画家の作風というものは、作品を観ながら。その変化を追ってみることは、なかなか、興味深いものである。38歳の若さで、谷川岳で、遭難死した夭折の画家は、「私は、自然になりたい」と言ったそうである。「ひぐらしの鳴く」と題する作品を観ていると、一瞬、1974年に日本経済新聞の後援で、開催されたアメリカのアンドリュー・ワイエス展を、想い起こさざるを得ない。今、再び、この時の絵画集を見直してみると、そこには、同じナチュラリティーとリアリズム、写実主義でも、そこにはない風景を描いたと思えるアメリカン写実主義と、逆に、そこに現存するある風景を通じて、光と陰の陰影を、葉の一枚、一枚や緑の草や、枯れ草の一本、一本まで、更には、梢を渡る風や、土や草の薫りまでも、感じさせる高みへと、精神性を、高めた画家の軌跡が辿れる。それは、スペインで学んだ作風から、徐々に、仏教的な東洋的な精神主義の画風へ、そして、多摩での生活、山岳登山を通じて、その延長線上のリアリティー追求へ、繊細な人形作家の細かな筆を使用した細密な写実主義へと、更には、その「密度」へ、又、更に、「色彩」へと、そして、モチーフも、自然の風景から、局部的に切り取られた「切り株」や、「ブナ」の樹木へ、究極の「写真のような絵」では、決してないところの「自然」の人間を寄せ付けないような「岩」、「渓谷の岩石」へと、遺作となった「暗き深き渓谷の入り口」と題する絵には、緑の木々をわざわざ、黒い灰色の基調に、画き換えて、大きな岩を前面に、流れ落ちる水しぶきを中心の後ろに、描いている。もう、そこには、「ひぐらしの鳴く」のような画風とは、全く異なる精神的な哲学的な境地に、到達しているように感じられる。この先には、どんな崇みに、到達して、何を描いていたのであろうか?大いに、興味があるところであるが、、、、、。生きていたら、同じような年齢に近いので、初老では、どんな作風に、変化していったのであろうか、「出口のその先」に、彼の作品があったら、どんなものか、観てみたいものであるが、、、、、、、。東御市八重原、梅野記念絵画館で、6月3日まで、芸術むら公園の湖畔の桜並木が、満開で、とても、綺麗で、浅間の眺めも良かった。景色を眺めながら、「私は自然になりたい」と言う画家の言葉を、改めて、思わざるを得ない。耳濯ぐでは無いが、何か、眼が、心が、洗われるような絵画展である。
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