「本物を見なければ、眼が肥えない」と、子供の頃、教えられたが、小林秀雄が「ゴッホの手紙」を執筆するきっかけとなった「泰西名画展」の「鳥のいる麦畑」は、後に、宇野千代が、手に入れてきた「複製画」であり、本物を見た後でも、終生、家で、好んで眺めていたと言われる。(ルオーの絵とは、別に)「複製画」の中にすら、「ゴッホという人間」を見いだせるものなのであろうか?「むしろ、本物の方が、生々しい色使いで、堪え難いものである」とも言っている。
あれは、ボルドー・ワインの輸入をしていた頃のことであろうか?途中下車でのパリのオランジュリー美術館で、モネの「睡蓮」を見たときのことである。日本では、自分勝手に、小さな絵であると思い込んでいたが、当時、改装中の館内の「睡蓮の間」は、想像とは、異なり、楕円形に作られた大広間の四方に、真ん中に、長めのソファーがあり、そこに、腰掛けて、その巨大な絵画を、じっくりと、眺めていると、太陽にきらめいて変化するその「光」と、その水面に反射する微妙な光に癒やされ、感動し、時間の経つのを忘れたものである。しかし、小林秀雄は、こう言う、「真ん中に立って、ぐるりと見廻すと、光の音楽で体が揺らめく様な感じがする。これは、自然の池ではない。誰もこんな池は見たこともないし、これからも見る人はあるまい。私は、モネの眼の中にいる、心の中にいる、そして、彼の告白を聞く。」小林は、明るい光の粒子に満たされた画面に、その「光と格闘する男の烈しさ」を見、心を癒やす柔らかな色彩に、「性急さ」を感じると、、、、、。良く絵画を見るときに、その時代背景や、画家の置かれた思想背景を考えながら、観賞すること、又、逆に、批評家のコメントや、一切の先入主を脇に置いて、無心で、観賞する方が、望ましいとも、、、、、。どちらが、適切なのであろうか?本物を見ること、審美眼を持つこと、そういう見方もあるのか、成る程、ますます、分からなくなってしまう。いつの日か、再び、オランジュリー美術館で、モネの「睡蓮の間」を、訪れる日が来たら、その時は、又、時を超えて、別の観賞の仕方が、あるのであろうか?依然として、壁に掛かった「複製画」を見る度に、悩ましくなる。我が老犬は、傍で、我関せず、爆睡中である。