長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

第7章 義認と教会(その2)

2016-09-21 21:02:47 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

おそらく、本書が論争の的となる要因のほとんどは、この章の内容にあると見てよいかと思います。この章におけるライトの主張が、伝統的な義認論に対して、修正を迫っているように見えるからです。更には、義認論に関連する形で、福音理解についても重要な主張を展開しています。様々な要因が複雑に絡み合っていますので、できるだけ整理しながら、コメントしてみたいと思います。

1.「ライトの義認論」とは何か

今年の第6回日本伝道会議でも、「ライトの義認論」についてのディベートが分科会の一つとして行われます。国内ばかりか、世界的にも注目され、議論されているテーマでもあるので、注意深い取り扱いが必要かと思います。ただ、「ライトの義認論とは何か」というテーマについて、私が書き得るのは、本書に記されている範囲内にほぼ限られています。あくまでも「本書を読んで私なりに理解したところ」とご理解の上お読みいただければと思います。

ここで、「伝統的義認論」とは、保守的なキリスト教理解における一般的義認論を意味します。本章を読めば、ライトが伝統的義認論に対して何らかの修正を迫っているように見える、という点では、ほとんどの読者が一致するだろうと思います。ただ、それでは、伝統的義認論に対して、ライトはどの点で修正を迫っているのか、という点では、相当のばらつきが出るかもしれません。私自身、本書、特に前章、本章を読み返しながら、「伝統的義認論とどこが違っているのか」、「伝統的義認論のどの点に修正を迫っているのか」、何度も考えさせられました。もちろん、「伝統的義認論とどう違っているか」という問題の前に、「ライトの義認論とは何か」という課題があります。そして、実は、「ライトの義認論とは何か」という課題に答えること自体がかなりやっかいな課題であるとも痛感させられています。ここでは、本書を読んだ限りでの私の見方をまとめてみたいと思います。

(1)「ライトの義認論」理解のための基本的ポイント

まず、「ライトの義認論とは何か」を考える上で、見逃してはならないと思われるいくつかの基本点を挙げてみます。

a.ライトは(少なくとも)本書において、「パウロの」義認論を扱っている。

本書のタイトルは、「聖パウロが実際に言っていること」です。従って、本書が「義認論」を扱う際、実際に扱っているのは、「パウロの義認論」であって、新約聖書全体の義認論を扱っているわけではない、ということです。伝統的義認論の構築において、パウロの手紙が大きな役割を果たしてきたのは事実ですが、福音書やヘブル人への手紙も一定の役割を果たしてきました。その意味で、本書が取り扱っているのは、基本的にパウロの義認論に限られていることに注意する必要があります。

b.ライトは、基本的にはパウロが用いる「義認」用語の正確な理解を問題にしている。

更に重要な点は、ライトが本書で扱っている「パウロの義認論」とは、基本的には用語理解の問題だという点です。ライトの主張は基本的にはあくまでも新約学者としてのものです。すなわち、ライトの本章での取り組みは、伝統的義認論が重要視してきたパウロの用語(「ディカイオー」「ディカイオスネー」)を用いる場合、それは正確にはどのような意味合いを持つものとして用いていているのかを追求したものだということです。ですから、ライトが「パウロの義認論は~である」と言った場合、これを従来の組織神学で用いられてきた「義認論」と受け取ると意味が通じなくなります。そういったライトの表現は、それ自体では伝統的義認論に対抗して語っているわけではなく、パウロが使っている「ディカイオー」「ディカイオスネー」といった用語をどのような意味合いで使っているか、あくまでも、新約学者としての判断を基礎としながら、それらの用語理解への提言を行なっていると受け取ることができます。しかし、そのことがかなり分かりにくくなっているのは、ライトが用語理解の問題と絡めつつ、その用語を理解するための新たな枠組みの提言も同時に行なっているからではないかと思います。(このことについては、(c.)で取り上げます。)ですから、単なる「用語理解の問題」では収まらない主張に至っているのは事実ですが、そうではあっても、基本的には用語理解の問題が根底にあるという基本線を忘れてはいけないと思います。

たとえば、ライトは次のように言います。「パウロは実際、教会が『義認』と呼んできた主題について語っているが、彼はそのために『義認』という用語を用いない。」(117頁)。すなわち、伝統的義認論が内容とするところをパウロが語っていることを、ここでライトは否定しておらず、むしろ、肯定していることは注目すべきことです。しかしながら、伝統的義認論が内容とするところを言いあらわすためにパウロは「義認」という言葉を用いていない、という主張です。

c.ライトは、パウロの「義認」用語を正確な理解するための新たな枠組みを提言している。

他方で、ライトはこのような用語問題をより大きな枠組みとの関わりで理解しようとしているため、単なる釈義上の問題を越え、神学的に新たな枠組みを生み出すものとなっています。その結果、一見、伝統的義認論(組織神学的な枠組み内の)と対抗する別な組織神学的枠組みが作られたように見えますが、むしろ、従来の組織神学とはかなり違ったアプローチからの神学的枠組みから、これらの用語を理解し直そうとする試みのように見えます。

その枠組みがどんなものであるかをひと言で言うことは難しく思われますが、私なりに要約してみれば、「神が世界と人とを扱う大きなご計画(アジェンダ)」と言えるでしょうか。特に「義認」用語の理解に関して言えば、本書におけるキーワードとして繰り返し現れる、「契約」、「法廷」、「終末論」といった側面を含み持ちつつ語られるものになると思います。それは、これまでの組織神学的枠組みとはかなり違ったものであり、それはライト自身自覚しつつ、より聖書の文脈にかなった枠組みとして提唱しているように見えます。

(2)「ライトの義認論」の内容

このように考えますと、単純化して言うならば、ライトの義認論は、パウロの「義認」用語理解としての側面(ミクロ的側面)と、それを正しく理解するための枠組み(マクロ的側面)から成っていると見ることができます。このような視点で、ライトの義認論の内容をより具体的にまとめてみたいと思います。まずは、ライトの記述の順序に従って、マクロ的側面を先にまとめ、次いでミクロ的側面をまとめてみます。

a.(マクロ的側面)パウロの「義認」用語を正しく理解するための枠組み

ライトが主張するこの枠組みがどのような性質を持ったものなのか、特定することはなかなか難しいことですが、いくつかの重要な要素を指摘することができます。まずは、本章に入る以前に、既に本書の最初の方の章で明らかにされている要素を取り上げます。
・歴史性:ライトはしばしば、「非時間的な救いのシステム」について否定的な言及をしています。そこには、歴史性を踏まえない救済論を避けようとする強い意志が表現されているように思われます。ライトが提示する枠組みは、常に神のご計画の歴史的展開を意識しています。
・イスラエルの位置づけ:ライトが神のご計画の歴史的展開について言及する際、そこには必ずイスラエルを中心的な要素として据えます。これは、本書全体でも言えますし(2章等)、本章において、義認を扱う際にも、「パウロのユダヤ教的文脈における義認」という節を設けて、タルソのサウロの持つ世界観、アジェンダの中で義認がどのように扱われていたかを指摘しています。
・十字架と復活の中心性:同時に、この枠組みにおいてクライマックスとなるのは、イスラエルの代表としてのイエスの十字架の死と復活です。(3章等)
・主であり王であるイエス:十字架は罪と死、悪の力に対する決定的勝利として捉えられ、それ故復活されたイエスは、イスラエルと全世界の主であり、王であることが強調されます。(3章)
・福音とは、このようなイエスの主権性・王性の宣言である。(3章)

ここまでは、本書の初めの諸章で提示されている部分です。実はこれらの諸章の中で、既に「義認」用語の理解に関わる言及がなされています。すなわち、2章「タルソのサウロのアジェンダ」の中で、「義認」用語が取り上げられ、1世紀ユダヤ教が「義認」をどのように理解し、受け止めていたかを指摘しています。そこで既に、「義認」用語を理解する鍵として、「契約」「法廷」「終末論」といった要素が強調されています。

パウロの義認理解の前提としてのタルソのサウロの義認理解は、本章の中でも取り上げられ、「パウロのユダヤ教的文脈における義認」という節にまとめられます。ここでは、イスラエルの望みとしての契約の成就が法廷的用語としての「義認」で表現されること、それは同時に終末論的なものともなるという指摘がなされます。加えて、この望みが成就することは、ある状況下で「期待される」ことを指摘した上で、次のように書いています。「関係するのは、最終的な終末論的決着に先立つ真のイスラエルの定義である。この状況下での義認は、従って、『いかに人は真の神の民の共同体に入るか』ではなく、『誰がその共同体に所属しているかをどのようにして語るか』である。」(119頁)このようにして、タルソのパウロはじめ、1世紀ユダヤ教の文脈での「義認」が、イスラエルとの契約の成就としての「義認」が終末論的なものであることを前提としたうえで、そのような終末論的「義認」を望みうる「真の神の民が誰であるか」を告げるものでもあることが指摘されます。

パウロの義認理解は、このようなタルソのサウロの義認理解の「形」を継承していることをライトは指摘します。「パウロは、通常、ユダヤ教の教義の『形』を保持し、それを新しい『内容』で満たす。」(132頁)との一文が、そのような理解を端的に表現しています。継承された「形」とは、義認が「契約」の成就の法廷的側面を表す用語であって、終末論的でありつつ、今この時、そのような終末論的な契約の民とされていることの宣言でもある、といった側面をさすと考えられます。他方、このような「形」に満たされた新しい「内容」とは、誰がそのような終末論的な契約の民とされているか、契約的メンバーシップのバッジが、ユダヤ教で考えられていたように、安息日、食物規定、割礼といった「律法の行い」ではなく、「信仰」だということになるでしょう。ここでの信仰とは、「イエスは主であるという告白、神はキリストを死人のなかからよみがえらせたという信仰」、「福音のメッセージ、イエス・キリストにおいて、またイエス・キリストを通して定義づけられた真の神の告知に対する信仰」ということになります(132頁)。

以上のような枠組みの中で、注目すべき一つのことは、「義認」と「福音」との関わらせ方です。伝統的理解では、「信仰義認」は「福音」の全体ではないとしても、少なくとも中核的な一部分と見られてきたと思います。しかし、ライトの主張においては、「それ(義認)は福音によって『暗示されている』」と言われます(132頁)。すなわち、「福音が宣言される時、人々は信仰に至り、神によって神の民のメンバーとみなされる」と言います(132、133頁)。ここでは、義認が福音宣言の結果として起こってくるものであるという位置づけがなされています。福音は、「人々がいかにして救われるかの説明ではない。それは以前の章で見たように、イエス・キリストの主性の宣言である」ということですので、信仰義認が福音の中に含まれるとは考えないわけです(133頁)。かと言って、義認と福音との深い関わりを否定することもまたライトの意図ではありません。それは、本章のはじめに、次のように語っているところからも明らかです。「パウロが『義認』によって意味することを正確に理解するなら、それが『福音』によって意味するところのものと有機的に、また総体的に関連していることを知るようになるだろう。義認を福音から引き離すならパウロの中心部分を抜くことになる。」(114、115頁)「福音」と「義認」との関わりについて、本章最後に要約的に以下のように語られています。「『福音』はイエスの主権性の告知であり、それは力を持って人々に働き、人々をアブラハムの家族、今やイエス・キリストを巡って再定義され、彼に対する信仰のみによって特徴づけられるアブラハムの家族に加わらせる。『義認』はこの信仰を持つ人々すべてがこの基礎だけに基づいて、この家族の十全なメンバーとして所属するということを主張する。」(133頁)

おそらく以下のような図式的な捉え方をライトは嫌うのではないかという気がしますが、あえて分かりやすく図式化するなら、従来の捉え方では、
「福音」=「信仰義認」
あるいは、
「福音」⊃「信仰義認」
であったとすれば、ライトの理解では、
「福音」→「信仰義認」
ということになろうかと思います。

もう一つ、注目すべきことは、「開始された終末論」との関わりです。ひと言、ふた言ではありますが、本章の最後の方で、その点が言及されています。

「ユダヤ人たちのある者たちが現在、終末論的評決の前に、それによって自分自身を区別しようとしてきたメンバーシップのバッジは、律法の行いに焦点が置かれていた。それは、自分たちを契約を守る者、真のイスラエルとして区別する行いであった。『律法の行い』、安息日、食物規定、割礼は、こうして彼らが学者たちが言うところの『開始された終末論』と呼ぶものの基準を獲得できるようにした。それにより、将来来るべきものを現在期待できるのである。将来の評決(世界の他の者たちに対する真のイスラエルの神の擁護)は、今やイエス・キリストにあって期待される。」(132頁)

ここでも、パウロの義認論がユダヤ教の義認論の「形」を継承していることが指摘されているわけですが、その「形」の一つとして、学者たちが「開始された終末論」と呼ぶものについて触れています。すなわち、ライトは、義認が法廷的用語でありつつ、終末論的なものとして、「将来の評決」に関わることを指摘しますが、それが同時に「今既に」期待されるものとなっていることを指摘します。(ユダヤ教においては、それが期待されるための基準が律法にあったわけですが、パウロにおいてはそれがイエス・キリストに対する信仰によると言います。)従って、ライトの義認論は、「開始された終末論」としての枠組みも含み持っていると言うことも可能かと思います。

b.(ミクロ的側面)パウロが用いる「義認」用語に対する理解

以上のような枠組み(マクロ的視点)の中で見られる時、パウロがその手紙の中で、神が人を義とするという意味で、「ディカイオー」「ディカイオスネー」を用いる場合、それらが正確にはどのような意味合いを持つのかをライトは提示します。上記枠組みが非常にスケールの大きいものであり、複雑な要素を合わせ持つものであるため、その中に置かれた時の「義認」用語の理解も、一筋縄ではないように思われますが、私なりにあえて要約的にまとめてみますと、以下のようなことになるのではないかと思います。すなわち、ライトは「義認」が法廷的用語であることを積極的に肯定しますが、その意味合いは、非時間的なものではなく、神のご計画の歴史的進展性の中に置かれるべきものであり、旧約聖書やイスラエルの民との関わりが断絶したものではなく、極めて契約的なものであり、終末論との関わりが希薄なのではなく、極めて終末論的なものであり、個人的なものではなく、神の民としてのメンバーシップの宣言として捉えられています。

以上のようなマクロ的側面から見た「ライトの義認論」は、同時にミクロ的視点によって裏付けられます。すなわち、上記のような「義認」用語理解は、単に概念的な仮説として語られるのではありません。パウロの手紙の中に現れる「義認」用語が上記のような理解で読まれた場合、確かに手紙の個々の文脈に合致していることを確認する作業が行なわれます。それが本章の後半で行なわれていることで、時系列の順序とライトが信じるものによって、順次手紙が取り上げられます。ここでのライトの主張点(ミクロ的視点、釈義に関わる部分)を箇条書き的に挙げてみます。

○ガラテヤ人への手紙

・パウロがこの手紙で扱っているのは、「元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か」という問題である。
・2-4章で問題となっていることは、誰が一緒に食べることを許されるか、誰が神の民のメンバーなのか、誰がアブラハムの子孫に属するかという問題である(3:29)。
・ガラテヤ人への手紙においてトーラーに対する議論は、もし我々がそれを「律法主義」のわなに対する議論に「翻訳」するなら、うまくいかない。律法についての節は、我々がそれらをユダヤ民族の民族的証書として見るときのみ、うまく働く。
・この文脈において、パウロが義認によって意味しているのは、「あなたがどのようにしてクリスチャンになるか」ということよりもむしろ、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」ということである。二種の人々がクリスチャン信仰を共有しているとすれば、彼らは先祖に関わりなく食卓の交わりを共有することができる。そして、このことすべては、十字架の神学に基礎づけられる。

○コリント人への手紙第一

・「キリストは私たちにとって神からの知恵、義、聖、贖いとなられた。」(1:30)この短い要約を「キリストの転嫁された義」という概念の根拠とすることはできない。パウロが言いたいポイントは、我々が持つ価値のあるすべてのものは、神からのものであり、キリストの内に見い出されるということである。

○ピリピ人への手紙

・3章2-11節でパウロはピリピの人々に、契約のメンバーシップについて語っている。
・上記節で「義認」用語が現れる唯一の節は3:9である。それは「メンバーシップ」用語である。
・3:9で、パウロが自分はトーラーによる「自分自身の」義を持たないというとき、彼が拒絶しているのは道徳的あるいは自助的義ではなく、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態である。
・3:9で、パウロが得ているとされる義は、「ディカイオスネー・エク・セウー」(神からの義)であって、神からの賜物である。パウロはここで、契約的「メンバーシップ」の立場が神からしか与えられないことについて語っている。
・3:9における「信仰」は、契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない。

○ローマ人への手紙

・1:3-4は、パウロの福音の内容の要約を与える。パウロが「福音」と言うとき、イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを意味する。
・1:16-17は福音の「内容」ではなく、「結果」の要約を与える。
・1:16-17は、「福音は救いの真の枠組みとしの信仰義認を啓示し、ユダヤ人の自助的道徳主義に反対する」ということを意味しない。福音は神の義(=神の契約的誠実)を啓示し、それは、世の罪をこの主イエス・キリストにおける契約の成就を通して取り扱うことである。
・ローマ人への手紙において義認の最初の言及は「行い」による義認の言及であり、見た所、それがパウロの是認を受けているように見える(2:13)。これを理解する正しい方法は、パウロが「最後の」義認について語っていると見ることである。
・2:17-24において、将来義とされるべき真の神の民は、民族によって定義づけられたユダヤ人ではありえない。
・3:1-9の問題は、もし神の契約の民が神に不正を行ったとすれば、神はいかにして契約に対して真実であり得るのか、である。
・3:19、20、罪の故に、異邦人ばかりかユダヤ人も創造者の前に擁護なく裁判にかけられている。これはローマ3:21-31への道を備えている。
・3:21以降で、問題に対する神の解決が明らかにされている。神は今や、真のユダヤ人、メシア、イエスを通して、ご自身の義(=契約的真実)を明らかにした。
・パウロが3:27において排斥している「誇り」は、成功的道徳主義者の誇りではなく、ユダヤ人の民族的誇りである。3:29参照。彼はここでも、ユダヤ人の民族的特権に基づいて契約的メンバーシップに入る道はないということを主張している。
・この文脈において、「義認」は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。彼らは比喩的な法廷において「義」であるという立場を与えられる。これが契約的用語で置き換えられると、彼らは将来見られるはずのもの、すなわち真の神の民であると、現在宣言されるということを意味する。現在の義認は将来の義認が全生涯に基づいて公けに主張するであろうものを(2:14-16と8:9-11による)、信仰に基づいて宣言する。そして、この宣言をする際(3:26)、神ご自身は契約に対して真実であられたことにおいて正しい。福音はこうして義、すなわち、神の契約的真実を啓示する。
・ローマ4章は、今や福音において開示された聖書的契約的神学の解説である。パウロがアブラハムの信仰は「義と認められた」(4:5)と語る時、信仰が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。このことはこの種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。この章の強調点は、それゆえ、契約的メンバーシップが割礼によってではなく(4:9-12)、民族によってでもなく、信仰によって定義づけられることを意味する。アブラハムはこの神、死者をよみがえらせる神を信じる故に、信仰において強くなった(4:19-21)。この信仰は、彼が「した」ことではなく、彼がその民のメンバーであることを示すバッジである。
・パウロはローマ5-8章において、この福音を信じるすべてのものが真の、罪赦された神の民であり、こうして将来の救いが保証されていること、その救いは神の世界すべての更新の一側面として、彼らの復活を含むということを議論する。
・5:12-21においてパウロは、事実上以下のように言う。契約内の神の目的はアダムの罪を扱うことだ。今やキリスト・イエスにあって、それが正確に神のなさったことだ。
・トーラーは奴隷状態を提供することができるだけだ。しかし今や(8:1-4)、神はトーラーが実際にはしたかったことを果たされた。神は世に命を与えられた。
・その命は最終的には人間だけでなく全宇宙を罪と死の結果から解放する効果を持つ。8:31-39でほめたたえられているのは、福音と義認とのこの結果である。そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており、それはすべてのキリスト者の復活、今の苦難の後の彼らの擁護から成っている。
・ローマ9:30-10:21は、神がイスラエルの歴史においてなされたことの結果を描き出す。神はイスラエルの召命をメシアにまで狭めた。その結果、彼の死によって、ユダヤ人も異邦人も同様に、すべての者が救いを見いだすようになるのである。こうして、異邦人は信仰によって特徴づけられた契約的メンバーシップを発見する一方で、イスラエルは契約的メンバーシップを定義づけたトーラーに固執した結果、トーラーに達しなかった。その結果、イスラエルは神の契約的目的、神の義に従わなかった(10:3、4)。というのは、キリストは律法の終り、あるいはゴールだからであり、その結果、信じるすべての者が契約的メンバーシップを受けるのである。
・キリストは契約的目的を達成し、それらを神によって定められたクライマックスに導かれた。今やその目的は達せられ、残るものはミッションである(10:9~)。

・・・

以上、できるだけ聖書本文の釈義に直接的に関わる部分に絞って要約してみましたが、ライトの主張が、ミクロ的側面に関わるものであっても、常に大きな文脈、マクロ的視点と関わらせながら展開されていることが分かります。

(3)伝統的な義認論とどこが違っているのか

私なりに、「ライトの義認論」が何であるか、分析してきました。しかしながら、これだけ分析してみても、伝統的な義認論とどこが違っているのか、必ずしも明らかになったとは言えないような気がします。それだけ、ライトが提示する枠組みが、従来の組織神学的アプローチとは違っているということかと思います。それでも、「ライトの義認論」の評価のためには、伝統的な義認論とどこが違っているかをある程度明らかにしていくことが必要だと感じます。現段階での、私の理解ということになりますが、以下に、まとめてみます。

a.伝統的な義認論とどこが違っていないか

ライトの義認論と伝統的な義認論との違いを考える際に、「どこが違っていないか」を考えることもよいのではないかと思います。というのは、ライトの義認論を子細に調べてみると、最初にイメージされるほどは、伝統的な義認論と違っていない、と感じることがしばしばあるからです。たとえば、以下のような点を挙げることができます。

【ライトはパウロの義認用語が法廷的用語であることを認める。】

これは本章を読めばすぐ分かることですが、パウロの義認用語が法廷的用語であることをライトは否定せず、むしろ強調しています。

【ライトはローマ3:21-31がイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いについての記述であることを否定しない】

これは、本章におけるローマ3:21-31についての記述の中で、以下のように、比較的明瞭に記されています。

「この節に対する私がしてきたようなアプローチは、しかしながら、これらの偽りの区別を避けるための文脈を形成する。この節は、今や契約、すなわちユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれたメンバーシップについてのものである。『それゆえ』それはイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いでもある。」(128頁)

【ライトは、パウロが用いる義認用語の中に、「罪の赦し」の意味合いが含まれていることを否定しない。】

たとえば、ローマ3:24-26についての記述として、以下のような一文があります。

「この文脈において、『義認』は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。それが契約の目的であるからである。」(129頁)

あるいは、続く、ローマ4章についての言及の中にも、以下のような一文があります。

「パウロがアブラハムの信仰は『義と認められた』(4:5)と語る時、イエス・キリストへの信仰―あるいは、アブラハムの場合では、神が自分の高齢にもかかわらず、彼に世界大の家族を与えるだろうという信仰―が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。普遍的罪深さを考慮すれば、このことは(もう一度)この種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。」(129頁)

【ライトは、人々がいかにして救いに導かれるかについて、パウロが示唆していることを認める。】

ライトは、本書の中でいわゆる「オルド・サルティス」について否定的な評価をしているようにも見えますが、それは「福音」との関わりにおいてであることに注意する必要があります。「福音」は「オルド・サルティス」についてのものではないことについて、繰り返し語っていますが、同時に、ピリピ人への手紙についての検討の中で、以下のように記しています。

「以前語ったように、人々がいかにして救いに導かれるかについてのパウロの概念は、福音の宣教で始まり、その福音における、また福音を通しての御霊の働き、そして、聞く者の心に対する御霊の働きの結果へと続き、信仰の誕生に至ること、そしてバプテスマを通して家族に加わることで結論づけられる。『人は誰も聖霊によらなければ「イエスは主である」と言うことができない』(一コリント12:3)。しかし、その告白がなされたとき、(恐らく自分自身でも驚くことに)福音を信じるこの人が真の契約的家族の内にいることが明らかにされたということを神は宣言される。」(125頁)

すなわち、「福音の宣教」→「御霊の働き」→「信仰」→「義認」といったオルド・サルティスを提示しています。


b.伝統的な義認論とどこが違っているか(違っていない部分に関連して)

以上のように、ライトの義認論が伝統的な義認論と「どこが違っていないか」を見てきました。そうすることによって、「どこが違っているか」も明瞭になるような気がします。すなわち、違っていない部分が確かにある一方で、違っていないその部分に関わる形で、違っている部分が確かにあるということが分かるからです。以下、違っていない点のいくつかを再度取り上げながら、それと関わって違っている部分を確認してみたいと思います。

【ライトはパウロの義認用語が法廷的用語であることを認めるが、常に契約との関わりの中でとらえようとする。】

ライトは、確かにパウロの義認用語が法廷的用語であることを認めますが、それ以前に契約的用語であることを強調し、法廷的用語としての意味合いも、契約的状況との関わりの中に位置づけようとします。最初にパウロの義認用語が「契約的用語」であることを指摘した後、ライトは以下のように記しています。

「第二に、『法廷的』用語であって、強い説明的メタファとして契約的状況内で機能する。二つの事がこれについて言われなければならない。第一に、このメタファは契約が一体なんであるのかを理解するために必要である。契約は世界を正しくし、悪を取扱い、世界に対する神の正義と秩序を回復するために存在する。第二に、それは契約的状況と独立させてはならない。もしそれが絶対的で孤立的概念にされてしまったならば、それ自体と、契約の基本的意味とに暴力を働かずには置かない。」(117頁)

【ライトはローマ3:21-31がイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いについての記述であることを否定しないが、同時に契約に関わる記述であることを指摘する。】

a.で引用した箇所にあるように、ライトはローマ3:21-31が「イエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱い」についてのものを認めますが、同時に、またそれ以前に、「契約、すなわちユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれたメンバーシップについてのもの」であることを指摘しています(128頁)。

【ライトは、パウロが用いる義認用語の中に、「罪の赦し」の意味合いが含まれていることを否定しないが、それ以前に契約的用語であることを指摘する。】

この点についても、先に引用した箇所を読み返してみれば明らかです。3:24-26において、「義認」が「彼らの罪が赦されることを意味する」ことを認めつつ、それ以前に、「イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する」と指摘します(129頁)。ローマ4章についても、ライトはまずパウロがアブラハムの信仰が『義と認められた』(4:5)と語る時、信仰が「契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する」と指摘した上で、「普遍的罪深さを考慮すれば、このことは(もう一度)この種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。」と言います(129頁)。

以上を踏まえるとき、ライトは義認用語が法廷的用語であることを認め、イエスの十字架と復活において神が決定的に罪を取り扱われたこと、それゆえに、義認が罪のゆるしの宣言でもあることを認めますが、それ以前に契約的用語であって、法廷的用語としての意味合いは、契約的状況の中に位置づけられるのでなければならない、ということを繰り返し主張していることが分かります。

【ライトが示すオルド・サルティスは、改革派神学のものと類似しているが、用語の正確な意味合いは異なっている。】

ライトが示す、「福音の宣教」→「御霊の働き」→「信仰」→「義認」といったオルド・サルティスは、形式的には改革派神学のものと類似しています。ピリピ人への手紙の検討部分で、ライトは、「後期改革派神学」について触れています(125頁)。オルド・サルティスにおける信仰の位置について、後期改革派神学が、「人がどのようにしてクリスチャンになるか」と関わらせないことにより、信仰が結局のところ代理的「行為」になることを避けたことを指摘しつつ、ライトは、「信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが『なす』ことではない」と主張し(125頁)、「人が既にメンバーであると宣言するバッジである」と結論づけます(132頁)。

このようなオルド・サルティスの流れは、回心(信仰と悔い改め)を再生の後に位置づけようとしたカルヴァン主義の伝統に沿うものと言えます。但し、そこで用いられている用語の正確な意味合いは、伝統的な理解との間にずれがあることを踏まえる必要があります。「福音」は、従来「人がいかにして救われるか」ということに焦点を置いて理解されがちでしたが、ライトは、福音を「メシアなるイエスの主権の宣言」として理解します(126頁)。また、義認は従来、個人の救いに関わる用語とされ、個人の罪が赦され、神により義なる者として受け入れられみなされることを意味すると理解されてきましたが、ライトは、これまで見て来たように、パウロの「義認」用語を契約的用語として理解します。もちろん、法廷的用語としても理解しますが、その意味合いは契約的状況の中で位置づけられます。罪のゆるしの宣言でもあることを認めますが、契約的な理解をベースとして考えようとします。

このように、用語理解の上での違いはありますが、全体としての違いは、見かけほど大きいわけではなく、その違いの多くは、義認を個人の救いに関わらせるか、契約的状況の中で理解しようとするかから生まれていると言えそうです。言わば、「義認」理解のためのミクロ的側面(釈義的側面、用語の意味内容)についてはかなりの違いがありますし、マクロ的側面としても、個人的救済論の枠組みの中でなく、契約的用語として理解しようとする違いはありますが、従来の義認論を内容的に全否定するものというよりも、聖書神学的により適切にとらえ直そうとする試みとして理解するのがよいのではないでしょうか。但し、全否定でないとは言え、従来の義認論に様々な方面から修正を迫っているのも事実で、それらを正しく理解し、受け止め、それらの点をどう評価し、自らの理解をどこに置こうとするのかが問題となります。

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