ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

たそかれの雪

2018-02-18 04:18:47 | 短歌





銀鈴を 鳴らしつつゆく 巡礼の 幻を見る たそかれの雪





*幻想的な歌ですね。これは東京方面に雪が降った日の翌日に詠んだ歌です。

日ごろ雪の降らない東京に、積もるほど雪が降って、都会の人は結構大変だったらしい。ニュースやツイッターなどでその話題が多く取り上げられていました。

雪にもいろいろあって、降ってうれしい雪と、なんだか降られて困ることになる雪がありますね。

降られて苦しいと感じる雪は、大方人間世界の業の浄化のために振るのです。天候にもいろいろなわけがある。このときの東京に降った雪は、まさにこれでした。あなたがたにも見ればわかるでしょう。

人間は雪の中で大変な思いをしながら、浄めねばならない罪を浄めていたのです。

その人々の群れを、なんとなく銀鈴を鳴らしながらゆく巡礼、などと詠ってみたのですが。巡礼の目指すところは何なのか。それはおそらく、遠い過去になしたまま放ってある痛い記憶によびさまされることなのだ。

忘れているが、心の奥に常にうずいている何か。約束のように、人は自然にそっちに向かって歩いていく。そして運命の流れをつくっていく。

たそかれ時に降る雪は一層つめたかろう。みな雪をわけて、大変な思いをしながらかえっていく。しかしその家は、本当は自分の家ではない。だれかから盗んだ家なのだ。

家というのも、人から盗んでくることができるのですよ。この世にある現象はみな、見えない世界にある何かに根差さねば、起こらないのです。見えない世界に何も持っていなければ、この世で何も持つことはできない。家を持つことができない人は、だれかからその何かを盗んで、この世界に無理矢理自分の家をつくることがあるのです。

今の時代の人間は、すごくたくさんの人が、そういう盗みをして生きている。そうして神が与えてくださった人生を、自分で勝手に改変して生きているのです。

そうして手に入れた家も、いずれは雪のように解けていくのだが、人々はそれを知らずに帰っていく。

それがまるで、何かの運命に向かって並んで歩いていく巡礼のようだ。だが、彼らには何もわかりはすまい。

雪は静かに降っている。何も言いはしない。






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蟷螂のおの

2018-02-17 04:18:50 | 短歌






蟷螂の おのが身をとふ ちひさくも よき鎌ありて よきわれを知る





*「蟷螂の斧」ということわざにかけて、「蟷螂の」を「おのれ」を呼ぶ枕詞のように使ってみた作例です。

取るに足らないものという意味でつかわれることわざだが、たとえ小さくてもそれは自分にちょうどいい鎌で、あることが自分らしくてすばらしくよい。そういう意味の歌です。

確かに蟷螂の斧は、蟷螂が生きるためにはとても役立つものなのだ。花の影にかくれて、ふらふらと寄ってきたちょうちょなどをとらえるのには実に役に立つ。あなたがたも見たことがあるでしょう。カマキリがちょうちょをとらえるときのすばらしい技を。目を見張るほどの速さで、あっという間に見事にとらえる。

車軸や城壁などにぶつかっていくから、馬鹿になるのだ。かまきりはかまきりらしく、野原の隅の花の影などにいれば、立派に美しく自分を生きることができる。

神はそれぞれに、自分にちょうどいいものを与えてくださっているのです。

本当の姿とはそういうものだ。

だが人間は時に、神が与えてくれた正直な自分の姿を嫌がり、勝手に自分の姿を改造することがあるのです。

霊的技術でね、まるでサイボーグのように、自分を理想的な形にしたがるのだ。足を長くしたり、顔を流行の美形にしたり、美しい髪を盗んで自分につけたり。そうして恐ろしく完璧に見える美形を作ったりするのだが。

それがあまりにもおかしい。やっていることは、美人の尻を見ているくらいのことなのに、姿かたちはまるで天使なのだ。天使がどんなことをしているか、彼らはまるで知らないのだ。ただ自分がいやで、限りなく美しくなりたくて、馬鹿みたいな美形をつくり、それに自分がなるのです。

蝶を狩ることくらいしかできないのに、城壁も崩せるブルドーザーのような鎌を自分につけたりするようなものだ。何もできないのに、かたちだけはみごとに立派なのだ。

それがとても恥ずかしいことなのだと、人間もようやくわかってきた。

感性が進歩した人間にはもう、馬鹿どもが作った人工的な美形が、とてつもなくおかしなものに見えるのです。

人間を漫画のようにしてしまっている。見栄えで人を馬鹿にするために造った美形は、ひどく醜く見える。美しいつもりで作った完璧な形が、おそろしくいやらしいのです。

人間も蟷螂も、神がつくってくださった自然な形が一番いいのです。自分というものがわかる。それがどんなに不細工でも、そっちのほうがずっと美しいのだ。

もう人間も、少しずつ、本当の自分の姿に戻っていくでしょう。






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くらきひとや

2018-02-16 04:20:44 | 短歌




月影を くらきひとやに からめては 憂き世の罪を 刷らむとしけり





*「ひとや」は牢獄のことだ。文字数の少ない古語はできるだけ押さえておきましょう。覚えておくととっさに歌が詠みやすい。

宝石のことは玉といい、黒くなることを黒むという。古語にすると文字数が少なくなる言葉はたくさんあります。みそさざいのことをさざきというのはもう知っていますね。

古語辞典は宝の山だ。暇があれば読み込んで、いろいろな言葉を発掘していきましょう。

表題の歌はこういう意味ですね。

月影にたとえられるあのひとを、暗い牢獄にからめとっては、憂き世の罪を、印刷するようになすりつけようとしたことだ。

憂き世に生きる馬鹿な人々は、ただかのじょが美しいというだけで、頭から馬鹿だと決めつけて、嫉妬からいろいろな悪口を言ったのだが、陰から観察していくうちに、かのじょがとてもまじめないい子だということがわかって、彼らはとても焦ったのです。

このままでは自分たちがいやなやつになる。まずい。まじめないい子を、きれいだというだけでひどい悪口をしていやなことをした、馬鹿みたいに汚い奴になってしまう。

まあこういうところでしょう。馬鹿なことをした自分をごまかして、彼らは一切をかのじょひとりのせいにして、自分たちは逃げようとしたのです。

かのじょが、浮気みたいなことのひとつでもしてくれれば、なんとかして無理にでも悪い子にして、全部あれのせいだにして、逃げるチャンスもつかめたかもしれないが、残念ながら甘くはなかった。彼らが目をつけていた美女の正体は、何にも悪いことができない、がちがちのまじめ男だったからです。

清廉潔白ということばが、女性レベルにまで清らかになってしまったような男だったのです。

金剛石より硬い。

だから影からかのじょをいじめていた馬鹿どもは、ことごとく敗れ去った。何も悪いことをしてくれなければ、何にもならないからです。

いやなことは全部人に押し付けて、自分は何もいいことをせずに、人を馬鹿にしてばかりきた馬鹿どもは、結局人に頼るしかない。自分では何もできない。だからすべてがおじゃんになるまで、馬鹿なことばかりやって、全員が奈落に落ちたのだ。

自分たちが開けた奈落の穴にです。

結局かのじょは最後まで何も悪いことをせず、それどころか人類の救済のための大きな手を打って、清らかなまま死んだからです。

かのじょを裏からいじめた馬鹿どもがどういうことになったかはもう知っていますね。ここではもうことさらに言いますまい。

今まで逃げ続けてきた、自分が本当にやらねばならないことが、いっぺんにおしよせてくると、そういうことになるのです。






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梅の花

2018-02-13 04:22:56 | 短歌





ひとえだを たれにささげむ 梅の花 冬をこらへて 咲くくれなゐを




*この項が発表される頃はもう二月の中旬だ。きっと梅の花も咲いていることでしょう。

ことしはことのほか春が楽しみです。

これを書いている今は、まだ一月の中頃で、空き地の陽だまりにようやくなずなが顔を見せ始めたころです。オランダミミナグサの白いつぼみが見えているが、まだ思うようには咲いてくれない。日は確かにだんだん強くなってきているが、まだ風は冷たい。

毎日花の写真をあげてブログを更新しているが、その花を探すのにも苦労している日々です。

梅は花の魁とも言われる花だ。冬をこらえて、まず一番の咲く花だということです。かのじょの書いた短詩にもありましたね、春の字の最初の一画を書くのだと。かのじょらしい表現だ。かわいい。

年月が去り、深まってくると、ことあるごとにあの人を思い出す。そしてもう会えないことがたまらなくさびしくなる。

人の暗い迷いの時代を冬にたとえれば、その冬を耐え忍んで、最初に咲いてくれたのが、かのじょの仕事だと言えましょう。逆風という逆風を耐え忍んで、あの一冊の日記を書いてくれた。

あれで、たしかに、人類は自分に気づいたのだ。あれが始まりだった。

その仕事をだれにささげよう。

かのじょは迷うことなく、それを神にさしあげました。苦労してやっと書いた日記を、何もいらぬというようにあっさりと捨てましたね。

あなたがたは、信じられなかったでしょう。どういうことになったかは、かのじょも知っていましたよ。自分にとりついている男たちが、どんなことをするかということを、推測できない人ではない。

かのじょは、あれでいいのです。ここで自分がそれを捨てれば、神がそれを使ってすべてをやることができる。ほかには何もいらない。

男というのはいつも、女をあなどりすぎて失敗するのです。男の理屈がみな、女に通用すると思うから馬鹿になる。

男が欲しいと思っているものを、女が欲しがるとは限らないのです。

自分を維持するために、あるいは必要以上に自分をよく見せるために、男が欲しがっているものを、時に女は、冷めた目で見ているのです。






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ふつかづき

2018-02-12 04:18:03 | 短歌





ふつかづき おほき闇夜を 抱きつつ 細きおのれを ゆふそらに描く





*二日月というのは、名の通り、新月の次の日の月です。とても細い。細すぎて、見たものも少ない。だがそれは新月ではない。確かに細い光がある。

二日月は、大きな闇夜を、すなわち欠落を抱きながら、細い自分を、夕空に描く。

まあわかるでしょう。人間だれしも、欠落は持っているものだ。欠点のない人などいない。自分が自分で、他人とは違うというだけで、それを大きすぎる欠落と感じる人もいる。

この世界には人間の数だけ個性がある。馬鹿みたいにたくさんいるのだが、ひとりとして同じ人はいない。みな、ほかとは違う自分なのだ。

こんな世界で、自分を頼りなく感じすぎて、他人になりたいなどと思うと、きつすぎる闇が待っている。どんなに他人を食っても、次から次と新しい個性が見えてくる。全部がうらやましい。妬ましい。全知全能の絶対神などないのに、そんなものになりたいという馬鹿な夢さえ描いてしまう。

馬鹿はそういうはてしない闇の中にいる。

自分を嫌だと思うだけで、永遠に続くのかと思うくらい、苦しい闇が続くのだ。人がうらやましい。ねたましい。あんなものになりたいのになれない。全部殺してやりたい。自分ではないというだけで、みんな自分よりいいから。

そういう馬鹿どもが、この世界にどんな破壊の夢をもたらすかは、もう勉強しましたね。神がつくってくださったこの自分を、嫌だと言うだけで、そのものは、世界をさかさまにして、あらゆる存在を馬鹿にする破壊魔になるのです。

そういう馬鹿に落ちないためには、どんなに頼りなく思えても、その自分を確かな自分のものとして背負うしかない。いやなものではない。この自分もまた、ほかにまたとないおもしろい自分なのだ。たとえ今の自分がふつかづきのように細くたよりなくとも、この自分をまっとうに生きて努力していけば、どんどん自分として大きくなっていける。

何度も言ってきたことだが、何度も学びましょう。それが勉強です。二日月の細いかたちも、何度も描き重ねていくうちに、くっきりと輝いて来る。

今はまだ確かに細くて頼りない。まだ何もしていないからです。だが、未来はたんとある。今からでも、自分にできることを、どんどんやっていきましょう。

そしてその自分を、どんどん育てていきましょう。






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凡庸の群れ

2018-02-11 04:19:14 | 短歌





あだし世を さへづりわたる 凡庸の 群れを憎みて われを憎まず





*ツイッターでは、大火のつぶやきがメインとなっていますが、朝の歌集も細々と続いています。有名な昔の歌をあげて、その本歌取りのあと10首ばかり仲間と交互に詠みあげるのですが。

けっこうながながと続いている。毎日続けるのはけっこうきついですよ。目立たぬことだががんばっている。こういう地味ながんばりがわたしは好きです。なにごとも、こういう積み重ねから生まれてくるものだ。

まことを積み重ねているものは、普段はあまりよけいなことは言わない。自分にできる本当のことをコツコツと積み重ねていくうちに、かなり痛いことができる自分になっている。その力で、時に痛いことをする。

先日はある短歌の団体に挑戦状をつきつけてみたりもしました。しかし返事は来なかった。短歌の世界の今の貧しさを憂うることもあほらしいと思っていたら、大火が新しい文芸活動を起こせなどという声をあげてくれた。たのもしい人だ。わたしのやりたいと思うことを言わないでもすぐに表現してくれる。

おわかりでしょうが、この原稿を書いているのは一月の中旬です。

表題の歌はこういう意味ですね。

この無情な世の中を、うるさい鳥のように盛んにさえずる、凡庸の人の群れを憎んで、自分のことは憎まない。

自分も凡庸の群れに飛び込んで痛いことを言ったくせに、みんなが悪いんだと言うことにして、自分は責めない。

そういう人はよくいます。全部を人のせいにする。自分では何もしない。何の責任もとろうとしない。

できることさえやらないから、いつまでも何もできない、何もない。

そういう人だから、集団の中に飛び込んで、集団の力で、自分の低級な思いをかなえようとするのです。

自分で、責任をとらねばならないことを背負って、やらなければ、いつまでも何もない人であり続けます。そういう人たちが、いつも集団の闇にはまって世間に難を振りまくのだ。

みんなに迷惑をかけているのだ。

毎日人のあらを探して文句をいう暇があったら、少しは何かを自分でやりなさい。いつまでも集団の闇に逃げて人を馬鹿にしてばかりいるのではない。

自分を背負う自分になり、自分というものをやりはじめない限り、人間というものは、何もせぬ迷惑なものの群れにしかなれないのです。






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清きみづ

2018-02-10 04:18:25 | 短歌





村肝の 心に清き みづありて 玉のごときの 魚あまたすむ





*「村肝の」は「こころ」にかかるまくらことばですね。一応こういうことはいちいち抑えておきましょう。わかっていても、繰り返しおさえていくことが勉強を深める。人のこころは「肝」にあると昔考えられていたかららしい。たしかに心がつらいときは、肝(内臓)がしぼられるような感じがするものです。痛みがあるところに心があると、昔の人は考えたのか。

「むら」は何かが群がっていることを表すことばだ。自分の中に何か苦しいものが群がっている。そういうことを感じることがありますね。そういう心のはたらきというものを、なんとなく「むらきも」と言ったのか。「むらくも」と通じるところが、人の、自分の心に対する感じ方を表現しているようで、おもしろい枕詞です。

表題の歌は、昔かのじょが見た夢に材をとっています。一度ブログでも語ったことがあるのではないでしょうか。

自分の心の中に、とてもきれいな泉があって、その中にはとてもきれいな魚がたくさん泳いでいた。誰かがそこにきて釣り糸を垂らして魚を釣ったが、その魚が盲の小さな魚だったので、その人は泉を馬鹿にして去っていった。

もう一度釣り糸を垂らしてくれれば、もっと大きくてきれいな魚が釣れたかもしれないのに、その人はたった一匹の魚だけで、全部を判断して、行ってしまった。

それがとても悲しかったという夢でした。

ご承知のとおり、かのじょはとても豊かな才能をもっていました。しかし生前、それを認めてくれた人はほとんどいませんでした。いえ、皆無と言っていいほどだった。ただひとりだけが、かのじょの処女小説に対して、本当のことを言ってくれただけだ。

それは地方の小さな同人誌の主宰者でしたが。その人の率直な意見も、誰も聞いてくれなかった。

馬鹿な人たちは、ただ美しいというだけで、かのじょのすべてを否定したかったのです。ですから、たった一匹の盲の魚くらいのことで、かのじょを全否定し、拒絶したのだ。拒絶どころではない。この世界で最もいやなものにしようとして、あまりにもえげつないことをした。

たった一匹の盲の魚とは何でしょう。それは襟から出ていたたった一本のほつれ糸だとか、袖についていた小さな汚れだとか、それくらいのものだ。

そんなことでその人の人格を全否定するのが馬鹿というものなのです。

どんな美しい立派な人でも、目を皿のようにしてあらを探すのだ。それでなければ自分が苦しいのです。あからさまにひどいことをしている自分がつらくてならないのだ。

馬鹿な人たちのかのじょへのいじめは狂っているとしか言いようがなかった。醜いなどというものではなかった。何も悪いことはしていないというのに、平気で、地獄に落としてやる、というのだ。

永遠に忘れることはできない。

もうあんな馬鹿どもは二度といやだと、神さえ思うようになるまで、あれらは恐ろしい馬鹿をやり続けた。

一体彼らのこころには、どんなものが群がっていたのか。

想像したくもない。






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野の月

2018-02-09 04:18:23 | 短歌





はかなきと 見えてくづれぬ 野の月を うらみぬきてぞ 人はかなしき





*「ぞ」~連体形の係り結びですが、こういうのはやりこなしていくと自然にできるようになりますね。練習というのは大事だ。繰り返しやっていくうちに染み込んでくるように身について来る。

自分が向上していくのは楽しいでしょう。

これを書いているのは一月の中旬です。昨日は久しぶりにある短歌の団体に挑戦状をつきつけてみました。一夜明けて、答えが返ってくるかと見てみましたら、やはり返ってはいませんでした。

できないのでしょう。沙羅がいくつか例作を作ってくれましたが、それにならって何らかの歌を詠ってくれた人はいたらしいのです。しかしそれらはその団体の優れた人の作ではない。代表者はすぐに逃げたらしい。

どうもね。何でそんなことになるかというと、自分を高くしすぎているからです。普段から偉そうにしすぎているのでしょう。無名の歌人から挑戦されたら、それを上回る歌を詠わねばならないのだが、それができない。

だから無視黙殺するよりしかたがないのだが。

それをみんなに見られている。

世間はどう思うことでしょうね。

結局この世界の今は、嘘ばかりなのだ。巌のごとき真実はなく、はりぼてのような建前だけを着飾って、いかにもよいもののように見せているだけなのだ。だから、真実をつくようなことをされては、何もできない自分をさらすだけなのだ。

それはそれとして、表題の作に行きましょう。

はかなくよわいから、すぐに馬鹿になると思っていた人が、予想以上に手ごわくて、全然崩れないのを、恨みぬいた人ほど、かなしいものはない。

馬鹿だったらよかったのに、馬鹿ではなかった。予想以上に高く、硬かった。みごとに美しい人だった。その真実を認められず、恨みぬいて全部をだめにしてしまった。

人間というものは、自分を馬鹿だと思い込んでいるものですから、なにもかもが馬鹿だと思いたいのだ。それでないと激しく自分がつらいのです。

なにもかもが馬鹿でなければ、馬鹿なことをしている自分が苦しすぎる。だから影でずるいことをして、自分より優れていると感じた人を巧妙につぶしたりなどするわけだが。

そんなことをして自分が向上するわけがない。痛いところをつかれれば、崩れるのは自分の方なのだ。

すぐれて高い人は、本当にいるからです。






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見るべき空

2018-02-08 04:18:29 | 短歌





いやさかる 里のあかりを とほくみて けふ去る人の 見るべき空は





*「いやさかる(弥離る)」は、いよいよ遠ざかる、という意味のことです。だんだん遠ざかっていくという意味ではなく、すごく遠くなってしまったという深い感慨があります。

ひどく遠くはなれてしまった、ふるさとのあかりを、遠く見て、今日去って行く人の、見るべき空とは。

助詞で終わるのは、それ以後の言葉が省略されているからです。この場合略されているのは、どこなのだろう、くらいの意味でしょう。

彼らのこれから見るべき空はどこなのだろう。

人を馬鹿にするにも、人間ではないということをやりつくしてしまった人たちが、どういうことになったかは、この項が発表される頃には、皆さんにもわかっていることでしょう。

愚かなどというものではない。馬鹿が大勢に隠れてやれば逃げられると思っていたが、そんなに甘いものではなかった。人間の技術が低かった時代では、雲を霞と逃げられたかもしれないが、今の人間はすばらしいことができる。ネットの網は個人を逃がしはしない。おまけに進化した感覚が、容易に何をした人間かということを見抜く。

もうわかっているでしょう。かのじょを影からいじめていた人間の目には、ある種の影がある。共通した闇がある。謀略でいい女を馬鹿げた地獄に落とそうとした、醜い心が見える。それはどんなに装ってもごまかすことはできない。

みながそれを見分けることができるのです。そしてそれはたとえ生まれ変わっても消えはしない。永遠に残るのです。

何千人という人がそのいじめに参加したが、この時代の人はそれをだれひとりとして逃さなかったようです。すべてをつかまえたようだ。何がどういうことになったかは、詳しくはここでは言いますまい。

そうなって当然のことをしたのだ。

あの人は清らかな愛で国のために祈っていた。忙しい子育ての合間を縫い、勉強の合間をぬい、地元の神社に通って国のために祈っていた。国は大いに助かっていた。それを影から馬鹿にして笑っていた人たちが何を言っていたのかを、みなが知っている。

彼らは、国を馬鹿にしたと同じことをしたのです。いえ、国を滅ぼしたのと同じことをしたのです。

そんな人たちには、もうこの国に居場所はないのです。






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君の心

2018-02-07 04:18:20 | 短歌





とほつひと 松のもとがね 文ひろひ 君の心を ねがひともせむ





*「とほつひと(遠つ人)」は「松」にかかる枕詞です。古語辞典にはいろいろな枕詞が載っている。珍しいのを見つけたら早速使いたくなってしまいます。スキルをあげるためにも、おもしろいものを見つけたら積極的に使ってみてください。

この歌は、かのじょが詠んだこの歌に対する返しとして詠われたものです。


あしひきの やまぢのまつの もとがねに のこせしふみを たれやひろはむ


山道に生えた松の根元に残してきたわたしの手紙を、誰が拾うだろう。

要するに、自分の本当の心を誰がわかってくれるだろう、という意味ですね。こういう読解は簡単です。前にも言ったように、これは松陰のことを意識して詠んでいますが、同時に自分の心のことも詠っているのです。

それに対し、表題の歌はこう歌っているのです。

松の根元に落ちていた手紙を拾い、あなたの本当の心を、わたしの願いとしよう。

要するに、人を救いたい、そのためにあらゆることをしたいと願っていたあなたの心を、ひきついでさしあげよう、という意味です。

それはこの人生を、かのじょからもらったわたしたちに共通する願いです。

本当は最後までこの人生を全うしたかっただろう。だが様々な障害からそれができなかった。いかにも簡単に、わたしたちに人生を譲ってくれたが、悔しさが何もないわけではない。愛するものたちのために、もっといろいろなことをやりたかったろう。

その思いを無視することなどできない。わたしたちも、かのじょと全く同じことはできないが、わたしたちにできることで、かのじょの願いをできるだけかなえてやりたいと願うのです。

かのじょの願いはすべての人類を救い、次の段階に導くことでした。はっきり言ってそれは無理だ。多くの馬鹿が目の色を変えて攻撃し、かのじょを滅ぼした結果、かのじょの願いは二度とない甘い救いとならざるを得ない。

しかしわたしたちもまた、できるだけ多くの人間を救いたいとは願うのです。

落ちるものを無情に切る者もいれば、その影で密かに、いろいろな人を救おうとしているものもいる。

すべての人間を救いたいと言うかのじょの願いは不可能かもしれない。だがそれは、背後に照る月のように、われわれの心に影を注いでいる。

何かをしなくてはならないと、焦りのようなものを感じるのも本当なのです。






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