水上洋甫こと、霧笛同人の藤村洋介君の第一詩集。
あとがきに
「この詩集には東日本大震災後、私の故郷である宮城県気仙沼市で綴った詩を掲載しております。Ⅰ心には震災詩と郷土詩を、Ⅱ鼓動には童謡詩と被災地の生活で抱いた葛藤を中心にまとめました。詩「復興元年」は第十二回「詩のボクシング」全国大会で発表したものです。被災地の物理的だけでなく精神的復興への願いや自身の決意の表れです。いち被災地の住人の詩ですが、皆様の心に少しでも届けば幸いです。」(74ページ)
とある。
藤村君は、われわれ詩誌「霧笛」の若きメンバーで、震災後、気仙沼さいがいエフエムのパーソナリティーを務めるなどしながら、詩のバラエティ番組、「よっちとユビーンのポエムバラエティ」の制作、MCを担当、この7月からは、コミュニティエフエムに衣替えしたラヂオ気仙沼(ぎょっとエフエム)で、「よっちとユビーンのポエット☆ポエット」に、番組も衣替えして継続している若者である。
「いつもの夏」という詩を引く。
「いつかの夏の。
どこかの夏の。
わっと風吹き帽子さらって
背高雲の頭まで。
僕よりも太陽に近い君になら麦藁帽子を差し上げます。
水花火浴び素肌透かした
水浅葱の晴れ衣。
初恋の川と再会できたなら君が濡れても構いません。
みなの夏。
僕の夏。
永遠の夏。」(52ページ)
この夏は、詩人自らの記憶の中の夏であり、あるいは、読書した本の中の夏であり、ということは、日本人の記憶の中の夏ということになり、広く言えば人類の記憶の中の夏ということにもなる。
ここには、さまざまな小説の、詩の、あるいは映画の中の夏が重層している。
谷川俊太郎でいえば「ネロ」だったり、最近では、宮崎駿の「風立ちぬ」、その先には、堀辰雄の高原のサナトリウムでなんとかいう小説の「風立ちぬ」、その映画化された山口百恵の「風立ちぬ」、麦わら帽子が高原の風に飛んでいく「人間の証明」などの映画もある。数え切れないほどの夏、風、麦藁帽子の記憶、詩、小説、エッセイ、映画、テレビドラマ。
花火、浴衣、初恋という言葉を拾えば、そこではまたさまざまの作品が指折り数えられる。そこには、樋口一葉の小説、竹久夢二の挿絵などもあるかもしれない。明治大正の東京、江戸情緒、大川(隅田川)の花火。
そういう重層した部厚い文化、文学の歴史の最先端で、水上洋甫は、一作品を積み重ねる。
そして、もちろん、かれ自身の、気仙沼みなとまつりの花火、出店の記憶がある。
少し、細かく読み込んでみると、第2連~4連まで、
「わっと風吹き帽子さらって
背高雲の頭まで。
僕よりも太陽に近い君になら麦藁帽子を差し上げます。
水花火浴び素肌透かした
水浅葱の晴れ衣。
初恋の川と再会できたなら君が濡れても構いません。」
ここでの「僕」は、詩人自身と言っていいのだと思う。「君」というのは、背高雲だと読める。背が高くて、太陽に近い。背高雲が、麦藁帽子をかぶったイメージ。次の「水花火」というのは何だろう?
花火大会の高く上がった花火が光って、背高雲の表面を彩る、透き通って見える、それが水浅葱色に、美しく淡い青色に染まったように見える、色鮮やかな浴衣に見える。
というようなイメージだろうと思う。
それが「初恋の川と再会」するとはどういうことなのか、「君が濡れ」るとはどういうことか。ここで、字面を読んでいるだけではよく分からない。
雲から雨が降って、山から川に流れ込み、海に流れ下り、また蒸発して雲になるという自然界の循環のことや、気仙沼らしく「森は海の恋人」のことも念頭にあるのかもしれない。
このあたりのイメージの流れが、読むものにストレートに伝われば、分かりやすくなる、味わいがくみ取りやすくなる、とは言えるだろう。
詩人が、さまざまなイメージを持っているというのは大前提で、それが、言葉の連なりにどう表現されるか、そこに「詩」というものの生命線がある。言葉の連なりとして、どう読み手に伝わっていくか。
もう一点。
七五調の問題を、あえて書いておく。
和歌、俳句、落合直文や島崎藤村らの明治の新体詩、さらに昭和の歌謡曲まで引き継がれる五七五の音律。
現代詩においていったん否定されながら、萩原朔太郎や中原中也があえて再び使った七五調。
いまも、短歌、俳句の伝統の定型詩の世界でめんめんと引き継がれている七五調。
これを肯定して、自らのものとして使い続けていくということであれば、それはそれで一つの道である。
詩人、水上洋甫は、七五調に対してどういうスタンスを取るのか。肯定であれ、否定であれ、自らのスタンスを決めること。これは、ひとつ、課題として考えてみてほしい。
もう一遍、「ラジオ」という詩を引く。
「見えぬあなたに話します。
今日の天気は晴れでしょう。
見えぬあなたに伝えます。
今夜、華が咲くでしょう。
華を見て、
幼いあなたは言いました。
きっとじいちゃん観ているよ。
今日もあなたに伝えたい。
マイクに向かって。
電波にのって。」(18ページ)
ここは、シンプルに、詩人の使命が宣言されている。「私」はここでこういう役割を果たしていきますと。
詩集を通して読んで、ここには、確かに、水上洋甫の世界が存在している、というふうに思わされた。この気仙沼という場所で、水上洋甫こと藤村洋介くんの世界が進展して行く、進歩し展開して行くということを、切に願っている。
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