チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

190111裏 小包第1期 オーストリア切手の使用、郵便代行業者での取り扱い、Porto手書き加刷

2007年09月25日 22時04分06秒 | 小包第1期
190111裏 小包第1期 オーストリア切手の使用、郵便代行業者での取り扱い、Porto手書き加刷、代金引換金の為替送金

到着印:
郵便局:RAKEK STARI TRG 16 1 19 (1919年1月16日)
ドイツ語表記の地名ALTENMARKT b. RAKEK(この表記の意味は「RAKEKの近くのALTENMARKT」)から、前半の「ALTENMARKT b.」だけを除去し、RAKEKのみを残してユーゴ化しています。STARI TRGはスロヴェニア語表記です。
このように、ドイツ語表記の一部RAKEKとスロヴェニア語表記STARI TRGを二つとも残した理由は、スロヴェニア語でRAKEKという町の近くにSTARI TRG村がありましたので、そのことを郵便印に表示するためです。
この後しばらくして、この村の郵便局のスロヴェニア語の正式名称はSTARI TRG pri RAKEKUとされました(この表記の意味は「RAKEKの近くのSTARI TRG」です)。

郵便代行業者(Postablagen):
スロヴェニア語表記BABNOPOLJE (RAKEK) (タイプ2bx)
上の欄に表示されていたドイツ語表記のBABENFELD(RAKEK)は削除されてユーゴ化されています。
郵便代行業者(Postablagen)の郵便印が押されていますので、この小包は官営の郵便局から郵便代行業者(商店あるいは旅館)に送られて受取人に送達されたことが分かります。

備考:
私は約16年間この分野の郵便史文献と主要なオークションカタログを見ており、また1980年初め以降のこの領域の研究誌のバックナンバーは見ていますが、スロヴェニアの郵便代行業者で小包が取り扱われた使用例をこれ以外に見たことはありませんので、恐らく稀な使用例だと思われます。他にこのような例をご存知でしたらお教え下さい。
スロヴェニアの郵便代行業者が葉書や郵便小切手を扱った使用例は、小包に比べれば多く見られ、私の手元にも約50通のカバーがありますのでいずれご紹介いたします(ただし官営の郵便局での葉書や郵便小切手の使用例よりは圧倒的に少ないことは確かです)。
旧ハンガリー王国領のクロアチアの郵便代行業者の小包の取扱い例は、何度か見たことがありますし私も3例のカバーを持っていますので、これもいずれご紹介いたします。

不足切手:
スロヴェニア普通切手5vinar(Mi.100石版)に赤インクでPortoと手書きで加刷して不足切手として使用しています。この使用は、STARI TRGへの小包の到着から受取人への引渡しの間に行われたはずですから、1919年1月16日から25日の間(チェインブレーカー発行後14日~23日後)に行われたと考えられます。
この不足切手は、郵便代行業者BABNOPOLJE (RAKEK)の郵便印の上に貼られていますので、郵便代行業者に小包が到着した後に貼られています。そして、郵便代行業者は、各種の配達の代行権限を与えられていましたから、赤インクでPortoと手書きで加刷して使用したのは、郵便代行業者であると考えられます。
尚、1919年1月にスロヴェニアの普通切手にPortoとハンドスタンプまたは手書きで加刷して不足切手として使用した例は稀です。この時期は、オーストリア帝国の不足切手がまだ多量に残っていましたから、こちらの在庫を優先して使用していました。1919年1月16日から25日の間(チェインブレーカー発行後14日~23日後)に使用されたPorto手書き加刷は、早期使用例であると考えられます。

料金:通知料金5vinar (小包の受取人から徴収し不足切手で領収)

消印:ほとんど判読できませんが二重丸印が押されています(RAKEKの一部がかすかに見えます)。オーストリア帝国の郵便規則では、郵便代行業者が切手に消印をすることは許されていません(*1)。郵便代行業者を監督する決済郵便局が消印を行うことになっており、この場合はSTARI TRGの郵便局が消印をしたはずです。このため、このほとんど判読できない消印はSTARI TRGのもので間違いないと考えています。
備考(*1):ただし、郵便代行業者の受け持ち地区内で郵便物が投函され、受け持ち地区内にその配達先がある場合には、郵便代行業者による切手の消印が認められていました。

受取人サイン日付:1919年1月25日

代金引換金の郵便為替送金:
代金引換金の小包発送者への送金のための郵便為替書式は、小包送票から剥ぎ取られていることの方が多く、このように完全な形で貼られたまま残っている例は稀です。この例では、ドイツ語とスロヴェニア語の二ヶ国語表記のオーストリア帝国の書式がそのまま使用されています。
代金引換金35Kronenの徴収は郵便代行業者が行い、決済郵便局STARI TRGに送ったと考えられます。そして代金引換金35Kronenから、50Kronen以下の郵便為替料金25vinarを差し引いた34.75Kronenを小包の発送者に送金しています。
郵便代行業者には郵便為替の消印をする権限がありませんから、決済郵便局STARI TRGの1919年1月26日の消印が押されています。

郵便代行業者(Postablagen)について
コスト面で官営の郵便局を設置できない場所で、その地域の有力な商人や旅館に郵便業務の一部を委託したオーストリア帝国の制度です。活動内容は、最初は切手の販売、郵便ポストからの手紙の回収、普通郵便物の引き受け・配達でした。1903年からは、書留郵便物、保険付書状、100Kronenまでの郵便為替、軽い小包の受付と引渡しも行われました。
ユーゴスラヴィア建国後も、しばらくはオーストリア帝国時代の制度がそのまま適用されました。1921年9月10日に郵便代行業者の服務規程がリュブリャナ郵政局の官報に告示され、ユーゴスラヴィアの新制度となりましたが、オーストリア時代の規定が雛形となっていました。郵便代行業者は名誉職であり報酬はありませんでした。
備考:日本の小学館の独和大辞典は、Postablagenを簡易郵便局と和訳しています。この言葉では日本のものと同じであると誤解されますので、郵便代行業者という言葉を使用します。

参考文献
(1)郵便為替料金について
Nachrichtenblatt der Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten 47/93, p.732-735 (1993)
Pror. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Ausgewählte Postgebühren in Slowenien 1918 bis 1921
スロヴェニアにおける1918年~1921年までの郵便料金選集
(2)郵便代行業者(Postablagen)について
Prof. Dr. Anton Lavrič
Postablagen auf slowenischen Gebiet in Jugoslawien 1918 bis 1941 (1994)
1918年~1941年までのユーゴスラヴィアのスロヴェニア地域における郵便代行業者


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