昨年の12月24日(月・祝)、私は久留米市のホテルを出て、西鉄久留米駅から電車に乗り、西鉄柳川駅を出ました。福岡県柳川市の観光をするためです。
西鉄柳川駅を出て、最初に向かったのは川下りの乗船場です。
朝、8時くらいだったので、まだ営業していません。船がたくさん繋留されていました。
そこから歩いて観光することとしました。水郷と呼ぶだけあり、水路が素敵な空間になっています。
柳川古文書館が有りました。
「立花宗茂と誾千代を大河ドラマに」と書かれた幟が立てられています。
申し訳ないのですが、私はこのお二方について、知りませんでした。立花宗茂は、初代の柳川藩主です。高橋宗茂として元服し、立花道雪の一人娘の誾千代と結婚し、立花家に婿養子として入りました。誾千代はなんと女性でありながら、1575年(天正3年)、立花城主として7歳で家督を継いだそうです。女性でしたが、かなりの武人だったようです。1581年(天正9年)に13歳で宗茂(15歳)で結婚しています。
立花宗茂は豊臣秀吉の配下となり、手柄を立てます。豊臣秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評されたそうです。そして、柳川の地を豊臣秀吉から与えられ、初代藩主になったのだそうです。
関ヶ原の合戦では、立花宗茂は西軍に付き、敗れます。しかし、陸奥棚倉藩主で大名に復活し、その後、再び柳川藩主となります。旧領地に復帰した唯一の大名だそうです。
柳川城堀水門が有りました。
「水の城」と言われた柳川城に二ツ川から水の引く3つの水門のひとつだそうです。柳川城の要となる水門だったそうです。
アサヒみそ・しょうゆさんが有りました。
さらに鶴味噌さんが有りました。
そして、3連のレンガ造りの倉庫が堀に映えるところが有りました。トップの写真の並倉です。明治後期に建築され、鶴味噌さんの麹室として使用されていたそうです。
歩車分離式の信号で、手押し式なのを初めて見ました。
柳川城は取り壊され、一部が残っているだけです。天守閣の石垣だけです。
旧戸島家住宅を拝見しました。
福岡県の文化財です。
柳川藩士だった吉田兼儀の隠居後の住処として建築されたそうです。2階建の茅葺の住宅です。
「日本の古い住宅には、必ず「陰と陽」があるな。」と私は感じています。
庭も素敵でした。
下の写真は何と漁港です。
ちゃんと防潮堤があります。沖端漁港です。
北原白秋記念館に近づくと、素敵な堀の景色が有りました。
堀沿いの魚屋さんで、見つけました。「干しワラスボ」です。
堅いので、包丁の背で叩いてから、焼いて食べるのだそうです。エイリアンのような頭は食べないようです。
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