロが言いたいポイントは大きなものであって、人間が誇りとするすべてのものは、キリストの十字架の福音の前には無であるということである。我々が持つ価値のあるすべてのものは、神からのものであり、キリストの内に見い出される。

○ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙に進もう。ここでは、3章2-11節がある目的のために重要である。義認それ自体は1節で述べられるだけであるが。

私のこの節の仮の読みはこのようなものである。パウロはピリピの人々に次のような可能性を示している。すなわち、彼がキリストを得るために自分のすべての特権を捨てる備えをしたように、彼らも自分たちの特権に対して同じことをしなければならないかもしれない。彼はこの議論を基礎づけ、彼らが、2章5-11節のイエス・キリストについての詩によって、自分にならうようにと言う。この設定において、パウロはピリピ3章で救いの切り離されたシステムや他の名前のもとでのアウグスティヌスーペラギウス論争についてではなく、契約のメンバーシップについて率直に語る。彼は事実こう言う。私は、肉によれば契約のメンバーシップを持っているが、その契約のメンバーシップを利用すべき何かとは考えない。私はメシアの死を共有し、自分自身をむなしくする。そのゆえに、神は私に実際に有効なメンバーシップを与えられ、そこにおいて私もまたキリストの栄光を共有するであろう。

これはどう働くだろうか。パウロはまず自分の民族的契約的特権のリストを挙げ、次に自分の新しい立場の特徴のアウトラインを語る。後半の説明の中心ポイントは、疑いもなく、義認ではなく、キリストである。キリストについては半ダース以上触れているが、義認については一度だけである。

我々の目的の決定的な節は3:9である。それは「義認」用語が実際にどう働くかの明らかな言明を提供する。

まず、それは「メンバーシップ」用語である。パウロは彼がトーラーによる「自分自身の」義を持たないというとき、先行する諸節の文脈から意味されるのは、彼が契約的立場としての義について語っているということである。それは生まれながらのユダヤ人として自分のものであり、割礼という契約的バッジによって特徴づけられ、熱心なパリサイ人であることによってその人々の仲間の一部であると主張するものである。彼が9節の前半で拒絶しているのは道徳的あるいは自助的義ではなく、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態である。

二番目に、パウロが今楽しんでいる契約の状態は、神の賜物である。それは、「ディカイオスネー・エク・セウー」(神からの義)である。(既にみたように、これは神「の」義、ディカイオスネー・セウー自体と混同してはならない。)パウロはここでは契約的「メンバーシップ」の立場について語っている。それは神の賜物であって、内なる人間性によってはどのようにしても獲得されるものではない。この賜物は、信仰に対して与えられる。この描写における信仰の位置は、長い間後期改革派の教義学において、議論の対象であった。信仰は神の好意をえるために私が「する」ことなのか。そうでなければ、信仰の果たす役割は何か。一旦パウロの義認言語を「人がどのようにしてクリスチャンになるか」を表現しなければならないという重荷から解放したら、このことはもはや問題ではなくなる。クリスチャンの信仰を結局のところ代理的「行為」やとりわけ道徳的義の代替的形態と考える危険性はない。信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない。

このことが実際にはどう働くかを考えよう。以前語ったように、人々がいかにして救いに導かれるかについてのパウロの概念は、福音の宣教で始まり、その福音における、また福音を通しての御霊の働き、そして、聞く者の心に対する御霊の働きの結果へと続き、信仰の誕生に至ること、そしてバプテスマを通して家族に加わることで結論づけられる。「人は誰も聖霊によらなければ『イエスは主である』と言うことができない」(一コリント12:3)。しかし、その告白がなされたとき、(恐らく自分自身でも驚くことに)福音を信じるこの人が真の契約的家族の内にいることが明らかにされたということを神は宣言される。義認は人がどのようにしてクリスチャンに「なる」かということではない。それは彼らがクリスチャンに「なった」ということの宣言である。そして、ピリピ3章におけるこの教義の全体的文脈は待望の文脈である。それは個人が今の世から引き出されるという最後の救いについての待望ではなく、主が世のものを変革するために天の領域から来られるときの最終的新天新地の待望である(3:20-21)。義認は、法廷、参与、その他すべての含みすべてを伴って、全体的契約的枠組みに属する。それはピリピの人々に彼らの責務が次のようなものであることを思い起こさせる。すなわち、同世代の人々がカエサルについて考えるように、すなわち、救い主(ソーテール)となられる主(キュリオス)として考えるように、キリストを考えるべきこと、その結果、神の民における自分たちの契約的メンバーシップを神の賜物として受けるべきことである。

○ローマ人への手紙

それでは、ローマ人への手紙に進もう。

初めに、本書3章より、最も重要なポイントの一つを繰り返す。パウロが「福音」と言うとき、彼は「信仰による義」を意味しない。イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを意味する。既に見たように、ローマ1:3-4が彼の福音の内容の要約を与える。ローマ1:16-17は福音の「内容」ではなく、「結果」の要約を与える。

それゆえ、ローマ1:16-17は、「福音は救いの真の枠組みとしの信仰義認を啓示し、ユダヤ人の自助的道徳主義に反対する」ということを意味しない。手紙の続く諸節の光において、それを十分解きほぐすとき、それは以下のような意味となる。

福音―メシアなるイエスの主権の宣言―は神の義、神の契約的誠実を啓示し、それは、世の罪をこの主イエス・キリストにおける契約の成就を通して取り扱うことである。神はこのすべてを正しく、すなわち公平に行われた。神は罪を取扱い、助けなき者を救われた。神はそれによりご自身の約束を成就された。

パウロが神を法廷における正しい裁判官として描くけれども、これは多くのメタファの一つではないということを心に留めてもよい。それは契約の中心、また目的を表明するものであり、罪を取り扱い、そうして世を救うものである。この目的は今や主なるイエス・キリストによって達成された。

しかし、どのようにして?手紙が進むにつれて、我々は問題に入り込む。多くの伝統においては、ローマ人への手紙は、「人がどのようにしてクリスチャンになるか」についての書物としてみなされてきた。しかし、2章がこの枠組みにどのようにして適合するか、全く明らかではない。多くの注解者と学者は自分たちが困惑していると宣言する。

とりわけ、ローマ人への手紙において義認の最初の言及が「行い」による義認の言及であり、見た所、それがパウロの是認を受けているように見えることは不思議である(2:13)。これを理解する正しい方法は、パウロが「最後の」義認について語っていると見ることであると私は信じる。例のとおり、終末論、イスラエルの希望が水平線を支配している。ポイントはこうである。最後の日に擁護され、復活させられ、契約の民であると示されるのは誰だろうか。パウロの答えは多くのノンクリスチャンのユダヤ人が賛同するものである。すなわち、最後の日に擁護されるのは、その心と生涯において、神が律法、トーラーを書き込まれた人々である。パウロがこの手紙で後に明らかにするように、このプロセスはトーラーだけによっては果たされ得ない。トーラーがなしたいと願ったができなかったことを、神は今やキリストにおいて、御霊によってなされた。そこで問題が迫ってくる。これらの人々は誰であるか。

2:17-24において、パウロはそれが民族によって定義づけられたユダヤ人ではありえないことを主張する。彼らの民族的誇り―イスラエル民族が不可避的に神の民であるという誇り―はイスラエルの捕囚状態の継続によって完全に破壊されている。イスラエル内部の罪の存在はイスラエルがそのままでは支持され得ないことを意味する。パウロは2:25-29において言う、しかし、もし真のユダヤ人がいて、その者の内に新しい契約が始められたのだとすれば?ある者たちの内にエレミヤやエゼキエルの新しい契約の約束が実現したのだとすれば?彼らが民族的にユダヤ人であろうと、そうでなかろうと、彼らが割礼をうけていようといまいと、彼らは神の真の契約の民として神にみなされることだろう。これが義認の教義である。あるいは、むしろその最初の鍵となる移行である。すなわち、ある時、ある偉大な日が来て、神がご自身の真の民を擁護されるだろう。しかし、我々は彼らが誰であるかをより正確にどのようにして知ることができるだろうか。

特に、もし神の契約の民が神に不正を行ったとすれば、神はいかにして契約に対して真実であり得るのか。これは3:1-9の問題である。ここでの鍵は、2節の「ゆだねた」という動詞である。「まずユダヤ人は神の言葉を委ねられた。」神はイスラエルに世界のためのメッセージを委ねられた。しかしもしメッセンジャーが不真実だと分かったら、それは送り手が不真実であることを意味するだろうか。もちろん、違う。必要なのは真実なメッセンジャー、真のイスラエルであり、彼は契約的任務を完成させ、達成するであろう。すなわち、その任務は世の罪を最終的に取り扱うものであり、その罪の故に、異邦人ばかりかユダヤ人も創造者の前に擁護なく裁判にかけられている(3:19、20)。ユダヤ人たちが一方におり、異邦人たちが他方にいるという偉大な法廷シーン、偉大な審判に対する彼らの切望は、ひどく間違っていたように見える。しかし、これはローマ3:21-31への道を備えている。

クリスチャンとしてのパウロの神学は、このような理解で始まっている。すなわち、すべての物事の終りに神がイスラエルのために行われると期待していたことを、神はすべての物事のさなかでイエスのために行われた。イエスにおいて、またイエスを通して、イスラエルの望みは実現された。彼は異教徒らの手による苦しみと死の後、死からよみがえらされた。この事実は、決定的パラグラフである3:21-31の中心である。

この節に対する私がしてきたようなアプローチは、しかしながら、これらの偽りの区別を避けるための文脈を形成する。この節は、今や契約、すなわちユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれたメンバーシップについてのものである。「それゆえ」それはイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いでもある。法廷は比喩的手段として適切な場所を得る。それによって神の契約的計画は実現される。ひとたび我々がパウロの契約的神学の性質を十分把握すれば、ある人々が表明してきた恐れ、すなわち、パウロの「契約的」読みは、罪と十字架についての適切な神学と調和しないだろうという恐れは、根拠のないものだと明らかにされる。契約の目的は、世の罪を取り扱うことであり、主なるイエス・キリストにおいて達成されたのである。

パウロは3:27において、「それでは誇りはどこにあるか」と尋ねる。「断じて!」この排斥されている「誇り」は、成功的道徳主義者の誇りではない。それは、2:17-24にあるように、ユダヤ人の民族的誇りである。もしこれがそうでないなら、3:29(「あるいは、神はユダヤ人だけの神なのか。異邦人の神でもあるのではないか。」)は不合理な結論となる。パウロはこの節において原ペラギウス主義を避けようという考えを持っていない。彼はガラテヤ書やピリピ書同様、ここでも、ユダヤ人の民族的特権に基づいて契約的メンバーシップに入る道はないということを主張している。

この文脈において、「義認」は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。それが契約の目的であるからである。彼らは比喩的な法廷において「義」であるという立場を与えられる。これが基底にある契約的テーマの用語で置き換えられると、彼らは将来見られるはずのもの、すなわち真の神の民であると、現在宣言されるということを意味する。現在の義認は将来の義認が全生涯に基づいて公けに主張するであろうものを(2:14-16と8:9-11による)、信仰に基づいて宣言する。そして、この宣言をする際(3:26)、神ご自身は次の点で正しい。すなわち、契約に対して真実であられたこと、罪を取り扱い、助けなきものを弁護し、十字架につけられたキリストにおいて公平にそうされたことにおいて。福音―「信仰による義認」でなく、イエスについてのメッセージ―はこうして義、すなわち、神の契約的真実を啓示する。

それでは、ローマ4章はどうだろうか。そこでパウロは、アブラハムの信仰について議論するのだが、ローマ4章は、しばしば示唆されるように抽象的教義に対する切り離された「聖書からの証拠」ではない。それは今や福音において開示された聖書的契約的神学の解説である。創世記15章は、この章全体のバックボーンである。すなわち、創世記15章は、アブラハムとの契約が最初に確立された章として見られている。パウロがアブラハムの信仰は「義と認められた」(4:5)と語る時、イエス・キリストへの信仰―あるいは、アブラハムの場合では、神が自分の高齢にもかかわらず、彼に世界大の家族を
与えるだろうという信仰―が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。普遍的罪深さを考慮すれば、このことは(もう一度)この種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。この章の強調点は、それゆえ、契約的メンバーシップが割礼によってではなく(4:9-12)、民族によってでもなく、信仰によって定義づけられることを意味する。それがアブラハムの家族が複合民族の家族であり得る理由であり、キリストにあって既にそうであるという理由である。更には、信じられているものの故に、信仰の性質自体が変えられている。もしあなたが遠くの力なき神を信じるなら、あなたは渇き、不毛となるだろう。もしあなたが死者をよみがえらせる神を信じるなら、あなたの信仰は、生き生きとし、命を与ええるものとなるだろう。アブラハムはこの神、死者をよみがえらせる神を信じる故に、信仰において強くなった(4:19-21)。この信仰は、神の民の内に入る権利を獲得するために、彼が「した」ことではない。それは、彼がその民のメンバー―事実、創立メンバー―であることを示すバッジである。

この基礎により、パウロはローマ5-8章において、この福音を信じるすべてのものが真の、罪赦された神の民であり、こうして将来の救いが保証されていること、その救いは神の世界すべての更新の一側面として、彼らの復活を含むということを議論する。5:12-21においては、パウロは、描いた描写から離れ、実際、事実上以下のように言う。ほら、契約内の神の目的はアダムの罪を扱うことだ。今やキリスト・イエスにあって、それが正確に神のなさったことだ。トーラーは奴隷状態を提供することができるだけだ。なぜなら、それはユダヤ人たちの問題、すなわち、彼らが「アダムにある」ことを強調するから。選ばれた民は、他のすべての者と同様、人間的であり、堕落している。しかし今や(8:1-4)、神はトーラーが実際にはしたかったことを果たされた。神は世に命を与えられた。その命は最終的には人間だけでなく全宇宙を罪と死の結果から解放する効果を持つ。8:31-39でほめたたえられているのは、福音と義認とのこの結果である。そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており、それはすべてのキリスト者の復活、今の苦難の後の彼らの擁護から成っている。

最後に、ローマ9:30-10:21は、神がイスラエルの歴史においてなされたことの結果を描き出す。神はイスラエルを世の救いの手段となるべく召された。神の意図は常にこの召命をメシアにまで狭めることであった。その結果、彼の死によって、ユダヤ人も異邦人も同様に、すべての者が救いを見いだすようになるのである。しかし、イスラエルが自分だけで自分の立場を維持することを主張するなら、自分自身の死刑執行令状にしがみついていることを発見することになるだろう。

こうして(9:30以降の思想の流れに従うなら)、異邦人は信仰によって特徴づけられた契約的メンバーシップを発見する一方で、イスラエルは契約的メンバーシップを定義づけたトーラーに固執した結果、トーラーに達しなかった。イスラエルはその契約的メンバーシップをトーラーの行いによってはっきり区別されるよう定められていた。すなわちユダヤ人だけに制限されたメンバーシップを保つ事柄によってである。その結果、イスラエルは神の契約的目的、神の義に従わなかった(10:3、4)。というのは、キリストは律法の終り、あるいはゴールだからであり、その結果、信じるすべての者が契約的メンバーシップを受けるのである。キリストは契約的目的を達成し、それらを神によって定められたクライマックスに導かれた。それは、常に罪を取り扱うものであり、全宇宙の更新を推進するものである。今やその目的は達せられ、残るものはミッションである(10:9~)。従って、ローマ人への手紙は、わが道を行く。人々がいかに救われるか、彼らが個人として神といかに関係を持つかについての切り離されたステートメントではなく、創造主なる神の契約的目的の説明としてである。この手紙は、とりわけ教会のミッションとユニティを強調する。それらはもしローマ人たちがパウロの宣教の更に西方への拡大の根拠地であろうとするなら、彼らが最も把握する必要のあるものであった。

○結論

パウロの義認論を要約しよう。

1.契約:義認は契約的宣言であって、終わりの日に布告される。その日には真の神の民は擁護され、偽りの神々を礼拝することを主張する者たちは間違っていることが示されるであろう。

2.法廷:義認は法廷における評決のように機能する。誰かを無罪とすることによって、義認はその人に「義である」という立場を授与する。これは将来の「契約的」申し開きの法廷的次元である。

3.終末論:この宣言、この評決は、究極的に歴史の終りにおいてなされる。けれども、イエスを通して、神は歴史の中でその終りになされると期待されてきたことをなされた。その結果、その宣言、その評決は、既に今、先立って布告されることができる。終りの日の出来事は、イエスが十字架上でイスラエルの代表たるメシアとして死に、よみがえられたとき、「予期されていた」。(これはパウロ自身の神学的スタート・ポイントであった。)それゆえ誰かがイエスについての福音メッセージを信じるとき、終りの日の評決は今や予期されている。

4.それゆえ、―このことは特にガラテヤ書の議論の重要な要点であるが、ピリピ書やローマ書でも重要な役割を果たす―イエス・キリストの福音を信じる者すべては、罪赦された真のアブラハムの家族のメンバーとして既にはっきりと区別されている。

彼らは信仰によって、特にイエス・キリストの主権についての「福音」メッセージを信じることによって、区別されている。これは、「律法の行いから離れた義認」という決定的用語の意味である。ユダヤ人たちのある者たちが現在、終末論的評決の前に、それによって自分自身を区別しようとしてきたメンバーシップのバッジは、律法の行いに焦点が置かれていた。それは、自分たちを契約を守る者、真のイスラエルとして区別する行いであった。「律法の行い」、安息日、食物規定、割礼は、こうして彼らが学者たちが言うところの「開始された終末論」と呼ぶものの基準を獲得できるようにした。それにより、将来来るべきものを現在期待できるのである。将来の評決(世界の他の者たちに対する真のイスラエルの神の擁護)は、今やイエス・キリストにあって期待される。

パウロは、通常、ユダヤ教の教義の「形」を保持し、それを新しい「内容」で満たす。彼にとって、契約的メンバーシップは、福音そのもの、すなわち、イエス・キリストによって定義づけられている。誰が「終末論的」契約の民の内にいるかを「今」語りうるためのもの、メンバーシップのバッジは、もちろん信仰であり、イエスは主であるという告白、神はキリストを死人のなかからよみがえらせたという信仰である(ローマ10:9)。パウロにとって、「信仰」は人が既にメンバーであると宣言するバッジである。それはまた、福音のメッセージ、イエス・キリストにおいて、またイエス・キリストを通して定義づけられた真の神の告知に対する信仰である。

関連して、この議論の二つの結論が指摘される。

第一に、サンダースは改革を十分遠くまで実行しなかったことは明らかである。しかし、もしそれがなされるべきほどに実行されたなら、パウロの完全に伝統的な読みの土台を削り取るのでなく、むしろそれをより十分新鮮なものとすることになろう。

第二に、私は再び信仰による義認の教理はパウロが「福音」によって意味するものではないということを強調しなければならない。それは福音によって「暗示されている」。明確にしよう。「福音」はイエスの主権性の告知であり、それは力を持って人々に働き、人々をアブラハムの家族、今やイエス・キリストを巡って再定義され、彼に対する信仰のみによって特徴づけられるアブラハムの家族に加わらせる。「義認」はこの信仰を持つ人々すべてがこの基礎だけに基づいて、この家族の十全なメンバーとして所属するということを主張する。

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