https://note.com/lockwood/n/nacf7193991d0
『前回、座標としての、横線、縦線、距離、型共鳴という4つの要素について考え、時間は型共鳴を追いかけて進行すると書いた。なりたい自分イメージがあるとする。すると、今の自分となりたい自分の間にギャップがあっても、このa点とb点の間をつなぐ線の上で、自分をすこしずつ無理のない範囲で変形させ、最後なりたい自分に変貌する。この推移は、少しずつ変わる型共鳴の連続であり、これを食パンのスライスが並んだ光景として説明した。同じ形のものがあれば、意識は自分と区別がつかなくなり、この同じ形のものに自我が「漏れ出すように」移動していくことを避けられない。なので時間の推移の実感とは、意識や自我がパイプとか円錐の中を「抵抗感を持ちつつ」移動することなのだ。わたしが地球からスピカに移動したときには、筒の中を螺旋回転しながら進んだ。この時、自分が移動しているという時間感覚があり、一瞬で移動したわけではないので、わたしとスピカの間には、型の違いがあった。トンネルの中を数回回転したが、この回転は、4つの節目をいくつか体験することであり、この経験がはっきりした時間感覚を作った。たくさん回ったのかというと、比較的多く回った記憶がある。』
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あっとういう間に時間がたつ、というとき、意識や感情がなにものにも抵抗していない。
その場や状況の出来事に対して、肯定的な感情とともに没入するからだ。
逆に、嫌な時間というものは、自分の意識や感情が抵抗している。
すると、肉体的な感覚としては、「抵抗している」のだ。
この時間を過ごすのは、何か嫌だ、苦痛だ。そう感じると、とたんに時間は存在感をます。「時間が経つ」という感覚を得る。
ということは、逆に嫌だ・苦痛だという意識や感情をなくしてしまえば、時間が経つという感覚はなくなるということになる。
苦手や苦痛という意識・感情がなくなり、無となり、没入する。
すると時間が経つという感覚すら消える。
すると因果がなくなる。原因があり結果があるというのは、半分本当っぽく聞こえるが、半分は嘘だ。
「なりたい自分」に共鳴してしまえば、それはあっという間だ。理論上は。
ただ、多くの人間は時間への抵抗感や、因果というものを手放せない。囚われている。
いや、囚われているというよりも、時間という感覚や前提のうえに成り立っている。常識ですらない。無意識の前提。
その前提、土壌の上に無意識/表層化した意識を家のようにたてていれば、なりたい自分というものになるためには、時間をかけないといけない。
なら、自分の無意識の土台である「時間」を、因果のような直線的で単一方向的なものではなく、二方向的なもの、さらに螺旋的なもの、さらに共鳴(型共鳴)的なものとしていくと、世の中で自分におこる出来事が変わるのではないか。
願望実現で、予祝や、なりたい自分に近づくために、理想となった自分が行くであろう場所や環境に身を置くといった手法がとなえられているが、それは時間を「共鳴化」するための一手法であるのかもしれない。