チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

190307裏 小包第1期ハンガリー+クロアチア正刷混貼り、小包私書箱保管料金

2007年10月08日 16時51分34秒 | 小包第1期
190307裏 小包第1期ハンガリー+クロアチア正刷混貼り、小包私書箱保管料金

到着印:BIJELJINA 14. III. 19 C(1919年3月14日)、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POSTを削除したユーゴ化した消印。同型の消印で3月20日付のものも押されていますが、これが押された意味は不明です。
引渡し印:BIJELJINA 21. III. 19 *(1919年3月21日)
受取人サイン日付:1919年3月21日

証示印:AUSGEFOLGT LAGERZINS K. h.
AUSGEFOLGTは「交付された」という意味であり、小包の受取人への引渡しを示します。LAGERZINSは「保管料金」という意味です。
14日に到着し21日に引き渡しているので7日間保管していますので小包私書箱での保管料金が徴収されたのは確実です。ただし、保管料金に相当する不足切手は小包送票に貼られていません。BIJELJINA は小さな町ですから、恐らく小包私書箱への保管料金が5heller徴収され、別の書式で処理されたと推定されます。

190307表 小包第1期ハンガリー+クロアチア正刷混貼り、小包私書箱保管料金

2007年10月08日 16時50分31秒 | 小包第1期
190307表 小包第1期ハンガリー+クロアチア正刷混貼り、小包私書箱保管料金

第1期、旧ハンガリー王国領クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナ宛て
小包送票:ハンガリー王国10 fillér(小包送票代金の収入印紙、小包料金に含まない)、ハンガリー語・セルボクロアート語表記、黄色紙、小型
小包ラベル:Varaždin 884
切手:ハンガリー2 Korona(Mi.204)2枚
クロアチア正刷10 filir(Mi.91)、同20 filir(Mi.92)、合計430 fillér(filir)
料金手書き:無し

料金計算:
重量料金17 kg----420 fillér
価格表記(保険)料金250 Kronen----10 fillér
合計430 fillér (貼り付け切手と一致)
備考:旧ハンガリー王国領からボスニア・ヘルツェゴビナ宛ての小包では、通知料金や配達料金は小包の発送者から徴収されません。

消印:VARAŽDIN 919-MAR-7-N4 D(ハンガリー型消印) (1919年3月7日)

190306 裏 小包第1期 オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て

2007年10月08日 16時49分17秒 | 小包第1期
190306 裏 小包第1期 オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て

到着印:MOSTE pri LJUBLJANI 9. III. 19 a (1919年3月9日) スロヴェニア語表記。ドイツ語表記のMOSTE bei LAIBACHは削除されユーゴ化されています。
受取人サイン日付:1919年3月10日
通知料金:この小包送票には不足切手の貼り付けも、現金支払いの記載も無いため、別の書式で処理したと考えられます。

190306 表 小包第1期 オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て

2007年10月08日 16時48分31秒 | 小包第1期
190306 表 小包第1期 オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て

第1期、オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て
小包送票:オーストリア帝国12 heller(小包送票代金の収入印紙、小包料金に含まない)、ドイツ語、白紙
小包ラベル:Unter Drauburg 26 (ドイツ語表記)

切手:オーストリア1 Krone(Mi.199)、2 Kronen(Mi.208)、スロヴェニア20 vinar(Mi.103石版)、合計320 heller

料金手書き:
右上:小包発送料3.20 Kronen
右下:通知料金5 vinar (通知料金は受取人から徴収し不足切手で領収する)

料金計算:
重量料金14.5 kg---320 heller
合計320 heller (貼り付け切手と一致、料金手書きと一致)

消印:UNTER DRAUBURG 6. III. 19 (1919年3月6日)ドイツ語表記、スロヴェニア語名DRAVOGRAD

備考:ユーゴスラヴィア軍によるケルンテン州の占領
ユーゴスラヴィア軍によるケルンテン第1次占領は、1918年11月初めから1919年5月初めまで行われましたが、いったんオーストリア軍がケルンテン州を奪還しました。
そして再びユーゴスラヴィア軍が侵攻し、1919年5月末から1920年10月末まで第2次占領が行われました。一部の地域を除き、1920年10月10日の住民投票によりこの地域の帰属が決定され、オーストリアへの残留が決まりました。
UNTER DRAUBURG (DRAVOGRAD)の第1次占領は、1918年11月7日から1919年5月6日まで行われました。この町はいったんオーストリア軍に奪還されましたが1919年5月28日から再びユーゴスラヴィア軍の占領下に入り、住民投票の結果を待たずにユーゴスラヴィアへの併合が行われました。
この小包送票の使用例は、約半年間続いたUNTER DRAUBURG (DRAVOGRAD)の第1次占領の時期の使用例です。

参考文献
Poštni žigi na Koroškem ケルンテンの郵便印
スイスのArge der Balkanländerの会長Thomas Artel氏よりご提供いただいた資料です。