ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

サルトル作 海老坂武・澤田直訳 自由への道 1 岩波文庫

2014-05-19 01:29:46 | エッセイ

  岩波文庫版で全6冊のうちの第一分冊。第一部「分別ざかりの」のⅠ(1)からⅨ(9)まで。

 「自由への道」である。20世紀文学の大作。若い頃から、いつか読まなければというリスト(頭の中の、だが)に入っていた作品のひとつ。

 そうだな。ここ何年かで、と言っても十年来ということになるか、ベンヤミン「パサージュ論」、プルースト「失われた時を求めて」、ジョイス「ユリシーズ」と読んで、モンテーニュ「エセー」は、白水社の宮下志朗訳が、第四分冊まで出て途中で途切れたままになっていて、「自由への道」は、とりあえず第二分冊まで買っておいて、しばらく本棚に並べておいた。

 基本的に、読まない本は買わない主義で、でも、まあ、一部、読まないままになっている本も本棚には残っているのだが、割合としては、ほんとうにごく少ないと言っていいはずだ。この本は、確か、震災前には買っていた。奥付を見ると、2009年8月6日の第2刷になっている。出て、間もなく買っているのだと思う。第一刷は、同年6月16日のようなので、はじめての文庫化なのだろうか、出足は良かったようだ。

 最近は、十冊程度まとめて買って、順番に読み、読み終える頃にまたまとめて買うというふうにしているが、東浩紀の「セカイからもっと近くに」を読み終え、熊谷達也の仙河海シリーズ二作目「微睡みの海」は、講演会で、サインもらいながら直接購入したのを読み終え、ストックに一区切りついたところで、さて、と気合いを入れてとりかかることにした。

 大作は、やはり、読み始めるのに気合いがいる。

 でも、読み始めてみると、案外、すいすいと読めたりする。

 ジャン・ポール・サルトルは、20世紀フランスの哲学者、小説家。実存主義を掲げ、戦後の日本にも巨大な影響を与えた人物。大学にポストを持った講壇哲学者ではない。雑誌を創刊するなどジャーナリスティックな活躍、と言ったほうが良いのかもしれない。ノーベル文学賞に選ばれたが、辞退した。

 小説は、「嘔吐」、「自由への道」、戯曲として、「蠅」、「出口なし」、哲学書として「存在と無」、「弁証法的理性批判」など。

 実は、私自身、大学ではサルトルを学ぼうとした。卒論は、サルトルの「存在と無」、「想像力の問題」にあたった。題は「生におけるフィクションについて」というものだった。(最も、原著にあたる力はなく、人文書院の翻訳によった。)

 人間は、自由であること、そして、自らの責任で人生を生き、人生を形づくって行かなくてはならないこと。人生をフィクションとして生きること。人生を小説のように生きること。

 それは、絵空事にように生きること、空想的に生きることでもあったかもしれない。どこか現実的でなく、ふわふわといつまでも子どものように生きること、であったかもしれない。

 実際、今に至るまで、私は、そんなふうに生きているのかもしれない。

 しかし、自らの道は自ら切り開いていくべきこと、想像力をもって創造すること。

 受動的に、誰かから与えられた条件を鵜呑みにして因習のなかでのみ生きていくことはまっぴらだ、と。

 能動的に生きること。

 サルトルは、私の、少なくとも半分以上を作った。

 その後、レヴィ=ストロースの批判も大きかったのだろうが、急速に時代遅れのひと、みたいになっていった。

 人間の自由さなど何ほどでもない、みたいな。人間は、生まれる前から決まりきった状況の中で、決まり切った人生を歩むほかないのだ、みたいな。

 さまざまな社会の制度や言葉、それらは、ひとが自由に決められるものではない。前もってすでにあるものだ。自由に作り出せるものではない。身の回りの家族だとか、会社だとか、そんなものも、自分でどうこうという以前から存在し、押さえつけ、圧迫し、自分で自由になるものでない、ぼくの自由、などというものは存在しようもない。

 既成の共同体のなかで、人間はがんじがらめに生きている。

 それはまさしくそうなのだが、だが、そんなことばかりではない。というか、思いのまま自由になるものではないとはしても、なにも思わずに状況に流されるままに生きていればいいと言うのではない。何ごとかを成そう、成し遂げようと言う意志なしに生き続けていられるわけではない。

 能動的に、自由に、想像力をもって生きること、創造しつつ生きること。

 実は、100%の能動ということはありえない。受動の無い能動はありえない。

 自動車が前進するのは、摩擦力があるからだ。タイヤと地面のあいだに摩擦力があるからこそ、クルマは前に進む。もちろん、ブレーキも摩擦力があるから機能する。前進するのも停止するのも摩擦力のお陰だ。

 人間が生きていくのも、同じこと。人間は、自分の意志で生まれ出ることができるわけではない。誰かに生んでもらってこそ生きられる。こんなことは言うまでもないことで、親がいるから子が生まれると言う至極当たり前のことだが。

 人間は、ひとりぼっちでは生き延びることができない、なんらかの共同体があるからこそ人間は生き伸びていける

 それはそうなのだが、そのなかで、与えられた条件の中だけで生きることは生きていることといえるだろうか、ということだ。与えられた条件のなかに、自ら与える条件を加えていくこと。忍びこませること。条件を少しづつ変えていくこと。

 能動的に、自由に、想像力をもって行動すること。行動して、既定の在り方を少しづつでも変えること。共同体に対して変更を加えること。あるいは、新たな共同体を組織すること。

 私は、そういうふうに生きてきた。それは、もちろん、サルトルにならってのことだ。サルトルは、わたしを作った。

 一方で、構造主義のレヴィ=ストロースや、受動の知(臨床の知)の中村雄二郎も、一定程度、私を作っているのだが。

 ちなみに、最近は、自由と共同体という言葉が、サルトルが活躍した当時とは、まったく違う意味合いで、ある意味では逆転した意味合いで問題となっている。一世紀もたたないうちに、問題が全く反転してしまっている。このあたりのことは、私にとっても、巨大な問題である。なんどか、この問題の周りを撫でるように書いてみてはいるが、そう簡単なことではない。

 現在の、そうそうたる思想家が考え、研究し、書いていること。それらは、まさしくこの問題をめぐってのことなのだ。

 さて、この本のカバーの扉にこう書いてある。

 「マチウ、三十四歳、自由を主義とする哲学教師。」

 自由を主義とする。

 なるほど。

 いかにも青臭い。三十四歳にもなって、いつまでも、大人になりきらない。

 この哲学教師というのは、フランスの高校の教師。フランスでは、高校最上級で哲学の講義がある。この教師になるには、パリの高等師範学校を卒業し、資格を取得する必要がある。この高等師範は、エコール・ノルマル・シュペリールと言って、フランスのエリート養成のグランゼコールのひとつで、大学ではない。(あ、直訳すると大学校だから、ユニベルシテとか、ユニバーシティというよりも、言葉的に大学に近いということになるかもしれない。)大学よりもっと難しい。

 この高等師範を出て高校の教師になるのだが、そのあと、大学の教師となるというのが、ひとつのパターンなのではないか、と思う。

 (ああ、日本でも、大学院を出たら、まず、高校の教師になって、それから大学の教師になる、というのを、通常のコースにする、ということもあるのかもしれないな。現在のいろいろな問題を解決する手法になる可能性もある。難しいか。)

 扉の裏の続き。

 「その恋人が妊娠した。堕胎の金策に走り回るマチウ、悪の意識を研ぎ澄ます友人ダニエル、青春を疾走する姉弟。第二次世界大戦前夜パリ三日間の物語。大人とは?参加=拘束(アンガジュマン)とは?自由とは?二十世紀小説の金字塔。」

 この第一分冊の段階では、自身をモデルにしているかのような主人公マチウはいかにも青臭い。自由について考え、それを主義にすると言うが、単に放縦であるとか、女を妊娠させても責任をとらないとか、どうも子供っぽい理屈を並べているに過ぎないようにも見える。作家サルトル自身の未熟を表しているようにも見えてしまう。しかし、マチウの兄とか、恋人マルセル(シモ―ヌ・ド・ボーヴォワールがモデル、全部ではなくとも、少なくとも一部はモデルのはず。)の言動は、別の視点のものだ。言うまでもないが、主人公の生きている時間よりも後の時間を生きて、モノを書いている。

 さて、この続きは、どんなことになっていくのか?

 第二分冊は、また少し、別の本を読んでから手をつけることにしよう。


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