瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

心の散乱をもあるがままに

2005年04月03日 | 瞑想日記
◆心の散乱をもあるがままに
数日前に、地橋先生の『ブッダのヴィパッサナー瞑想法「基本マニュアル」増補・新版』や『瞬間の言葉』のレビューをAmazonに書いたが、その中には「起きたことを起きたこととして、あるがままに確認するのがヴィパッサナー瞑想だ」とか、「集中すべき対象から心が飛んでいっても、その事実をそのまま直視する方向も重視する。集中が高まるなら高まる、散乱するなら散乱する、どちらも自然にしてあるがままに起きた現象なら、それを確認しようとするのがヴィパッサナー瞑想なのだ」という言葉を入れている。私自身が、ヴィパッサナー瞑想の素晴らしいところだと思うからこそ、こういう言葉を強調したくなる。

しかし、いざ実際の瞑想のなかで自分の反応を確認していると、集中も散乱も同様にあるがままにサティしているとは言い難い。散乱すると「あっ、また散乱した」と必ず否定的な反応をしているのが、今朝の瞑想でもよく分かった。たとえ微かであろうと否定的な反応をしていて、完全にニュートラルにはできていない。否定的な反応をしてしまっている気持ちの動きにも確実にサティをしていきたい。

◆心が思考に飛ぶ一瞬のプロセス
今朝の瞑想は、かなり思考が多かった。最初の思考でサティが入らず、二つ目、三つ目でサティが入る。そんな場合は、最初の思考が何であったか覚えていない場合が多い。覚えていず、気づいていないからこそサティが入らない訳だが。

腹への集中から思考へと飛ぶそのプロセスをよく見たいと思うのだが、これも意外と難しい。そのプロセスにサティが入れば思考まで行かない訳で、サティが入らないからこそ思考へ行ってしまう。そしてそのプロセスについては、自覚していないからはっきりしない。そんな場合が多い。

思考へと心が散乱していく一瞬のプロセスを、否定的な反応を伴わずによく観察すること。思わず否定的な反応が出ても、それはそれで淡々とサティをすること。

ある女性の魂の成長

2005年04月03日 | 普通の日記
最近、子ども部屋の移動や、それに伴う亡くなった母の遺品の整理、家具類の移動などで休日のかなりの時間を割いている。

昨日は、アメリカから一時帰国した女性とお会いした。アメリカで私のサイトを熱心に読んでくれていた人だ。彼女の臨死体験や霊的な体験、いくつかの苦悩の末の魂の成長の話を聞いた。気がつくと何と7時間近くもぶっ続けで話していた。彼女の現在の心の平和、物質的、外的な欲望が消えていった様、そんな目から見た現在の日本人の、とりつかれたように何かを追い求める空虚な姿、そんな話を共感をもって聞いた。

談話室の休止

2005年04月01日 | サイト更新管理
今日からしばらく談話室(掲示板)を休止することにする。どれほどの期間になるかは分からない。ともあれその間、瞑想に打ち込んでみたい。これは少し自分にプレッシャーをかけることになるだろうか。談話室を休止したからといって、毎日の生活は変わらず続いていく訳だから、変化は微々たるものだろう。しかし、気持ちの上では意外と大きいかも知れない。

実は、今日このまま休止にするかどうか、少し迷った。休止ではなく、私以外の人には書き込みを自由に続けてもらう。私自身は、書き込みをしばらく停止する。そして私は、他の人の書き込み原則として読まない。サイト管理上、書き込みに問題があるかどうか(いかがわしい宣伝など)のチェックができる範囲でサッと見るにとどめる。そんな形でも私の意図することは充分実現できるかも知れないなも思ったのだ。

そういう迷いはあったが、結局は休止することにする。中途半端な形ではなく、やはり休止という形でしばらく談話室からは完全にリトリートして、その分、瞑想に打ち込もうと思う。書き込みがあれば、やはり気になって読みたくなってしまいそうだからである。

なお、もちろんこのダイアリーは従来どおり続けていくつもりである。