アジサイ 2006-06-22 07:06:15 | 自然 アジサイの花には、雨がよく似合う。シトシトと降り続く雨のなかを、傘をさしながらアジサイの花をながめる。自然との対話をとおして、自分を取り戻す。 « 夏至 | トップ | 庭仕事の愉しみ »
6 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 夏狭間 (picomi) 2006-06-22 14:20:30 雨に濡れている紫陽花を観ると、喜んでいるように思います。花言葉はあまりいい意味にはとられないようですが、梅雨の少し前ほんのり色づいてくる紫陽花を毎年みると、はじらっているようで、初めて化粧を施してもらう少女のように感じます。そして私もその頃を懐かしく思うのです。 返信する 七変化 (都筑) 2006-06-22 22:36:34 picomiさん、あじさいの花が少しずつ色合いを変えていく様は、子どもから大人への階梯を少しずつ登っていく時期と重なって見えますね。後戻りできないところも、そっくりだといえるかもしれません。でも後悔は決してしない。きっぱりと、あじさいは生きているように思えます。 返信する 不思議さに目を見張る好奇心 (yuta) 2006-06-22 22:54:12 都筑先生,こんばんわ。ザンザンぶりの雨の中,実習先回りをして以来,雨のことが気になっていました。そして,レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーの中で,また雨に出会いました。不思議さに目を見張る能力は,自然の中に生きることで,湧き出てくる,好奇心によってのみ育つものなのかもしれないと思います。 返信する 心の捉え方 (雲遊四海) 2006-06-23 01:04:01 先生のBLOGを読んで、思ったのが、先生が自分の心と真直ぐに向かい、ささやかな感覚もしっかりと捉えている事の喜びはきっと大きいでしょうね。日々自分の微妙な変化に気づきながら、はっきりした「形」にならなくて焦ります。朝起きて、恋しい太陽の輝きに感動されますが、人に話すきっかけもなければ、書く場所もありません。一人でその感動を忘れてゆくしかない侘しさ。多摩動駅までの山道で、ネコと遊び、カタツムリに遭遇し、雨に洗われた木々の瑞々しさに目を潤しながら、どしどしと歩くうちに、それらの記憶が足元で砕かれてゆく喪失感。あげくれるうちに、己が散ばりつつあるようです。痛々しいか。成長していますか。問う、問う、問う。 返信する 傘をさして歩く (都筑) 2006-06-25 17:10:23 yutaさん、傘をさして楽しく歩いていた子どもの頃を思い出します。足下は長靴でした。川が氾濫して水が出て、大人も子どもも大騒ぎ。でも今は暗渠になってしまいました。自然との乖離が大きくなるにつれ、人々の好奇心も薄れがちです。だめですね、これでは。 返信する ゆとり (都筑) 2006-06-25 17:13:43 雲遊四海さん、コメントありがとう。心にゆとりがないと、なかなか周囲に目が行きません。立ち止まって風景を見る時間が、生活のなかの余分なものになってしまいます。「明日できることを、今日するな」と心で反芻しつつ、ゆとりを保とうと試みています。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
日々自分の微妙な変化に気づきながら、はっきりした「形」にならなくて焦ります。朝起きて、恋しい太陽の輝きに感動されますが、人に話すきっかけもなければ、書く場所もありません。一人でその感動を忘れてゆくしかない侘しさ。多摩動駅までの山道で、ネコと遊び、カタツムリに遭遇し、雨に洗われた木々の瑞々しさに目を潤しながら、どしどしと歩くうちに、それらの記憶が足元で砕かれてゆく喪失感。あげくれるうちに、己が散ばりつつあるようです。痛々しいか。成長していますか。問う、問う、問う。