チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

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2007年09月17日 11時43分15秒 | 歴史・社会的状況
オーストリア・ハンガリー帝国の実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848-1916)の在位60周年記念公式葉書
王権神授説を最後まで信じ、この皇帝の老害とともにこの帝国は滅びると言われ、実際その通りに滅亡しました。


3.南スラヴ人の国「ユーゴスラヴィア」の建国

第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国、ドナウ帝国)が崩壊し、南スラヴ地域に対するハプスブルク家の支配力が失われました。

1918年10月6日、ハプスブルク帝国内の南スラヴの政治指導者は、クロアチアのザグレブで、南スラヴ統一を目的として「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」(以下、民族会議と記載)を創設しました。

1918年10月29日、民族会議は、ハプスブルク帝国内の全ての南スラヴ地域から構成される「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設を宣言しました。
この民族会議の影響力は、セルビア王国と山国の小国であるモンテネグロ王国には及んでいませんでした。
あの当時のこの地域の大きな勢力は、南スラヴの盟主とみなされ南スラヴ全体の統一をもくろむ「大セルビア主義」をかかげていたセルビア王国、ザグレブの民族会議、そしてスロヴェニア・イストリア半島・ダルマチアの占領を狙うイタリア王国でした。

この10月29日の宣言の際にクロアチア議会は、非常に意味深な行動を取っています。
ダルマチア出身のクロアチア人議員を巻き込んで、中世以来のクロアチアの悲願であった、クロアチアとスラヴォニアとダルマチアを合わせた「三位一体王国」の創設をいったん宣言したのです。これは、明白なクロアチアの独立宣言でした。
(備考: スロヴェニアとスラヴォニアは異なる地域ですので混同なさらないで下さい。)
ここに「大クロアチア主義」と呼ばれるクロアチアの本音を見ることができます。
しかし、彼らは自分たちだけでクロアチアを狙うイタリア王国やセルビア王国に対抗する力を持っていませんでした。
このためクロアチアはやむを得ず、この「クロアチア三位一体王国」の独立宣言をした後に、この国をスロヴェニアやボスニア・ヘルツェゴビナを含む「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の中に入れ込む形にしてセルビア王国やイタリア王国に政治的に対抗しようとしたのです。

あの当時のザグレブの民族会議を取り巻く政治状況は以下のように危機的でした:
①ロシアの共産主義革命の影響による革命気運の影響や農民による土地占拠による社会的混乱
②スロヴェニアの首都リュブリャナに向けてイタリア軍が侵攻を開始しましたが、スロヴェニア人の将校グループが進軍を阻止しました。
③決定的になったのは、ロンドン秘密条約に基づいてイタリア王国がローマ帝国の領土であったアドリア海沿岸のダルマチア地方に艦隊を派遣し軍事占領を開始したことであり、「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」はイタリア王国の軍事力により国土の一部を占領されてしまいました。ザグレブの民族会議がこのことを知ったのは11月24日でした。

イタリア王国に対する軍事的対抗力を持たなかったザグレブの民族会議は、セルビア王国の軍事的保護下に入るしか選択肢がなくなったため、1918年11月27日にセルビア王国との統一を進めるためにセルビア王国の首都ベオグラードに向かいました。
あの当時の新国家の構想としては、「コルフ宣言」と「ジュネーブ宣言」の二つが存在していました。
実際に採用されたのは、セルビア王国のカラジョルジェヴィッチ王朝のもとでスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人が居住する全ての領域からなる立憲君主国を建国する「コルフ宣言」でした。この宣言では、新国家を連邦制にするか中央集権制にするかは触れられていませんでした。
ザグレブの民族会議にとり不幸なことに、憲法制定議会により統一国家の形態を決めるまでセルビア王国政府と民族会議が共存して統治する連邦的構想であった「ジュネーブ宣言」は採用されませんでした。これは、主としてセルビア側が大セルビア主義による南スラブ全体の中央集権的支配をもくろんでいたことによると思われます。

1918年12月1日午前8時、ザグレブの民族会議から事実上の白紙委任状を渡されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の成立を宣言しました(後に1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)。
ここで気をつけるべきなのは、最初は「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」と呼ばれセルビア人が最後に書かれていたのが、新王国では「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とセルビア人が最初に書かれて、セルビア人に優先権が与えられていることです。この点でもセルビア王国の支配の意図は見えています。

1921年に実施された国勢調査をもとに、アメリカのユーゴスラヴィア研究者であるバーナッツは、ユーゴスラヴィア建国当時の人口1200万人の民族構成を次のようにまとめています:
セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリス人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(ルーマニア語系の言語を持つ)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%
また、宗教は、セルビア正教徒47%、カトリック教徒39%、ムスリム(イスラム教徒)11%でした。

このようにユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であったため、王国創立当初からさまざまな衝突と弾圧が起こりました。
特にセルビアとクロアチアの対立は深刻で、1918年12月からセルビア軍はクロアチアの強制的軍事占領を開始し、あたかも敵国を占領下に置くような行動をとりました。
これは、第一次世界大戦中に、クロアチア人がオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士としてセルビア王国に侵攻し、セルビア国民の実に43%を殺したことに対する報復であったのかもしれません。つい数ヶ月前まで激しい戦闘をしていたので、敵意は相当強いものがあったはずです。
そして、12月5日にはクロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対する虐殺を行ないました。これにより、クロアチアの郷土防衛隊は崩壊し、クロアチアの軍事力は失われました。

このような最初の軍事的対立が後々しこりとして残って増幅され、やがて議会の紛糾、政治家の暗殺、国王暗殺、第二次世界大戦中のクロアチアによるセルビア人虐殺の悲劇、1990年代の内戦と虐殺へと発展していきます。これらは郵便切手や郵便史にも反映されていきました。


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