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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

大塚信一著 「松下圭一 日本を変える 市民自治と分権の思想」 トランスビュー

2015-11-27 00:49:52 | エッセイ

 岩波書店の編集者、社長であった大塚信一氏は、退職後、自らが担当した著者について、その仕事の全体像をまとめた大部の評論を著されている。取り上げられている方々は現代の日本をつくり上げた大学者たちと言って過言ではない。

 「哲学者・中村雄二郎の仕事」、「河合隼雄 心理療法家の誕生」、同じく「河合隼雄 物語を生きる」、そして「山口昌男の手紙」いずれも出版社はトランスビューである。

 そして、実は、この3方は、私自身が大きく影響を受けてきた学者である。哲学、精神分析、文化人類学の第一人者。「岩波文化人」みたいな言い方があって、私もそういう文化的な傾向の、ダイレクトな影響のもとで育ってきたと言っても良い。(ちなみに上記4冊のうち3冊、河合隼雄の「心理療法家の~」を除いては読んでおり、いかに岩波書店、大塚氏の影響下にあったか、一冊読むたびに気付かされたということになる。)

 さて、そこで松下圭一である。丸山眞男門下の政治学者。地方自治論の先駆者。2000年地方分権改革のイデオローグ。

 今年2015年5月に死去された。縁あって8月29日に吉祥寺で催された「おくる会」に参加することができた。

 上記の3氏は、大学時代にはすでに存じあげていたお名前であり、著作も読み始めていたはずが、松下圭一氏については、大学を出て、市役所に職を得、自治体学会に参加したころにようやくそのお名前を聞いたのであると思う。逆に、自治体学会の総会時のレセプションなどで、直接にお目にかかったことも何度かあり、ご挨拶もさせていただいたこともある。

 面識があったということが、一種身近な存在と感じさせた、ということもあるのかもしれないが、松下氏は偉大な先駆者であるとしても、地方自治という部面でのビッグネームというふうに捉えていたようなところがある。

 ところが、このところ、実は、現代の日本全体の中でも、巨大な思想家のひとりであったと再発見させられた、というようなことになる。

 実際、松下圭一という名前は、ある種の人々から見ると、諸悪の根源であるかのように捉えられているようでもある。特定のイデオロギーの主導者であると。松下の唱える「市民の自治」ということが悪しきイデオロギーだと主張する人々がいるらしい。民主主義の国だというとき、自由だとか人権だとかの言葉が大切にされなければならないのはいうまでもないことだ。グローバルな観点での分類において「自由」と「人権」という価値観を共有する国に暮らしていると主張するひとびとが、実際のところその国内で「自由」と「人権」をどれだけ大切にしているか、ここに逆説があるとしたら、どんなことになるのだろうか?自由と人権を大切にしない自由主義陣営など存在し得るのだろうか?

 「市民の自治」を大切にするというごく当たり前の価値観を主張する松下圭一が、ある種のひとびとから目の敵にされている。それだけ大きな影響力を持つ思想家であるということになる。

 政治学者松下圭一は、イギリスの哲学者、政治学の祖というべきジョン・ロックのはじめての本格的な紹介者として、その仕事を始めたといっていいようだ。

 この本の巻末に収められた松下自身の手になる「私の仕事」に下記のように書いている。

 

 「17世紀、ヨーロッパ《近代》を構想して「啓蒙哲学」の祖となり、ルソー、カントへの系譜もかたちづくったロックについて、一九五九年、日本で初めての本格研究となる私の第一作『市民政治理論の形成』(岩波書店)を刊行した…」(338ページ)

 

 そして、市民活動とか、自治体改革、〈官僚内閣制〉から(国会内閣制)へ、など現在広く使われることになった言葉、すっきりと端的に言い切った言葉の造語も松下の能力である。

 これも、同じく「私の仕事」から。

 

 「高度成長期の一九六〇年代以降は、日本の《現代》への移行をめぐって、いずれも日本で初めて理論化したのだが、(1)のちにボランティアからNPO、NPOも当然含むことになる市民活動の理論化、(2)市民自治を基点に政治を多元・重層化する自治体改革の提起、さらに(3)国政をめぐる官僚法学・講壇法学の理論再編、くわうるに「国会」また〈官僚内閣制〉の制度改革という、三層の「複合改革」をめざしていく。」(339ページ)

 

 市民とか、自治とか、そうそう、今広く使われる自治体という言葉を広めた張本人が松下圭一である、といって間違いないようである。

 憲法や地方自治法には「地方公共団体」という言葉は出てくるが、「自治体」という言葉は出てこない。それをことさらに「自治体」という言葉は法学的には間違った言葉遣いだなどと言い立てる輩もいるようである。そんな言葉を使う松下圭一とその追随者たちはけしからんと。逆に、そういう輩こそ浅はかなもの言いなのである。

 そこには「国家」というものの捉え方の違いがある。

 

 (そこでいう国家は、実は行政体のことに過ぎず、行政体の中で相応の影響力、権力を持っている人間にとっては、その行政体を至上のものとして守っていくことにメリットがあって、行政体=国家と意図的に混同してものを言っているのだ。

 中央政府=行政部のみを中心にいう「国家」と、立法、司法、行政の3権を包含するだけでなく、地方自治をも含み、さらに根源的には全国民でもあるような「国家」、このふたつの「国家」という言葉は、実のところ内実が全く違うものだ。

 現在の国家が、行政部が、異常に肥大化したもの、とはいっても、歴史的に形成されてきたものであることも確かだが、国家=行政府と言ってもいいくらいに行政部が強大であることは間違いないことだ。

 で、実は、今の日本は、中央から地方まで貫徹して、行政が強大である。立法に比して。さらに市民に比して。というようなことを、ちょっとまとめて書いてみたいとは思っている。ただし、それにはそれなりの経緯と理由もあるのではあろう、というようなことも含めて。これは、松下理論そのままであろうと思うし、ひょっとすると、多少の敷衍ということになるのかもしれないが。)

 

 松下は、国家から、国際機関へ委譲し、一方で自治体へ分権し、というふうに、権力が分割されていくというようなことを言っている。国家が解体される方向へ進んでいくというような。これは、ある種、グローバリズム、新自由主義のイデオローグかということにもなるところである。ある意味ではそのとおりとなる。しかし、松下が、国家を否定し、ゆくゆく解消されるべきものと言っているわけではない。今よりは弱くなったとしても、きちんとした役割は残るはずである。

 現在の国家=行政府であるような強すぎる行政権力は、解体的に改変されなければならないと言っているのは確かだろう。

 それと、ムラ社会を脱すること、悪しき共同体を解体すべきこと、という論点。

 いま、共同体をどう捉えるべきか。

 私の敬愛する森の哲学者、内山節の唱える共同体の復権というか、再構築というか。

 このあたりは、これから、私なりに整理していかなければいけないことと思っている。

 地方自治体のきちんと機能する国家は、これまでの国家とはずいぶん違ったものになるはずである。

 さて、冒頭の方に、大塚氏が引いている、松下の言葉がある。

 

 「主体の解放は論理的な観念処理によってなされるのではなく、フィクションを生きることにより、具体的には階級に見いだされる個人の実践を通してのみ、新しいフィクションへの開放がなされるのである。」(38ページ)

 

 若き松下圭一が、「フィクションを生きる」と語っている。これは、大学の卒論での私のテーマそのものであり、現在でも、私の根幹を作っているような言葉である。ここで、こういう言葉に出会うということは有難いことであった。

 ところで、大塚氏のこの著作の紹介を書くにあたって、大塚氏自身の言葉はひとつも引用しなかった、引用はすべて、松下圭一氏の言葉の孫引きであるが、このこと自体は、この本の趣旨から言って許していただけるものと思う。

 大塚氏の著作は、最近の宇沢弘文についてのものと、上記の河合隼雄のもう一冊の方、あと、編集者としての回想のものか、ぜひ、引き続き読んでみたいものである。

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